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上四元クシナ
憂慮
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正直、上四元クシナのつきまといが執拗になってたことよりも今の懸念材料はあのアツミさんへの彼女の態度であった。
ならばアツミさん直接聞けばいいのかもしれないけれど、妹が何かしたのではないかと人のいいお姉さんに余計な心配をさせるのも不本意である。
上四元姉妹とは付き合いの長い我が姉に訊けばとも考えたけれど、これはこれで勘ぐられそうで遠慮しておきたいところ。
けっきょく答えのないまま、爆弾を抱えたような日々を上四元クシナと過ごさねばならなくなり、僕のストレスは貯まる一方であった。
当然、
「まさかアツミさんの妹だったとはな。大穴ってレベルじゃないぞ」
こんな風にロクに絡まれたりする。
第二次上四元クシナ襲来以降、もう学園ではそういうことになっているらしい。
一年二組のニノマエは瓊紅保女子の生徒と懇ろになっている、と―――。
否定する気力はない。とはいえ、このままにしておくつもりもない。
昼休み。
いつもの指定席に着いてすぐ、ロクが芸能リポーターのごとく被り寄ってきた。
「で、あの妹ともうやっ……」
いい切らないうちに、ロクが言葉を飲む。視線は隣のシギに向けられている。どういう質問内容かは大体想像がつく。
最近シギは三苫さんか僕らか、半々くらいの割合で昼食パートナーを替えている。
ロクは三苫さんに一緒に座らないかと誘うこともあるようだけれど、やんわり断られているみたいだった。
「ナギ、お前が誘えば一発オーケーだぞ」
そう含み笑いを見せるたびに、睨むけれどもちろん意味などなさない。
不自然なカタチで言葉を切ったロクを気にするでもなく、シギは今週のお勧めメニュー、熱々の鉄板ナポリタンと格闘している。
「アツミさんの妹さんってすごくきれいなんだってね」
じゅうじゅうと音を立てながら絡められるケチャップをまとったリングイネと鉄板にうっすらと敷かれた半熟卵の艶が食欲を刺激する。
「まあきれいっちゃあ、きれいだな、うん。なあ?」
ロクがわざとらしくこちらに振る。シギは同じ女子として純粋に上四元クシナに興味があるみたいだった。
「おっとりタイプのアツミさんとは真逆の元気いっぱい、活発なお嬢さんだよ」
どう答えようとネタにして引っ張りそうだったので、あえて無視をしていると、ロクが代わりに解説をする。無論、嫌味だろう。シギはフォークをくわえながらまだ見ぬ上四元クシナに思いを馳せているような口ぶりでいう。
「友達になれるかな」
シギの性格からして刺々しい空気にはならないであろうけれど、噛み合わないのはなんとなく想像できる。もちろん、会ってみたら意外と、なんてことだって可能性はなくはないのだけれど。
「で、さっき言いかけたことだけどよ」
教室に戻ってからも、というか戻ってからが本番とばかりに好奇心むき出しに訊いてきた。
「してない」
いいたいことは分かっているので遮るように回答を提示する。ある程度、予想はできたのか続けてじゃあどこまでだよ、と顔を寄せてくる。
「どこまでもいってないよ」
「何のお話ですか?」
ふいの声に振り向くと、左衛門三郎のお嬢様がひっそりと立っていた。
「どこかへお出かけですか、一君」
左衛門三郎のお嬢様は興味深げにこちらを澄んだ目で見つめていた。いつものように影のように付き添っている三次はロクによる下世話な話の内容を理解しているのか顔をしかめていた。ロクとひと悶着あったあとに聞かされた五百旗頭君のことは果たしてどこまで本当なのだろう。
「……えっ、と」
ごまかすわけでもないけれど、勘違いを利用させて貰うことにする。
「上四元さんとどこかに遊びに行くっていう話を、ね」
いっておいてから、上四元クシナをさん付けしたことにこそばゆさを感じる。
