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泣いたら思う存分抱っこしてあげましょう
(四)
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「これ、三十万円入っているわ。母親代理の料金と二日分の必要経費よ。もちろん、万が一の場合の経費込みだから、無理しないでちょうだいね。それとキャリーバッグに紙オムツが入っているけれど、一日分しかないから同じメーカーの物を使って」
ハンドバッグから若干厚みのある茶封筒を取り出しテーブルの上に置いた。
「か、紙オムツに十五万二千円も必要ありません。必要経費は明記して、使わなかった分は後でお返しします」
根が真面目というわけではないと思うが、これは社会人としては当たり前のこと。だが、元姑には青臭い奴だと思われたらしい。
「相変わらず欲がないのね。これくらいのはした金、可愛いものなのに」
さっきの取り乱した様子とは打って変わり、冷静に鼻でせせら笑う。
「大事なことは全部このメモ帳に書いてあるから、困ったら参考にしてちょうだい」
千栄子が手渡した薄っぺらなポーチには、母子手帳と保険証、小児科の診察券、事細かに記した育児日記が入っていた。
「ここに来る前にミルクは飲んでいるから。それにオムツも今は濡れていないはずよ」
スッキリとした表情でコートを羽織り、千栄子は帰り支度を始める。
「二日経ったら迎えに来るから、也耶子おばちゃんと仲良くするのよ」
そして、猫なで声で赤ん坊に別れの挨拶をすると玄関に向かった。
「こ、この子の名前は?」
一番大事なことを聞き忘れ、也耶子は慌てて尋ねる。
「す・ど・う・し・お・ん。最初で最後に母親らしいことがしたいと、あの女がつけた名前よ」
「すどうしおん?」
保険証で確認すると、赤ん坊の名前は須藤士温と印字されていた。
「何とも、まぁ……」
今時のキラキラとした名前だが、父親の逞とかけ離れていて良かったようにも思えた。
「それじゃあ、後はよろしくお願いします」
十二月の寒空など気にも留めず、意気揚々と千栄子は帰っていった。
ちなみにキャリーバッグには紙オムツの他に着替えやおもちゃ、粉ミルクに哺乳瓶等が入っていた。今の時代はインターネットで検索すればおむつ交換の仕方だろうが、粉ミルクの作り方だろうが、育児に関して一通りのことは教えてくれる。
だが、相手は生身の人間だ。今は気持ちよさそうにスヤスヤ眠っているが、ひとたび目を覚ましたら……何か起こるか見当もつかなかった。
すると次の瞬間、充電中の也耶子のスマホがけたたましく鳴り響いた。
「あぁ、びっくりした。心臓に悪いなぁ」
電話をかけてきたのは悦子だった。
「もしもし、悦子先輩。さっそく宇賀ちゃんから聞いたんですね?」
「二号の子供を預かったって聞いて驚いたわよ。一体どういうことなの?」
「どうもこうもないですよ。元姑にはめられました」
「母親代理の依頼なんて引き受けて、大丈夫なの?」
「いや、大丈夫も何も不安しかないです。赤ん坊なんて扱ったことがないですから。悦子先輩も子育ては……」
「死んだ旦那の子供たちはとっくに成人しているから、あいにく私も赤ん坊の知識はゼロよ」
「所属タレントさんや、劇団員さんで心得がある人は?」
「うちの子たちは独身アラサーが多いから、代理出席人の方も年齢が偏っちゃって困っているくらいよ。だから、育児に関しては素人ばかりだわ。あぁあ、上品で清楚な古き良き時代のお母さんやお祖母ちゃんって感じの、包容力のある人がどこかにいないかしらねぇ」
「どうしよう。追い詰められて引き受けたものの、何をどうしたら良いのか皆目見当もつきません」
「実家のお母さんには頼めないわよね?」
「は、母ですか? それはちょっと……」
一瞬、母親の顔が頭に浮かんだ。だが、逞の死後は心配ばかりかけているので、二階堂珠々の子供を預かったなどと打ち明けられるはずもない。
「そうよねぇ、それは無理よね。こんなこと口が裂けても言えないものね」
すぐさま也耶子の心情を慮り、悦子も同調した。
「……あっ、そうだ!」
「ど、どうしたのよ? いきなり大声をあげて」
突然、也耶子はある人物との会話を思い出した。
――もしも何か困ったことが起きたら、遠慮せず僕のところへ連絡ください。
「とりあえず、頼りになりそうな人物を思い出したから、これから無理を承知で連絡してみます」
「そ、そう。それは良かった。でも、何かあったら必ず連絡ちょうだいね」
