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壱の巻 ほろ苦い砂糖騒動
壱
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それから、しばらくの後。南町奉行所裏屋敷、冨岡周五郎の住まい。
「ただいま帰りました、母上」
「おかえりなさい」
周五郎の長男・光之助が手習い所から帰って来ると、見知らぬ男児が母の茜と妹の佐喜と談笑していた。総髪(月代を剃らず髪全体を伸ばし、頭上で束ねた髪型)なのは元服前だからだろうか。細面で色白、目鼻立ちが整った美しい男児だ。
「光之助、こちらはお菊ちゃん。しばらくの間、我が家で預かることになりました。冨岡の遠い親戚のお嬢さんだから、他所でもそう紹介してくださいね。よろしくお願いしますよ」
「お、お菊ちゃん? 親戚のお嬢さん?」
そう言われれば男児にしては華奢だし、繊細な顔立ちをしている。しかし、姿格好はまさに男児そのものだった。
「ま、まさか。だって、その格好は? 本当に女児なのですか?」
「兄上。そんな言い方したら、お菊ちゃんに失礼よ」
凛とした佇まいの女児、名は本当に菊というらしい。見たところ手前とそう違わぬ年頃だろうか。光之助は言葉も出ず菊を凝視し続けた。
「菊と申す。しばしの間、よろしくお頼み申します」
「あ、いや、その……参ったなぁ」
女子特有のやや高い声で、自ら菊と名乗ったのだ。ようやく女児だと確信が持てた光之助は、我に返り手前の無礼を誤った。動揺したせいで挨拶もろくにしていなかったのだ。
「も、申し訳ない、光之助と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」
すると、菊の後ろで白黒の毛玉が動いた。
「おぉ、忘れていた。これは豆福じゃ。大人しゅうて、しつけも出来ているから、迷惑はかからないと思う」
さすがの菊も一人で城を出るのは寂しいと、愛犬の豆福を伴ってきたのだ。
「そ、それは何という生き物なのだ?」
初めて目にする狆に興味がわいた。
「豆福は狆、犬じゃ」
「そ、それも犬なのか?」
すると、突然豆福は光之助に腹を見せ触ってくれとせがんだ。
「豆ちゃんたら、もう兄上にお腹を見せて甘えているわ。可愛いわよね」
光之助の知っている犬は、毛足が短く体も豆福よりも一回りも二回りも大きい。そして、時に大きな唸り声をあげたり、恐ろしい形相で追いかけて来たりする。
あれらが犬だと思っていたが、こんなに華奢で毛並みの美しい犬も存在するのだと、興味津々で豆福の腹を撫でた。
「話には聞いたことがあったけれど、珍しいから私も初めて見たわ。ほら。日本橋にある呉服屋の伊勢本屋さんが飼っていると噂で聞いたばかりよ。佐喜もあの時に、一緒に聞いていたでしょう?」
「ええ、母上。噂によると大名領の領主様とか、奥様だとか、とにかく偉い方から頂いたそうよね」
「へぇ、そんなお方から頂いたのか」
狆は特別に身分の高い人々が飼っているという。それならば、菊は珍しい狆を、どうやって手に入れたのだろうか?
美しい所作や丁寧な言葉遣いから、さぞかし身分の高い生まれではないかと推測できる。しかし、どうして急に我が家で預かることになったのだろうか?
光之助は謎めいた菊の存在にあらぬ疑念を抱いた。まさか、どこぞの大名領の落とし子か、それとも……
周五郎にとって茜は二人目の妻。前妻を病で亡くし、光之介と佐喜には年の離れた異母姉がいる。母との縁談が舞い込まなければ、一生独り身を通す気でいたと聞いたことがある。
「まさか母上と一緒になる前に、誰か別のお相手がいたとか……」
だが、母や妹がいる目の前で、そんな疑問を口に出せない。いや、それよりも気になる点がある。女児である菊は、どうして男装などしているのだろうか?