左衛門三郎のお嬢様はあのアツミさんの妹さんですかと神妙に頷くと、
「ずいぶんとアグレッシブな方のようにお見受けしましたが、なにやら一君に迷惑をかけているようですね」
学園内の噂話を指しているのだろうか、端から信じていないようだった。このときばかりは左衛門三郎のお嬢様に心強さを感じる。
「お嬢様はナギとクシナ様の仲を信じていないわけ?」
ロクの言葉に左衛門三郎のお嬢様は当然とばかりに目を閉じてつんと顎を上げる。彼女の十八番だ。
「一君とは小学校から今日までずっと同じクラスだったのですよ。一君が、このようないい方は失礼ですが、あのような方とお付き合いするとは到底思い至りません」
逆にお聞きしますが、と左衛門三郎のお嬢様はロクを見やる。
「六反園君は一君の友人を自称なさっているようですが、そのような根拠のない噂話を本気で信じてらっしゃるのでしょうか」
ロクはじっとお嬢様の言葉を噛み締めるように聞いていたけれど、視線を落とすと妙に真剣な口調で誰ともなしにつぶやいた。
「本気にしちゃあいないさ。ただ、男女の仲ばっかりはなあ」
上四元クシナと僕、というよりももっと広義の意味で語っているように思えた。
左衛門三郎のお嬢様は黙って聞いていたけれど、それ以上は追及はしようとはしなかった。
「もしお困りでしたら、わたくしにご相談下さい」
どこぞの弁護士事務所の謳い文句みたいなことをいう。彼女に相談すれば具体的にどういうことをしてくれるのか興味もあったりするけれど、彼女は無関係だ。何よりこの件に関しては第三者においそれと相談できない気がした。
放課後。
一日千秋の思いで待っているという上四元クシナになすがままにされる時がまたやってきた。
「一君」
姉の恒例行事に赴くが如く、重い足取りで廊下を歩いていると、いつものように凜と佇む十鳥さんに呼び止められた。
どこかその思案顔には躊躇が幾分か揺らめいているようで、少なくとも楽しい話ではなさそうだった。
「アツミさんの、妹さんのことなのだけれど」
上四元クシナのことを口にしたことよりも、姉であるアツミさんの名前を呼んだことが意外であった。
「アツミさんのこと知ってるの?」
十鳥さんは、引っ越してきて最初に知り合った人なのと静かに微笑んだ。
「駅前にデパートがあるでしょう。学校が始まる前、あそこで買い物をしているときにレジで対応してくれたのがアツミさんだったの」
アツミさんが働いているのは瓊紅保駅前にあるかなり大きなデパートだ。元々は老舗の百貨店で瓊紅保に出店する数年前に大手流通グループの傘下になったとかで話題にもなっていた気がする。
基本、裏方の事務仕事が中心のアツミさんはたまに売り場に駆り出されると姉から聞いていたけれど、ちょうど接客した日に十鳥さんと出会ったようだった。
姉の見合いの日、ファミレスで十鳥さんが会釈をしたときのことを思い出す。あれはアツミさんへの挨拶だったのだと合点がいった。
「上四元さんが、どうかしたの?」
学園内に絶賛蔓延中らしい上四元クシナとの噂が十鳥さんの耳に入っていても何らおかしくはない。
「一君は、アツミさんの妹さんとつき合っているのかしら」
なんとなく、十鳥さんらしからぬ質問な気がした。ただ、興味本位で訊いているわけではなさそうだった。
「信じて貰えるか分からないけれど」
なるべく自然に話そう。ひと呼吸入れながら、そんな風に意識してしまい、かえって挙動不審の体になってはいないか不安になる。
「そういう関係じゃないんだ。アツミさんは姉の親友だから昔から知ってはいるけれど、上四元さんは本当に最近知り合ったばかりで……十鳥さんより遅いんだ」
十鳥さんを引き合いに出したのは余計だったかもしれないけれど、彼女はその辺りは気にする様子もなく、信じるわと断言した。
「一君がそういうのなら、私は信じる」
毅然たる態度の十鳥さんを眺めているうちに、昼休みの左衛門三郎のお嬢様が被った。
「なにか」
十鳥さんは考え込むときに見せるひとさし指の中節骨を唇にこすりつける仕草を繰り返しながら、可笑しそうに視線を落とした。
