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弐の巻 豆福入れ替え騒動
九
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騒動が収まった後、菊と光之助は再び小島屋を訪れる。
「御免」
「失礼するぞ」
「いらっしゃいませ」
店の奥から加代が顔を出した。そして、その後ろには元気になった店主の忠兵衛がいるではないか。
「この度は色々とご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
「それよりも、忠兵衛殿。ご加減はいかがでござるか?」
「はい、この通り。寝込んでいたのが嘘のようにぴんぴんしております」
あれから直ぐに加代は光之助から紹介された医者の元へ駈け込んだ。そして、忠兵衛の様子を伝え、お千の留守を見計らい診察してもらったそうだ。
「最初は信じられませんでしたが、手前は……」
「毒を盛られておったのだろうか?」
身を乗り出して菊が尋ねたところ、意外な答えが返ってきた。
「いえ、毒ではなくうどん粉でした」
「な、何じゃと?」
「うどん粉?」
お千が連れてきたのはとんだやぶ医者で、まともに病の診立てなんぞできなかったようだ。それを良いことにお千は見て見ぬふりをしたらしい。そうとは知らず渡されていたうどん粉を、忠兵衛は毎日きっちり飲んでいたという。
「うどん粉を飲んでいては、治る病も治りません」
光之介に紹介された医者によると『江戸わずらい』ではないかと診断されたそうだ。
江戸時代になると主に玄米を食べていた庶民にも、身分の高い人しか食べられなかった白米食が広がった。
すると、その頃から奇妙な病が流行り始める。まだ玄米食が中心だった地方の大名や武士たちが江戸に来ると、足元がおぼつかなくなったり、寝込んでしまったり、体調を崩すことが多々あった。ところが、故郷に帰るとけろりと治ってしまうため、この病は江戸わずらいと呼ばれた。
これはビタミンB1不足が招いた『脚気』という病気が原因だった。玄米の胚芽部分に多いビタミンB1は、精米すると取り除かれてしまう。そのため、白米にするとわずかしか残らない。
当時の食事は一汁一菜が基本で白飯を大量にとり、おかずの量も数も少なかったためビタミンB1不足の原因となっていた。
明確なデータはないが重症化すると心不全を起こして死に至ることもあり、亡くなる人も少なくなかったようだ。
米問屋小島屋店主・忠兵衛が江戸わずらいで寝込むとは、さもありなんとした話だった。
「とにかく大根をたくさん食べるよう指導されました」
「だ、大根とな?」
幸いにも大事には至らなかったのは大根のおかげ。五代目将軍・綱吉が江戸わずらいの治療のため食し、栽培を奨励した…という裏話が残るくらい、江戸では大根の栽培が盛んだったのだ。
「お千には厳しく言い聞かせました」
亭主を見殺しにしようとする女房なんぞ未練はないと忠兵衛がきっぱり言い放つと、もう二度と馬鹿な真似はしないと泣いて謝ったそうだ。
「では、壱太郎殿は?」
「知り合いの米問屋に預けて、一から修業し直すよう叱り飛ばしました。元はといえば私が甘やかしたばかりに、あんな道楽者になってしまいました。でも、根は悪者ではないはず。きっと改心してくれるでしょう」
それはまだ誰にも予想がつかない、これから先の話だった。それでも忠兵衛は血を分けた可愛い息子ならきっと改心するだろうと信じているのだろう。
「ならば、これから小島屋は忠兵衛殿が再び切り盛りしていくのであろうか?」
「それが……実は娘に任せようと決めました」
「おぉ!」
何とゆくゆくは加代に小島屋を継がせると決心したそうだ。
「世間様には女だてらに何ができると言われるでしょう。でも、加代は真面目で働き者だし、何より小島屋を大事に思ってくれている」
無理やり縁談話を進め、娘を除け者にしようとしていた。お千が好き勝手にやっているとも知らず、忠兵衛は女房の言いなりなっていた。
「それだけが情けなくて、悔しくて」
加代や手代たちに申し訳が立たないという。
「それなら、私を跡継ぎとして認めて欲しいって、半ば強引に押し切ったの。婿取りなんか先の、先の話。先ずは手前の腕を試したいってね」
加代は目を輝かせて、嬉しそうに語る。
「手前の役目はお千と壱太郎のせいで、おかしくなった小島屋の立て直しです。そして、その先は加代に任せるつもりでおります」
それが全て丸く収まる解決策だと忠兵衛は胸を張って宣言した。
「そうか。それでは、これにて一件落着だな」
「はい、その通りでございます」