当時の浮世絵などを見ると男女の境を自由に往来する、風俗や文化があったと推測される。異性装(男装、女装)は庶民にとって身近なものだったようだ。そんな風習もあったせいか、きっと何か理由があるのだろうと光之助はあっさり納得した。
とりあえず、今は余計な詮索はしないで菊を受け入れよう。いつか時期を見計らって、父上に真相を尋ねてみよう。場の空気を読み光之助は、平然とした面持ちでその場をやり過ごした。
「ただいま帰りました、母上」
「おかえりなさい」
周五郎の長男・光之助が手習い所から帰って来ると、見知らぬ男児が母の茜と妹の佐喜と談笑していた。総髪(月代を剃らず髪全体を伸ばし、頭上で束ねた髪型)なのは元服前だからだろうか。細面で色白、目鼻立ちが整った美しい男児だ。
「光之助、こちらはお菊ちゃん。しばらくの間、我が家で預かることになりました。冨岡の遠い親戚のお嬢さんだから、他所でもそう紹介してくださいね。よろしくお願いしますよ」
「お、お菊ちゃん? 親戚のお嬢さん?」
そう言われれば男児にしては華奢だし、繊細な顔立ちをしている。しかし、姿格好はまさに男児そのものだった。
「ま、まさか。だって、その格好は? 本当に女児なのですか?」
「兄上。そんな言い方したら、お菊ちゃんに失礼よ」
凛とした佇まいの女児、名は本当に菊というらしい。見たところ手前とそう違わぬ年頃だろうか。光之助は言葉も出ず菊を凝視し続けた。
「菊と申す。しばしの間、よろしくお頼み申します」
「あ、いや、その……参ったなぁ」
女子特有のやや高い声で、自ら菊と名乗ったのだ。ようやく女児だと確信が持てた光之助は、我に返り手前の無礼を誤った。動揺したせいで挨拶もろくにしていなかったのだ。
「も、申し訳ない、光之助と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」
すると、菊の後ろで白黒の毛玉が動いた。
「おぉ、忘れていた。これは豆福じゃ。大人しゅうて、しつけも出来ているから、迷惑はかからないと思う」
さすがの菊も一人で城を出るのは寂しいと、愛犬の豆福を伴ってきたのだ。
「そ、それは何という生き物なのだ?」
初めて目にする狆に興味がわいた。
「豆福は狆、犬じゃ」
「そ、それも犬なのか?」
すると、突然豆福は光之助に腹を見せ触ってくれとせがんだ。
「豆ちゃんたら、もう兄上にお腹を見せて甘えているわ。可愛いわよね」
光之助の知っている犬は、毛足が短く体も豆福よりも一回りも二回りも大きい。そして、時に大きな唸り声をあげたり、恐ろしい形相で追いかけて来たりする。
あれらが犬だと思っていたが、こんなに華奢で毛並みの美しい犬も存在するのだと、興味津々で豆福の腹を撫でた。
「話には聞いたことがあったけれど、珍しいから私も初めて見たわ。ほら。日本橋にある呉服屋の伊勢本屋さんが飼っていると噂で聞いたばかりよ。佐喜もあの時に、一緒に聞いていたでしょう?」
「ええ、母上。噂によると大名領の領主様とか、奥様だとか、とにかく偉い方から頂いたそうよね」
「へぇ、そんなお方から頂いたのか」
狆は特別に身分の高い人々が飼っているという。それならば、菊は珍しい狆を、どうやって手に入れたのだろうか?
美しい所作や丁寧な言葉遣いから、さぞかし身分の高い生まれではないかと推測できる。しかし、どうして急に我が家で預かることになったのだろうか?
光之助は謎めいた菊の存在にあらぬ疑念を抱いた。まさか、どこぞの大名領の落とし子か、それとも……
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「まさか母上と一緒になる前に、誰か別のお相手がいたとか……」
だが、母や妹がいる目の前で、そんな疑問を口に出せない。いや、それよりも気になる点がある。女児である菊は、どうして男装などしているのだろうか?
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とりあえず、今は余計な詮索はしないで菊を受け入れよう。いつか時期を見計らって、父上に真相を尋ねてみよう。場の空気を読み光之助は、平然とした面持ちでその場をやり過ごした。
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