「私、嫉妬しているみたいね」
「……えっ?」
「気を悪くしてしまったのなら、ごめんなさい」
己の僭越さを恥じ入るような、品のある笑みをこぼす。嫉妬、と口にはしたけれど、特別な感情が沸き立ったというわけではなさそうだ。
「私に力になれることはないかしら」
ふいにそんなことをいう。目は真剣そのものである。
誰も巻き込みたくないという気持ちと縋りたいという気持ちが胸の中でじりじりとつばぜり合いを展開する。
十鳥さんはしばらく僕を射るように見つめていたけれど、どこか寂しそうに唇を噛んだ。
「押しつけがましいわね、ごめんなさい」
それじゃ、さよならと小さく言い残して十鳥さんは去って行った。彼女の好意を無下にしてしまい申し訳なく思う一方で、これでよかったのだと負け惜しみにも似た感情が玉虫色となって心の底に沈みこんでゆく。
その日もたっぷりとあちこちに連れ回され、いつものように家までやって来て夜にアツミさんが迎えに来るまで上四元クシナは姉とリビングで歓談に興じていた。
上四元クシナをシトラスオレンジがまぶしいコンパクトカーに押し込んだあと、やはりいつものように妹のことで迷惑をかけてごめんなさいと謝られた。
そんな姿を見ているうちに思い切って上四元クシナのアツミさんへの過敏な反応のことを婉曲ないい回しでもって訊いてみようかともしたけれど、余計な負担になるかもしれないし、そのことで姉妹の関係がこじれたらと考えると、けっきょく思い止まらざるを得なかった。
「……どうかした?」
押し出すつもりで開きかけた口元の変化を読み取ったらしく、アツミさんが覗き込むように僕に顔を寄せて来た。色白でつるっとしたその相貌はほんのりと上気している。あごまである長い前髪はセンターパートにしており、鎖骨の辺りでちらちらと揺れている外にはねた毛先はおそらくワックスだろうか、丁寧に仕上げられていた。妹とはまた違う、女性らしいとてもいい匂いがした。
「アツミさんと知り合いだって今日、十鳥さんに聞いたんですよ」
なんとか無難な話に持っていけた。ただ事実ではあるけれど、本題はまるで別のことではあったのだけれど。
「ええ。売り場に出ていた日に彼女にいろいろ訊かれたの。話しているうちに最近、瓊紅保に引っ越して来たって聞いて。それ以来、よくうちの店に来てくれるようになったのよ」
そこまでいうとアツミさんはああ、そういえばと手のひらを胸元で焦れたように合わせ、ふいに視線を落とした。
「ナナミのお見合いのあった日に十鳥さんと一緒にいたけど……ナギ君の彼女、なの?」
彼女、のところで消え入るようなトーンになった。気を使ったのかもしれない。
「いい友だちですよ。彼女、まだこっちに知り合いが多くないから、買い物とかに行ってるんです」
アツミさんは上目遣いでじっと一言一句聞き漏らさずといった風にこちらを見ていた。
「そっか……うん、そうなんだ」
上気した頬がさらに紅色に染め上がったような気がした。黒地に白の水玉プリントが映える丸首ブラウスと相俟って、その仕草はとても可愛らしかった。女子高生といってもじゅうぶん通用するだろうけれど、年上の女性に対して軽佻浮薄なお世辞は褒めるつもりでも当人には皮肉になりかねないので、気軽に口にしない方がいいだろう。
そのあと、とても饒舌になったアツミさんと世間話をしていたときだった。
一瞬、背筋が粟立つような不穏な気配を感じた。
車の助手席に憮然と佇んでいる上四元クシナがこちらを睨みつけている。最初は自分の身勝手な振舞いを棚に上げて、すぐに帰宅せずに話し込んでいる姉にいらいらしているだけかとも思ったけれど、憎悪があふれんばかりのその双眸には殺意すら感じ取れた。彼女特有の戯れ、人を弄する際に器用に使いこなす他の感情を極限まで排除した、怒りから来る高純度にして正真正銘、本物の殺意。あんな鬼気迫る表情は初めてだ。
異変に気づいたのか、アツミさんが振り向くけれど、すでに妹は前方を澄ました顔で眺めている。