かくして狆入れ替え騒動は一件落着したように思えたが、まだ腑に落ちない一件が残っていた。
「御免」
「失礼するぞ」
「いらっしゃいませ」
店の奥から加代が顔を出した。そして、その後ろには元気になった店主の忠兵衛がいるではないか。
「この度は色々とご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした」
「それよりも、忠兵衛殿。ご加減はいかがでござるか?」
「はい、この通り。寝込んでいたのが嘘のようにぴんぴんしております」
あれから直ぐに加代は光之助から紹介された医者の元へ駈け込んだ。そして、忠兵衛の様子を伝え、お千の留守を見計らい診察してもらったそうだ。
「最初は信じられませんでしたが、手前は……」
「毒を盛られておったのだろうか?」
身を乗り出して菊が尋ねたところ、意外な答えが返ってきた。
「いえ、毒ではなくうどん粉でした」
「な、何じゃと?」
「うどん粉?」
お千が連れてきたのはとんだやぶ医者で、まともに病の診立てなんぞできなかったようだ。それを良いことにお千は見て見ぬふりをしたらしい。そうとは知らず渡されていたうどん粉を、忠兵衛は毎日きっちり飲んでいたという。
「うどん粉を飲んでいては、治る病も治りません」
光之介に紹介された医者によると『江戸わずらい』ではないかと診断されたそうだ。
江戸時代になると主に玄米を食べていた庶民にも、身分の高い人しか食べられなかった白米食が広がった。
すると、その頃から奇妙な病が流行り始める。まだ玄米食が中心だった地方の大名や武士たちが江戸に来ると、足元がおぼつかなくなったり、寝込んでしまったり、体調を崩すことが多々あった。ところが、故郷に帰るとけろりと治ってしまうため、この病は江戸わずらいと呼ばれた。
これはビタミンB1不足が招いた『脚気』という病気が原因だった。玄米の胚芽部分に多いビタミンB1は、精米すると取り除かれてしまう。そのため、白米にするとわずかしか残らない。
当時の食事は一汁一菜が基本で白飯を大量にとり、おかずの量も数も少なかったためビタミンB1不足の原因となっていた。
明確なデータはないが重症化すると心不全を起こして死に至ることもあり、亡くなる人も少なくなかったようだ。
米問屋小島屋店主・忠兵衛が江戸わずらいで寝込むとは、さもありなんとした話だった。
「とにかく大根をたくさん食べるよう指導されました」
「だ、大根とな?」
幸いにも大事には至らなかったのは大根のおかげ。五代目将軍・綱吉が江戸わずらいの治療のため食し、栽培を奨励した…という裏話が残るくらい、江戸では大根の栽培が盛んだったのだ。
「お千には厳しく言い聞かせました」
亭主を見殺しにしようとする女房なんぞ未練はないと忠兵衛がきっぱり言い放つと、もう二度と馬鹿な真似はしないと泣いて謝ったそうだ。
「では、壱太郎殿は?」
「知り合いの米問屋に預けて、一から修業し直すよう叱り飛ばしました。元はといえば私が甘やかしたばかりに、あんな道楽者になってしまいました。でも、根は悪者ではないはず。きっと改心してくれるでしょう」
それはまだ誰にも予想がつかない、これから先の話だった。それでも忠兵衛は血を分けた可愛い息子ならきっと改心するだろうと信じているのだろう。
「ならば、これから小島屋は忠兵衛殿が再び切り盛りしていくのであろうか?」
「それが……実は娘に任せようと決めました」
「おぉ!」
何とゆくゆくは加代に小島屋を継がせると決心したそうだ。
「世間様には女だてらに何ができると言われるでしょう。でも、加代は真面目で働き者だし、何より小島屋を大事に思ってくれている」
無理やり縁談話を進め、娘を除け者にしようとしていた。お千が好き勝手にやっているとも知らず、忠兵衛は女房の言いなりなっていた。
「それだけが情けなくて、悔しくて」
加代や手代たちに申し訳が立たないという。
「それなら、私を跡継ぎとして認めて欲しいって、半ば強引に押し切ったの。婿取りなんか先の、先の話。先ずは手前の腕を試したいってね」
加代は目を輝かせて、嬉しそうに語る。
「手前の役目はお千と壱太郎のせいで、おかしくなった小島屋の立て直しです。そして、その先は加代に任せるつもりでおります」
それが全て丸く収まる解決策だと忠兵衛は胸を張って宣言した。
「そうか。それでは、これにて一件落着だな」
「はい、その通りでございます」
かくして狆入れ替え騒動は一件落着したように思えたが、まだ腑に落ちない一件が残っていた。
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