幸運にも今日は土曜日だ。うまくいけば相談に乗ってもらえるかもしれない。そして、もっとうまくいけば……捕らぬ狸の皮算用。もらった名刺に記されている番号に、さっそく也耶子は電話をかけた。
ハンドバッグから若干厚みのある茶封筒を取り出しテーブルの上に置いた。
「か、紙オムツに十五万二千円も必要ありません。必要経費は明記して、使わなかった分は後でお返しします」
根が真面目というわけではないと思うが、これは社会人としては当たり前のこと。だが、元姑には青臭い奴だと思われたらしい。
「相変わらず欲がないのね。これくらいのはした金、可愛いものなのに」
さっきの取り乱した様子とは打って変わり、冷静に鼻でせせら笑う。
「大事なことは全部このメモ帳に書いてあるから、困ったら参考にしてちょうだい」
千栄子が手渡した薄っぺらなポーチには、母子手帳と保険証、小児科の診察券、事細かに記した育児日記が入っていた。
「ここに来る前にミルクは飲んでいるから。それにオムツも今は濡れていないはずよ」
スッキリとした表情でコートを羽織り、千栄子は帰り支度を始める。
「二日経ったら迎えに来るから、也耶子おばちゃんと仲良くするのよ」
そして、猫なで声で赤ん坊に別れの挨拶をすると玄関に向かった。
「こ、この子の名前は?」
一番大事なことを聞き忘れ、也耶子は慌てて尋ねる。
「す・ど・う・し・お・ん。最初で最後に母親らしいことがしたいと、あの女がつけた名前よ」
「すどうしおん?」
保険証で確認すると、赤ん坊の名前は須藤士温と印字されていた。
「何とも、まぁ……」
今時のキラキラとした名前だが、父親の逞とかけ離れていて良かったようにも思えた。
「それじゃあ、後はよろしくお願いします」
十二月の寒空など気にも留めず、意気揚々と千栄子は帰っていった。
ちなみにキャリーバッグには紙オムツの他に着替えやおもちゃ、粉ミルクに哺乳瓶等が入っていた。今の時代はインターネットで検索すればおむつ交換の仕方だろうが、粉ミルクの作り方だろうが、育児に関して一通りのことは教えてくれる。
だが、相手は生身の人間だ。今は気持ちよさそうにスヤスヤ眠っているが、ひとたび目を覚ましたら……何か起こるか見当もつかなかった。
すると次の瞬間、充電中の也耶子のスマホがけたたましく鳴り響いた。
「あぁ、びっくりした。心臓に悪いなぁ」
電話をかけてきたのは悦子だった。
「もしもし、悦子先輩。さっそく宇賀ちゃんから聞いたんですね?」
「二号の子供を預かったって聞いて驚いたわよ。一体どういうことなの?」
「どうもこうもないですよ。元姑にはめられました」
「母親代理の依頼なんて引き受けて、大丈夫なの?」
「いや、大丈夫も何も不安しかないです。赤ん坊なんて扱ったことがないですから。悦子先輩も子育ては……」
「死んだ旦那の子供たちはとっくに成人しているから、あいにく私も赤ん坊の知識はゼロよ」
「所属タレントさんや、劇団員さんで心得がある人は?」
「うちの子たちは独身アラサーが多いから、代理出席人の方も年齢が偏っちゃって困っているくらいよ。だから、育児に関しては素人ばかりだわ。あぁあ、上品で清楚な古き良き時代のお母さんやお祖母ちゃんって感じの、包容力のある人がどこかにいないかしらねぇ」
「どうしよう。追い詰められて引き受けたものの、何をどうしたら良いのか皆目見当もつきません」
「実家のお母さんには頼めないわよね?」
「は、母ですか? それはちょっと……」
一瞬、母親の顔が頭に浮かんだ。だが、逞の死後は心配ばかりかけているので、二階堂珠々の子供を預かったなどと打ち明けられるはずもない。
「そうよねぇ、それは無理よね。こんなこと口が裂けても言えないものね」
すぐさま也耶子の心情を慮り、悦子も同調した。
「……あっ、そうだ!」
「ど、どうしたのよ? いきなり大声をあげて」
突然、也耶子はある人物との会話を思い出した。
――もしも何か困ったことが起きたら、遠慮せず僕のところへ連絡ください。
「とりあえず、頼りになりそうな人物を思い出したから、これから無理を承知で連絡してみます」
「そ、そう。それは良かった。でも、何かあったら必ず連絡ちょうだいね」
幸運にも今日は土曜日だ。うまくいけば相談に乗ってもらえるかもしれない。そして、もっとうまくいけば……捕らぬ狸の皮算用。もらった名刺に記されている番号に、さっそく也耶子は電話をかけた。
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