「すぐに帰ればいいのに、毎日話につき合って貰っちゃってごめんなさいね」
切り上げ時だと悟ったのか、行儀よくサイドに流れている前髪をすっとかき上げながらアツミさんが名残惜しそうに微笑んだ。
「ナギ君と話をしていると、すごく楽しくて時間を忘れちゃうの」
濡れたような瞳を細めて首を傾げる。こういうあどけない言動もまるで嫌味にならない。
「私とは楽しくないのかしら」
片付けをしている姉がダイニングキッチンから声をかける。アツミさんは何いってるのよ、と流すと妹が待つシトラスオレンジに向かった。
「おやすみなさい」
クラクションを一つ鳴らし、手を振りながら笑顔で去るアツミさんを見送ったあと、ずいぶん話が弾んでいたわねと姉が茶化すような視線を投げてきた。
「毎日、アツミさん大変だよね」
姉のペースになるのも厄介なので、微妙に話題を逸らす。
「でも、アツミを見てるとそうでもなさそうだけど」
「……そうかな」
「むしろ迎えに来るのを楽しみにしているみたいよ」
確かに、妹を車に押し込んだあとは上機嫌で話をしてくれてはいるけれど、アツミさんの性格からして、不機嫌さを露にするようには思えない。人知れずにけっこうストレスを溜め込んでいるかもしれない。
「だとしても、あなたと話をしている時点でそのストレスもなくなっちゃってるんじゃないかしら」
そういうものだろうか。
「アツミね、昔からあなたのような弟が欲しいっていっていたのよ」
なにやら上機嫌な姉がそんなことを口にした。いつ頃だったか、確かそんなことをアツミさん本人からいわれたことがあった気がする。
「アツミの弟になりたい?」
いつの間にか傍らにいた姉が顔を覗き込んできた。からかっているようにも拗ねているようにも取れる。
返答に困っていると、アツミはやさしいものねとくすくす笑いながら僕の頬を人差し指で突いた。
その夜は布団の中に入ってもまんじりともせず、とても楽しそうに話をするアツミさんとそのアツミさんのことになると不機嫌になる上四元クシナを交互に思い浮かべながら、やはり姉妹の仲に他人が言及するのは厳禁、不可侵なのだろうかと煩悶するのだった。
ならばアツミさん直接聞けばいいのかもしれないけれど、妹が何かしたのではないかと人のいいお姉さんに余計な心配をさせるのも不本意である。
上四元姉妹とは付き合いの長い我が姉に訊けばとも考えたけれど、これはこれで勘ぐられそうで遠慮しておきたいところ。
けっきょく答えのないまま、爆弾を抱えたような日々を上四元クシナと過ごさねばならなくなり、僕のストレスは貯まる一方であった。
当然、
「まさかアツミさんの妹だったとはな。大穴ってレベルじゃないぞ」
こんな風にロクに絡まれたりする。
第二次上四元クシナ襲来以降、もう学園ではそういうことになっているらしい。
一年二組のニノマエは瓊紅保女子の生徒と懇ろになっている、と―――。
否定する気力はない。とはいえ、このままにしておくつもりもない。
昼休み。
いつもの指定席に着いてすぐ、ロクが芸能リポーターのごとく被り寄ってきた。
「で、あの妹ともうやっ……」
いい切らないうちに、ロクが言葉を飲む。視線は隣のシギに向けられている。どういう質問内容かは大体想像がつく。
最近シギは三苫さんか僕らか、半々くらいの割合で昼食パートナーを替えている。
ロクは三苫さんに一緒に座らないかと誘うこともあるようだけれど、やんわり断られているみたいだった。
「ナギ、お前が誘えば一発オーケーだぞ」
そう含み笑いを見せるたびに、睨むけれどもちろん意味などなさない。
不自然なカタチで言葉を切ったロクを気にするでもなく、シギは今週のお勧めメニュー、熱々の鉄板ナポリタンと格闘している。
「アツミさんの妹さんってすごくきれいなんだってね」
じゅうじゅうと音を立てながら絡められるケチャップをまとったリングイネと鉄板にうっすらと敷かれた半熟卵の艶が食欲を刺激する。
「まあきれいっちゃあ、きれいだな、うん。なあ?」
