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互いに見つめ合ったまま無言の二人に、じれったくなった也耶子が口を開いた。
「千栄子さん、この方をご存じなんですか?」
「ご存じも何も、この男は私の別れた亭主よ」
「えぇっ? そ、それじゃあ、この方が逞のお父さんですか?」
千栄子は逞の父親と離婚してから独身を貫いてきたと聞く。それならば、目の前にいる男性は逞の父親である久勝、その人だろう。
「伊丹はこの人の旧姓よ。だから、店名が「いたみ」ってわけね。あぁあ、
そんなこと思いも寄らなかったわ」
「……もしかして、あんたが也耶子さんかい?」
「は、はい」
「そ、それじゃあ、その赤ん坊は……」
ベビーカーの中で暢気に眠っている士温を指さした。
「逞さんには似ていませんが、彼の子です。で、でも……」
千栄子が肘で突いて、他言無用と目で合図を送ってきた。秘密の恋人二号こと二階堂珠々は、我々の知らない間に激動の人生を送っていたようだ。
出産後、運命の恋人であるはずの若手芸人に騙され、有り金全部を持ち逃げされたと聞いた。恋人に裏切られたショックで、彼女は失意のどん底を味わったらしい。しかし、二階堂珠々は転んでもただでは起きない女だった。
元恋人が所属する芸能事務所の社員と、トラブルの相談をしているうちに恋に落ちてしまったという。今度こそ、今度こそ、今度こそ本当の運命の相手と出会ったようで、二人は来月初めに入籍するという噂だ。
悦子からこの話を聞かされた時、也耶子は珠々の立ち直りの早さに呆れ、開いた口が塞がらなかった。
「それなら、逞も一緒かい? 毎年一回必ず顔を見せにやって来るのに、去年も今年も……いや、あいつはあいつで忙しいだろうから、こんな不平を言うのはお門違いだな」
長年連絡すら取り合っていなかった二人が、東日本大震災の震災ボランティアで再会していたと告白した。それから、少しずつ父と子の交流が始まったらしい。だが、そんな話は千栄子も也耶子も初耳だった。
「え? 毎年あの子はここに来ていたの? それだから、あの子はこの街で……也耶子さん、あなたも知っていたの?」
逞が一人で逝ったことは、墓場まで持っていく秘密だ。ここは素直に自分が知っている情報だけを与えることが最善策だと思われた。
「あ、いや、その……毎年同じ時期に福島へと行っていたようですが、まさかお父さんと会っていたとは聞かされていませんでした」
やはり三保子が言った通り、真実とはこんなものなのだ。郡山には也耶子が恐れていた色仕掛けのモンスターなど存在していなかった。それどころか一生会うことはないと思っていた、逞の実父に会うことができとは皮肉な話だった。
「ど、どういうことだ? 逞に、逞に何かあったのか?」
「あの子は、逞はあなたに会うためにこの街に来て……」
「な、何だって?」
一人息子の死から未だ立ち直れない千栄子に代わり、也耶子が逞の亡くなったいきさつを説明した。
「そ、そんなことがあったから。だから、あいつは姿を見せなかったのか……」
早過ぎる息子の死を知り、父・久勝は絶句した。
震災ボランティアで再会してから毎年一回、必ず逞は割烹いたみを訪れていたという。
「あいつから声をかけて来たんだよ。最初は成長した息子の姿を見ても、どこの誰か俺には全くわからなかった。当たり前だよな、あいつが六歳の頃から会っていなかったんだから」
久勝は千栄子の父親に料理の腕を買われて須藤家に婿入りし、花板(板長)として料亭松菱を盛り上げていた。ところが、逞が六歳の頃。パート勤めの仲居と不倫関係になり、駆け落ちしてしまったという。
その後、駆け落ちした相手ともうまくいかず、呆気なく別れてしまったそうだ。それからは、久勝も千栄子同様に独り身を通しているらしい。
「どの面下げて帰って良いかわからず、離婚届を郵送して終わりにしたんだよ。それからは、一切須藤家とは縁を切ったってわけさ」
「それっきり、ってことですか? 離婚の際の話し合いとか、親権問題とか……何もなし?」
「俺は須藤家では飾りの婿だったからな。逞という跡継ぎが生まれれば、必要ない存在だったのさ」
料理人として婿入りした自分には、夫や父親という役目を演じる必要はないと感じていたようだ。料理人としての仕事を全うすれば良いだけと、久勝は勝手に線引きしていたのかもしれない。
「俺は息子の写真一枚持たずに逃げ出した男だ。そんな情けない父親なのに、あいつは自分から名前を名乗ってくれたんだよ」
別れてから二十年以上経っても、逞はすぐに久勝だとわかったという。それだけ父親の存在に渇望していたのだろう。
「あいつは涙を浮かべて、ずっと会いたかったって言ってくれた。こんなろくでなしなのに、お父さんと呼んでくれた」
憎まれても仕方がないのに意外な反応を受け、久勝は嬉しいやら申し訳ないやら複雑な思いが入り交ざったようだ。
「……あの子ったら、そんなこと私には何も教えてくれなかった」
千栄子がポツリと悔しそうに呟く。もちろん、この話は也耶子も知り得なかった郡山の真実だった。
「携帯に連絡することはできたが、それじゃあまるで催促になっちまう。俺にはそこまで図々しくする権利はないからな。でも、どうしても気になって、一年前に電話したら通じなくなっていたのさ。まさか松菱に電話するわけにもいかないし、結局あいつを待つことにしたんだよ」
ところが、久勝が待てど暮らせど、逞が割烹いたみの暖簾を潜ることはなかった。もちろん、それには深い理由があった。そして、それを知らずに久勝は今日という日を迎えたのだった。
