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(十)

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「あら、お早いご帰還ですね。十二時になったばかりで、待ち合わせの時間にまだですよ」
「さっき打ち合わせした料理人から、地元の食材を使った割烹料理店の話を聞いたのよ」
「はぁ?」
 何事かと思いきや、地元の料理人から勧められた人気の割烹料理店が、個数限定で極上のランチを提供しているのだという。
「昼の松花堂弁当がすこぶる評判なんですって」
 その日の仕入れで中身や個数を決めるので、予約は一切受け付けていないそうだ。日によっては昼の営業をしなかったり、売り切れてしまったりするらしく巷では「幻の弁当」と呼ばれているそうだ。
「そう聞くとますます食べてみたいと思わない? いえ、絶対に食べたいわ」
 並々ならぬ思いがこみ上げ、打ち合わせも早々に戻って来たという。自身も飲食店を経営しているゆえ、千栄子も也耶子に勝るとも劣らない食いしん坊だった。

 地元百貨店のすぐそばにある商店街の路地裏に目的地の『割烹いたみ』がある。カウンター六席に四人掛けのテーブル三卓という小さな店構えだが、かなりの繁盛店らしい。店主らしき初老の板前と二十代前半と思しき見習いの板前、四十代の仲居が一人と最小限の人数で切り盛りしているという。
 タクシーの運転手に店名を告げると、ナビも使わずに直行した。だが、彼の話によると松花堂弁当は開店前から並ばないと食べられないそうだ。
「そうは言っても、まだ十二時になったところでしょう?」
「その日によって個数も違うから、毎日相当な人数が並んでいるんですよ」
 タクシーを降りて、店の前に行くと準備中の札が掛かっていた。
「店内が明るいから、お休みではなさそうですね。ほら、戸も開くし……」
 案の定、まだ正午過ぎたばかりだというのに、肝心の松花堂弁当は売り切れてしまったらしい。
「申し訳ございません。今日は多めに用意できたのですが、開店と同時に席が埋まってしまい売り切れました」
 ここで「はいそうですか」と引き下がるような千栄子ではない。押しの強いというか、図々しい彼女は午前中に会った料理人の名前を出し、店主に掛け合ってくれと文句を言い出した。
「調理師協会でも名が通る人の紹介だと言えば、ここの店主も断れないでしょう?」
 悪びれる様子もなく千栄子は涼しい顔をしている。
「もう、やめてください。そういうゴリ押しは、みっともないですよ」
「あら、あなたいつから私にそんな大口をたてるようになったの?」
 戸籍上の縁が切れたからか、それとも慣れてきたのだろうか。最近の也耶子は千栄子に対して遠慮がなくなってきた。
「逞と一緒になった頃は、嫁姑の関係だからと遠慮の塊でした。でも、今はもうお互いに何の損得勘定も持ち合わせていませんから、平気になったんだと思います。それに、私だってあれから色々学び、お陰様で強くなりました」
 だから、こうやって再び郡山の地を踏むことができたのだ。
「一体どんな馬鹿が来ているんだ? できないものはできないんだよ」
 板場で千栄子を非難する声が、外で待つ二人のところに届いた。
「ほら、やっぱり無理みたいじゃないですか。それにご主人を怒らせてしまったみたいですよ」
「せっかく、こうやって訪ねて来たのよ。噂の松花堂弁当を食べないで横浜に帰れないわよ。いいわ、私が直談判してくる」
 そう言うなり勢いよく暖簾を払い、千栄子は中に入った。すると、板場から声の主も現れて、二人は鉢合わせする格好になってしまった。
「お前がその馬鹿か?」
「あなたがここの店主なの?」
 一触即発のような場の雰囲気に、思わず也耶子は息を飲んだ。ところが次の瞬間、顔を見合わせた二人は驚いた様子で意外な言葉を発した。
「お、お前……ち、千栄子か?」
「あ、あなた……」
 どうやら二人はいわくつきの関係のようだ。
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