ロクがわざとらしくこちらに振る。シギは同じ女子として純粋に上四元クシナに興味があるみたいだった。
「おっとりタイプのアツミさんとは真逆の元気いっぱい、活発なお嬢さんだよ」
どう答えようとネタにして引っ張りそうだったので、あえて無視をしていると、ロクが代わりに解説をする。無論、嫌味だろう。シギはフォークをくわえながらまだ見ぬ上四元クシナに思いを馳せているような口ぶりでいう。
「友達になれるかな」
シギの性格からして刺々しい空気にはならないであろうけれど、噛み合わないのはなんとなく想像できる。もちろん、会ってみたら意外と、なんてことだって可能性はなくはないのだけれど。
「で、さっき言いかけたことだけどよ」
教室に戻ってからも、というか戻ってからが本番とばかりに好奇心むき出しに訊いてきた。
「してない」
いいたいことは分かっているので遮るように回答を提示する。ある程度、予想はできたのか続けてじゃあどこまでだよ、と顔を寄せてくる。
「どこまでもいってないよ」
「何のお話ですか?」
ふいの声に振り向くと、左衛門三郎のお嬢様がひっそりと立っていた。
「どこかへお出かけですか、一君」
左衛門三郎のお嬢様は興味深げにこちらを澄んだ目で見つめていた。いつものように影のように付き添っている三次はロクによる下世話な話の内容を理解しているのか顔をしかめていた。ロクとひと悶着あったあとに聞かされた五百旗頭君のことは果たしてどこまで本当なのだろう。
「……えっ、と」
ごまかすわけでもないけれど、勘違いを利用させて貰うことにする。
「上四元さんとどこかに遊びに行くっていう話を、ね」
いっておいてから、上四元クシナをさん付けしたことにこそばゆさを感じる。
左衛門三郎のお嬢様はあのアツミさんの妹さんですかと神妙に頷くと、
「ずいぶんとアグレッシブな方のようにお見受けしましたが、なにやら一君に迷惑をかけているようですね」
学園内の噂話を指しているのだろうか、端から信じていないようだった。このときばかりは左衛門三郎のお嬢様に心強さを感じる。
「お嬢様はナギとクシナ様の仲を信じていないわけ?」
ロクの言葉に左衛門三郎のお嬢様は当然とばかりに目を閉じてつんと顎を上げる。彼女の十八番だ。
「一君とは小学校から今日までずっと同じクラスだったのですよ。一君が、このようないい方は失礼ですが、あのような方とお付き合いするとは到底思い至りません」
逆にお聞きしますが、と左衛門三郎のお嬢様はロクを見やる。
「六反園君は一君の友人を自称なさっているようですが、そのような根拠のない噂話を本気で信じてらっしゃるのでしょうか」
ロクはじっとお嬢様の言葉を噛み締めるように聞いていたけれど、視線を落とすと妙に真剣な口調で誰ともなしにつぶやいた。
「本気にしちゃあいないさ。ただ、男女の仲ばっかりはなあ」
上四元クシナと僕、というよりももっと広義の意味で語っているように思えた。
左衛門三郎のお嬢様は黙って聞いていたけれど、それ以上は追及はしようとはしなかった。
「もしお困りでしたら、わたくしにご相談下さい」
どこぞの弁護士事務所の謳い文句みたいなことをいう。彼女に相談すれば具体的にどういうことをしてくれるのか興味もあったりするけれど、彼女は無関係だ。何よりこの件に関しては第三者においそれと相談できない気がした。
放課後。
一日千秋の思いで待っているという上四元クシナになすがままにされる時がまたやってきた。
「一君」
姉の恒例行事に赴くが如く、重い足取りで廊下を歩いていると、いつものように凜と佇む十鳥さんに呼び止められた。
どこかその思案顔には躊躇が幾分か揺らめいているようで、少なくとも楽しい話ではなさそうだった。
「アツミさんの、妹さんのことなのだけれど」
上四元クシナのことを口にしたことよりも、姉であるアツミさんの名前を呼んだことが意外であった。
「アツミさんのこと知ってるの?」
十鳥さんは、引っ越してきて最初に知り合った人なのと静かに微笑んだ。
