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(五)

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 数日後、ホワイトデーのフラッシュモブを成功させた也耶子のもとに、再び公香から連絡が入った。彼女の話によると、常盤紡生にモデルオーディションの話が持ち上がっているらしい。これにはカメラマン立花ハルオからの強力な推薦があったという。
 也耶子との会話がもとでハルオは雑誌のグラビア撮影から手を引き、一から出直ししているという。今回修業先の師匠の下に依頼が入り、張り切って同行を願い出たそうだ。
「うちの事務所の所属タレントではないからと断ったんですよ。でも、立花さんが常盤紡生ちゃんを気に入ったらしく、どうしてもとお願いされたんです」
 大手飲料メーカーが夏に向け発売する新商品のCMキャラクターに紡生がぴったりだと、ハルオが師匠である大物カメラマンに猛プッシュしたそうだ。
「紡生ちゃんの方は何とかOKをもらえたのですが、少々問題がありまして……」
「問題? っていうか、どうして私にこの話をするんですか?」
「毎度のことながら急で申し訳ありません。土曜日のオーディション当日、マネージャーとして紡生ちゃんに付き添ってもらえないでしょうか?」
「え? わ、私がマネージャー?」
「もちろん、これは代理出席人の仕事です。この時期は春の番組改編と重なり所属俳優やタレントだけでなく、スタッフも大忙しなんです。うちはギリギリの人数で回しているので、この日はどうしても付き添いができないような状態なんです」
 というわけで、今回も急遽代理出席人の出番となったらしい。代理出席人の仕事をしているのは、ほとんどがつかさ芸能事務所に所属している役者やタレントたちだ。彼らの本業は芸能活動で、本業が忙しくなると代理出席人の仕事が疎かになる。

 矢次隼人の不倫スキャンダルを解決させた悦子の営業努力が実り、荒俣匡也だけでなく他の俳優たちにもドラマや映画の出演が続々と決まっているらしい。
 それゆえ、出席代理人の数が足りなくなっているそうだ。そうなると、必然的に代理出席人を専業としている也耶子に回って来る依頼が多くなるという仕組みだ。
「ここでは也耶子が紡生ちゃんと一番親しいし、三保子先生は別の仕事が入ってしまって無理なんです」
「三保子さんに別の仕事って、何ですか?」
「まだ撮影前ですので大声では言えませんが……ジャジャーン。荒俣匡也が秋に始まる連続時代劇の主役に抜擢されたんです。今回は日舞を披露する場面があるらしく、この日は三保子先生と打ち合わせの予定です」
「す、すごい。荒俣匡也の指導? 事務所に何度も通っても、私は全然会えてないのに……」
 勉強熱心な荒俣匡也は役作りのため、所作や日舞の指導を三保子から受けたいと事務所に申し出たそうだ。ついこの間まで自分の存在価値を見出せなかった専業主婦が、人気俳優・荒俣匡也に所作や日舞を教えるまでになるとは……人生とは何が起こるかわからないものである。

 オーディション当日。指定された会場には紡生を含め、十名近い少女が集まっていた。その中にはテレビドラマやCMなどで見かけた顔もあり、素人の紡生が一人浮いているような感じだった。
「今日は誰と来たのかな? お母さん?」
 付き添いの也耶子をちらりと見て、広告代理店の社員が尋ねる。
「ううん、也耶子ちゃんはお母さんじゃないよ。私のお母さんはシンガポールでお仕事をしているの」
「そうなんだ。シンガポールは遠いから大変だね、寂しくない?」
「ばぁばがいるから寂しくないよ。それにお母さんは大事なお仕事があるから、お父さんもつんちゃんも必要ないんだよ」
「えっ?」
 あっけらかんと家庭の事情を語り始めた紡生を、也耶子は慌てて制し話をはぐらかした。
「わ、私はつかさ芸能事務所の者で、付き添い役として同行した須藤と申します」
「あぁあ、マネージャーさんね」
「はい、そんな感じです」
「あのね、也耶子ちゃんはホゴシャダイリなんだよ。知ってる? ダイリってお仕事なんだよ」
「随分と事務所の人と仲が良いんですね。タレント活動はこれが始めてだそうですが……」
「は、はい。たまたま私と彼女の母親が知り合いで、ちょっとした付き合いがあったものですから」
「しょんちゃんと也耶子ちゃんはね、つんちゃん家にお泊りもするんだよ」
 CMでは底抜けに明るい少女というキャラクターを求められているそうだ。イメージ的には近いのかもしれないが、礼儀正しい子役タレントと違い紡生は至って普通の未就学児童だ。
 現に聞かれてもいないことまでぺらぺらと喋り出す始末だ。今のところはじっと椅子に座っているが、言葉使いはほぼタメ口。オーディション用の礼儀作法など知るはずもない。表情が豊かだと言えば聞こえが良いが、大人たちを小馬鹿にしたような生意気な印象を与えてしまうだろう。
「面白い子が来たね。そう思わないか?」
 部屋に入ってから一言も発していなかった初老の男性が初めて口を開いた。
「おじさんはCMを作る部署の部長なんだ。よろしく、紡生ちゃん」
 男性は自ら広報宣伝部の部長だと紹介した。
「へぇ、部長さんなんだ。お母さんも頑張ってシュッセして、偉くなりたいって言ってた。でも、会社では部長さんより社長さんの方が偉いんでしょう? お母さんは部長さんでなく、社長さんになりたいのかなぁ」
「会社で社長が一番偉いというわけではないが……と君に説明してもちょっと難しいかもしれないな。それよりも、紡生ちゃんはうちの会社のジュースは飲んだことがあるかい?」
 机の上にズラリと並んだペットボトルを見る。
「シュワシュワは喉が痛いもん。だから、いつもリンゴジュースにちょっとだけシュワシュワを混ぜてもらうんだ。つんちゃんはまだ六歳だから、いきなりごくごくぷはーはできないよ」
「そうか、そうだろうね。だから、君のようなおチビちゃんでもゴクゴク飲める微炭酸飲料を発売するんだよ」
「ビタンサンインリョウ?」
 部長の隣に座る若い社員がペットボトルのキャップを開けて、紡生の前に差し出した。
「ほら、これを飲んでごらん。美味しいよ」
「えぇぇ、シュワシュワ怖いよぉ」
「大丈夫。喉が痛くならないよう、小さなシュワシュワにしたからね」
 恐る恐る紡生がペットボトルに口をつけ、ゆっくりごくりとジュースを飲み込んだ。
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