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相楽屋の女将お糸の訴え
十
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「おう、来たか。早く入れ」
忠相に手招きされて、正太郎は部屋の中に入った。
「前々から耳にしていたが、お主の特別な力は思っていた以上のようだな。寺社奉行も日隠の悪行を見抜けなかったと、悔しがっておったぞ」
嬉々として語る忠相の向かいには、何故か父平一郎が座っているではないか。
『お前のことは既に御頭様には報告済だ。全て承知でいらっしゃる』
待っていましたとばかり、筆談で事情を説明していく。
「え? そ、それは真ですか?」
二人だけの秘密だと約束してはずなのに、まさか忠相に打ち明けていたとは露知らず。既に平一郎から特別な力の話を聞いていた忠相は、常々この目で確かめていたいと望んでいたらしい。
「既に父から話を伺っているそうで、恐縮しきりでございます」
己の秘密を知られたのは不本意だが、相手は南町奉行の大岡忠相だ。憤りを悟られないよう低姿勢で応えた。そんな正太郎の思いを無視して、突然忠相は本題に入った。
「そこで、貞永正太郎。私からお主に新たな役目を与えたいと考えておる」
「あ、新たな役目と申しましたか、御頭様?」
正太郎は忠相の唇を読み取り確かめた。
「そうだ、新たな役目だ」
どうやらお役御免は免れたようだ。だが、吟味方書物役見習いという立派な役目があるのに、更に新たな役目を与えるとはどういう意図があるのだろう。いや、それよりも手前にできる役目が他にあるのだろうか。
「ふぅむ、新たな役目ねぇ」
考え込む正太郎を無視して、またしても忠相は告げた。
「本日からお主を南町奉行所お耳役として任命する」
人柄を示すような伸びやかだが規律正しい文字で、『南町奉行所お耳役』と記してあった。
「お耳役とはこれ如何に? 正太郎は耳が聞こえませぬぞ、御頭様」
事前に何も知らされていなかったらしく、平一郎も驚きの色を隠せない。何故ならば、お耳役とは情報収集をする役回りだ。それを耳の不自由な正太郎に任せるとは、一体全体忠相は何を考えているのだろうか。
「お、お耳役ですか? 御頭様、一体どういうおつもりでしょうか? 耳の聞こえぬ私にお耳役とは、冗談にも程があります」
もちろん、任命された正太郎も困惑するばかりだった。
「どうにもこうにもない。お耳役は、お耳役だ」
それなのに、忠相は平然と構えているではないか。
「で、ですが、私は耳が聞こえませぬ」
もしかしたら、馬鹿にされているのではないか。そんな風に受け止めた正太郎は、つい憮然とした表情を浮かべてしまった。
「はて、誰がそのお耳役と言ったか?」
ところが、忠相は実にあっけらかんとした態度で答えた。
「え?」
「お主にはお主にしか聞こえぬ声があるだろう。今までも亡き者の声を聞いておるではないか。お耳役とはその声を聞きわける役目だぞ」
「あぁ、そうであったか。亡き者の声を聞くお耳役とは、これ如何に」
先ずは合点承知した平一郎が、さらさらっと筆談で正太郎に伝える。
「亡き者の声を聞くお耳役?」
忠相は情報収集役としてのお耳役ではなく、亡き者たちの声を聞くお耳役に任命したというのだ。
「ただ、お主の特別な力を知る者は、奉行所でも私と平一郎しかおらぬ。それゆえ、捜査は内密に進めて欲しい」
他人とは違う己にしかない特別な力――亡き者の声を聞き取る力を活かせる役目。それが忠相のいうお耳役だとしたら、ここはひとつ受けてみる価値があるのかもしれない。
「正太郎、どうだ? お前にしかできない役目だぞ」
心配そうに平一郎が顔を覗き込む。聞こえない耳のせいで今まで余分な苦労を掛けてしまった。きっと父は息子の活躍を望んでいるはずだし、できればその期待にも応えてみたい。今まで通り亡き者の声を聞き取り、事件の真相に迫るだけなら迷いはないだろう。
「貞永正太郎、お耳役を精一杯務めさせていただきます」