「駅前にデパートがあるでしょう。学校が始まる前、あそこで買い物をしているときにレジで対応してくれたのがアツミさんだったの」
アツミさんが働いているのは瓊紅保駅前にあるかなり大きなデパートだ。元々は老舗の百貨店で瓊紅保に出店する数年前に大手流通グループの傘下になったとかで話題にもなっていた気がする。
基本、裏方の事務仕事が中心のアツミさんはたまに売り場に駆り出されると姉から聞いていたけれど、ちょうど接客した日に十鳥さんと出会ったようだった。
姉の見合いの日、ファミレスで十鳥さんが会釈をしたときのことを思い出す。あれはアツミさんへの挨拶だったのだと合点がいった。
「上四元さんが、どうかしたの?」
学園内に絶賛蔓延中らしい上四元クシナとの噂が十鳥さんの耳に入っていても何らおかしくはない。
「一君は、アツミさんの妹さんとつき合っているのかしら」
なんとなく、十鳥さんらしからぬ質問な気がした。ただ、興味本位で訊いているわけではなさそうだった。
「信じて貰えるか分からないけれど」
なるべく自然に話そう。ひと呼吸入れながら、そんな風に意識してしまい、かえって挙動不審の体になってはいないか不安になる。
「そういう関係じゃないんだ。アツミさんは姉の親友だから昔から知ってはいるけれど、上四元さんは本当に最近知り合ったばかりで……十鳥さんより遅いんだ」
十鳥さんを引き合いに出したのは余計だったかもしれないけれど、彼女はその辺りは気にする様子もなく、信じるわと断言した。
「一君がそういうのなら、私は信じる」
毅然たる態度の十鳥さんを眺めているうちに、昼休みの左衛門三郎のお嬢様が被った。
「なにか」
十鳥さんは考え込むときに見せるひとさし指の中節骨を唇にこすりつける仕草を繰り返しながら、可笑しそうに視線を落とした。
「私、嫉妬しているみたいね」
「……えっ?」
「気を悪くしてしまったのなら、ごめんなさい」
己の僭越さを恥じ入るような、品のある笑みをこぼす。嫉妬、と口にはしたけれど、特別な感情が沸き立ったというわけではなさそうだ。
「私に力になれることはないかしら」
ふいにそんなことをいう。目は真剣そのものである。
誰も巻き込みたくないという気持ちと縋りたいという気持ちが胸の中でじりじりとつばぜり合いを展開する。
十鳥さんはしばらく僕を射るように見つめていたけれど、どこか寂しそうに唇を噛んだ。
「押しつけがましいわね、ごめんなさい」
それじゃ、さよならと小さく言い残して十鳥さんは去って行った。彼女の好意を無下にしてしまい申し訳なく思う一方で、これでよかったのだと負け惜しみにも似た感情が玉虫色となって心の底に沈みこんでゆく。
その日もたっぷりとあちこちに連れ回され、いつものように家までやって来て夜にアツミさんが迎えに来るまで上四元クシナは姉とリビングで歓談に興じていた。
上四元クシナをシトラスオレンジがまぶしいコンパクトカーに押し込んだあと、やはりいつものように妹のことで迷惑をかけてごめんなさいと謝られた。
そんな姿を見ているうちに思い切って上四元クシナのアツミさんへの過敏な反応のことを婉曲ないい回しでもって訊いてみようかともしたけれど、余計な負担になるかもしれないし、そのことで姉妹の関係がこじれたらと考えると、けっきょく思い止まらざるを得なかった。
「……どうかした?」
押し出すつもりで開きかけた口元の変化を読み取ったらしく、アツミさんが覗き込むように僕に顔を寄せて来た。色白でつるっとしたその相貌はほんのりと上気している。あごまである長い前髪はセンターパートにしており、鎖骨の辺りでちらちらと揺れている外にはねた毛先はおそらくワックスだろうか、丁寧に仕上げられていた。妹とはまた違う、女性らしいとてもいい匂いがした。
「アツミさんと知り合いだって今日、十鳥さんに聞いたんですよ」
なんとか無難な話に持っていけた。ただ事実ではあるけれど、本題はまるで別のことではあったのだけれど。