「千栄子さん、この方をご存じなんですか?」
「ご存じも何も、この男は私の別れた亭主よ」
「えぇっ? そ、それじゃあ、この方が逞のお父さんですか?」
千栄子は逞の父親と離婚してから独身を貫いてきたと聞く。それならば、目の前にいる男性は逞の父親である久勝、その人だろう。
「伊丹はこの人の旧姓よ。だから、店名が「いたみ」ってわけね。あぁあ、
そんなこと思いも寄らなかったわ」
「……もしかして、あんたが也耶子さんかい?」
「は、はい」
「そ、それじゃあ、その赤ん坊は……」
ベビーカーの中で暢気に眠っている士温を指さした。
「逞さんには似ていませんが、彼の子です。で、でも……」
千栄子が肘で突いて、他言無用と目で合図を送ってきた。秘密の恋人二号こと二階堂珠々は、我々の知らない間に激動の人生を送っていたようだ。
出産後、運命の恋人であるはずの若手芸人に騙され、有り金全部を持ち逃げされたと聞いた。恋人に裏切られたショックで、彼女は失意のどん底を味わったらしい。しかし、二階堂珠々は転んでもただでは起きない女だった。
元恋人が所属する芸能事務所の社員と、トラブルの相談をしているうちに恋に落ちてしまったという。今度こそ、今度こそ、今度こそ本当の運命の相手と出会ったようで、二人は来月初めに入籍するという噂だ。
悦子からこの話を聞かされた時、也耶子は珠々の立ち直りの早さに呆れ、開いた口が塞がらなかった。
「それなら、逞も一緒かい? 毎年一回必ず顔を見せにやって来るのに、去年も今年も……いや、あいつはあいつで忙しいだろうから、こんな不平を言うのはお門違いだな」
長年連絡すら取り合っていなかった二人が、東日本大震災の震災ボランティアで再会していたと告白した。それから、少しずつ父と子の交流が始まったらしい。だが、そんな話は千栄子も也耶子も初耳だった。
「え? 毎年あの子はここに来ていたの? それだから、あの子はこの街で……也耶子さん、あなたも知っていたの?」
逞が一人で逝ったことは、墓場まで持っていく秘密だ。ここは素直に自分が知っている情報だけを与えることが最善策だと思われた。
「あ、いや、その……毎年同じ時期に福島へと行っていたようですが、まさかお父さんと会っていたとは聞かされていませんでした」
やはり三保子が言った通り、真実とはこんなものなのだ。郡山には也耶子が恐れていた色仕掛けのモンスターなど存在していなかった。それどころか一生会うことはないと思っていた、逞の実父に会うことができとは皮肉な話だった。
「ど、どういうことだ? 逞に、逞に何かあったのか?」
「あの子は、逞はあなたに会うためにこの街に来て……」
「な、何だって?」
一人息子の死から未だ立ち直れない千栄子に代わり、也耶子が逞の亡くなったいきさつを説明した。
「そ、そんなことがあったから。だから、あいつは姿を見せなかったのか……」
早過ぎる息子の死を知り、父・久勝は絶句した。
震災ボランティアで再会してから毎年一回、必ず逞は割烹いたみを訪れていたという。
「あいつから声をかけて来たんだよ。最初は成長した息子の姿を見ても、どこの誰か俺には全くわからなかった。当たり前だよな、あいつが六歳の頃から会っていなかったんだから」
久勝は千栄子の父親に料理の腕を買われて須藤家に婿入りし、花板(板長)として料亭松菱を盛り上げていた。ところが、逞が六歳の頃。パート勤めの仲居と不倫関係になり、駆け落ちしてしまったという。
その後、駆け落ちした相手ともうまくいかず、呆気なく別れてしまったそうだ。それからは、久勝も千栄子同様に独り身を通しているらしい。
「どの面下げて帰って良いかわからず、離婚届を郵送して終わりにしたんだよ。それからは、一切須藤家とは縁を切ったってわけさ」
「それっきり、ってことですか? 離婚の際の話し合いとか、親権問題とか……何もなし?」
「俺は須藤家では飾りの婿だったからな。逞という跡継ぎが生まれれば、必要ない存在だったのさ」
料理人として婿入りした自分には、夫や父親という役目を演じる必要はないと感じていたようだ。料理人としての仕事を全うすれば良いだけと、久勝は勝手に線引きしていたのかもしれない。
「俺は息子の写真一枚持たずに逃げ出した男だ。そんな情けない父親なのに、あいつは自分から名前を名乗ってくれたんだよ」
別れてから二十年以上経っても、逞はすぐに久勝だとわかったという。それだけ父親の存在に渇望していたのだろう。
「あいつは涙を浮かべて、ずっと会いたかったって言ってくれた。こんなろくでなしなのに、お父さんと呼んでくれた」
憎まれても仕方がないのに意外な反応を受け、久勝は嬉しいやら申し訳ないやら複雑な思いが入り交ざったようだ。
「……あの子ったら、そんなこと私には何も教えてくれなかった」
千栄子がポツリと悔しそうに呟く。もちろん、この話は也耶子も知り得なかった郡山の真実だった。
「携帯に連絡することはできたが、それじゃあまるで催促になっちまう。俺にはそこまで図々しくする権利はないからな。でも、どうしても気になって、一年前に電話したら通じなくなっていたのさ。まさか松菱に電話するわけにもいかないし、結局あいつを待つことにしたんだよ」
ところが、久勝が待てど暮らせど、逞が割烹いたみの暖簾を潜ることはなかった。もちろん、それには深い理由があった。そして、それを知らずに久勝は今日という日を迎えたのだった。
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