晴れ晴れしい気持ちで、正太郎は誓った。今、ここに南町奉行所お耳役が誕生したのであった。
忠相に手招きされて、正太郎は部屋の中に入った。
「前々から耳にしていたが、お主の特別な力は思っていた以上のようだな。寺社奉行も日隠の悪行を見抜けなかったと、悔しがっておったぞ」
嬉々として語る忠相の向かいには、何故か父平一郎が座っているではないか。
『お前のことは既に御頭様には報告済だ。全て承知でいらっしゃる』
待っていましたとばかり、筆談で事情を説明していく。
「え? そ、それは真ですか?」
二人だけの秘密だと約束してはずなのに、まさか忠相に打ち明けていたとは露知らず。既に平一郎から特別な力の話を聞いていた忠相は、常々この目で確かめていたいと望んでいたらしい。
「既に父から話を伺っているそうで、恐縮しきりでございます」
己の秘密を知られたのは不本意だが、相手は南町奉行の大岡忠相だ。憤りを悟られないよう低姿勢で応えた。そんな正太郎の思いを無視して、突然忠相は本題に入った。
「そこで、貞永正太郎。私からお主に新たな役目を与えたいと考えておる」
「あ、新たな役目と申しましたか、御頭様?」
正太郎は忠相の唇を読み取り確かめた。
「そうだ、新たな役目だ」
どうやらお役御免は免れたようだ。だが、吟味方書物役見習いという立派な役目があるのに、更に新たな役目を与えるとはどういう意図があるのだろう。いや、それよりも手前にできる役目が他にあるのだろうか。
「ふぅむ、新たな役目ねぇ」
考え込む正太郎を無視して、またしても忠相は告げた。
「本日からお主を南町奉行所お耳役として任命する」
人柄を示すような伸びやかだが規律正しい文字で、『南町奉行所お耳役』と記してあった。
「お耳役とはこれ如何に? 正太郎は耳が聞こえませぬぞ、御頭様」
事前に何も知らされていなかったらしく、平一郎も驚きの色を隠せない。何故ならば、お耳役とは情報収集をする役回りだ。それを耳の不自由な正太郎に任せるとは、一体全体忠相は何を考えているのだろうか。
「お、お耳役ですか? 御頭様、一体どういうおつもりでしょうか? 耳の聞こえぬ私にお耳役とは、冗談にも程があります」
もちろん、任命された正太郎も困惑するばかりだった。
「どうにもこうにもない。お耳役は、お耳役だ」
それなのに、忠相は平然と構えているではないか。
「で、ですが、私は耳が聞こえませぬ」
もしかしたら、馬鹿にされているのではないか。そんな風に受け止めた正太郎は、つい憮然とした表情を浮かべてしまった。
「はて、誰がそのお耳役と言ったか?」
ところが、忠相は実にあっけらかんとした態度で答えた。
「え?」
「お主にはお主にしか聞こえぬ声があるだろう。今までも亡き者の声を聞いておるではないか。お耳役とはその声を聞きわける役目だぞ」
「あぁ、そうであったか。亡き者の声を聞くお耳役とは、これ如何に」
先ずは合点承知した平一郎が、さらさらっと筆談で正太郎に伝える。
「亡き者の声を聞くお耳役?」
忠相は情報収集役としてのお耳役ではなく、亡き者たちの声を聞くお耳役に任命したというのだ。
「ただ、お主の特別な力を知る者は、奉行所でも私と平一郎しかおらぬ。それゆえ、捜査は内密に進めて欲しい」
他人とは違う己にしかない特別な力――亡き者の声を聞き取る力を活かせる役目。それが忠相のいうお耳役だとしたら、ここはひとつ受けてみる価値があるのかもしれない。
「正太郎、どうだ? お前にしかできない役目だぞ」
心配そうに平一郎が顔を覗き込む。聞こえない耳のせいで今まで余分な苦労を掛けてしまった。きっと父は息子の活躍を望んでいるはずだし、できればその期待にも応えてみたい。今まで通り亡き者の声を聞き取り、事件の真相に迫るだけなら迷いはないだろう。
「貞永正太郎、お耳役を精一杯務めさせていただきます」
晴れ晴れしい気持ちで、正太郎は誓った。今、ここに南町奉行所お耳役が誕生したのであった。
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