「ええ。売り場に出ていた日に彼女にいろいろ訊かれたの。話しているうちに最近、瓊紅保に引っ越して来たって聞いて。それ以来、よくうちの店に来てくれるようになったのよ」
そこまでいうとアツミさんはああ、そういえばと手のひらを胸元で焦れたように合わせ、ふいに視線を落とした。
「ナナミのお見合いのあった日に十鳥さんと一緒にいたけど……ナギ君の彼女、なの?」
彼女、のところで消え入るようなトーンになった。気を使ったのかもしれない。
「いい友だちですよ。彼女、まだこっちに知り合いが多くないから、買い物とかに行ってるんです」
アツミさんは上目遣いでじっと一言一句聞き漏らさずといった風にこちらを見ていた。
「そっか……うん、そうなんだ」
上気した頬がさらに紅色に染め上がったような気がした。黒地に白の水玉プリントが映える丸首ブラウスと相俟って、その仕草はとても可愛らしかった。女子高生といってもじゅうぶん通用するだろうけれど、年上の女性に対して軽佻浮薄なお世辞は褒めるつもりでも当人には皮肉になりかねないので、気軽に口にしない方がいいだろう。
そのあと、とても饒舌になったアツミさんと世間話をしていたときだった。
一瞬、背筋が粟立つような不穏な気配を感じた。
車の助手席に憮然と佇んでいる上四元クシナがこちらを睨みつけている。最初は自分の身勝手な振舞いを棚に上げて、すぐに帰宅せずに話し込んでいる姉にいらいらしているだけかとも思ったけれど、憎悪があふれんばかりのその双眸には殺意すら感じ取れた。彼女特有の戯れ、人を弄する際に器用に使いこなす他の感情を極限まで排除した、怒りから来る高純度にして正真正銘、本物の殺意。あんな鬼気迫る表情は初めてだ。
異変に気づいたのか、アツミさんが振り向くけれど、すでに妹は前方を澄ました顔で眺めている。
「すぐに帰ればいいのに、毎日話につき合って貰っちゃってごめんなさいね」
切り上げ時だと悟ったのか、行儀よくサイドに流れている前髪をすっとかき上げながらアツミさんが名残惜しそうに微笑んだ。
「ナギ君と話をしていると、すごく楽しくて時間を忘れちゃうの」
濡れたような瞳を細めて首を傾げる。こういうあどけない言動もまるで嫌味にならない。
「私とは楽しくないのかしら」
片付けをしている姉がダイニングキッチンから声をかける。アツミさんは何いってるのよ、と流すと妹が待つシトラスオレンジに向かった。
「おやすみなさい」
クラクションを一つ鳴らし、手を振りながら笑顔で去るアツミさんを見送ったあと、ずいぶん話が弾んでいたわねと姉が茶化すような視線を投げてきた。
「毎日、アツミさん大変だよね」
姉のペースになるのも厄介なので、微妙に話題を逸らす。
「でも、アツミを見てるとそうでもなさそうだけど」
「……そうかな」
「むしろ迎えに来るのを楽しみにしているみたいよ」
確かに、妹を車に押し込んだあとは上機嫌で話をしてくれてはいるけれど、アツミさんの性格からして、不機嫌さを露にするようには思えない。人知れずにけっこうストレスを溜め込んでいるかもしれない。
「だとしても、あなたと話をしている時点でそのストレスもなくなっちゃってるんじゃないかしら」
そういうものだろうか。
「アツミね、昔からあなたのような弟が欲しいっていっていたのよ」
なにやら上機嫌な姉がそんなことを口にした。いつ頃だったか、確かそんなことをアツミさん本人からいわれたことがあった気がする。
「アツミの弟になりたい?」
いつの間にか傍らにいた姉が顔を覗き込んできた。からかっているようにも拗ねているようにも取れる。
返答に困っていると、アツミはやさしいものねとくすくす笑いながら僕の頬を人差し指で突いた。
その夜は布団の中に入ってもまんじりともせず、とても楽しそうに話をするアツミさんとそのアツミさんのことになると不機嫌になる上四元クシナを交互に思い浮かべながら、やはり姉妹の仲に他人が言及するのは厳禁、不可侵なのだろうかと煩悶するのだった。
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