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岸本屋店主彦左衛門の訴え
一
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そんな正太郎に奇妙なことが起き始めたのは、いつの頃からだろうか。いつものように吟味詰まり口書を作成していると、何やら不気味な音が聞こえてくるではないか。
耳が不自由なのだから、聞こえるというのは実に奇妙な話。最初のうちは音が上手く聞き取れず、虫が耳元で飛び回るようにうるさく感じた。
すわ、新しい病にでもかかったのではないかと正直不安になった。ところが、徐々に雑音が人の話し声に変わっていき、今ではしかと正太郎の耳にその声が届いてきている。ほら、こんな風に……
――いや、違います。殺したのはそいつじゃあございません、旦那。
低くて落ち着きのある高齢の男の声だが、どうもその声は正太郎にしか聞こえないらしい。周囲をきょろきょろと見回しても、誰一人として気づいていないようだ。
どうしたものかと悩んではみたが、話しかけてくる声を無視できない。深く息を吸い、吐いてはまた吸って気持ちを落ち着かせる。そして、周囲に誰もいなくなってから、意を決し正太郎はそっと声をかけてみる。
「ち、違うとは、どういう意味であろうか?」
手前の声も聞こえないわけだから、この音量が的確かどうかはわからない。だが、両親から窘められた日々を思い出す。喉に負担が少ないのだから、大きな声を出しているわけではなさそうだ。
「ここには手代の犯行だと記されておるが、それが別人による犯行とでも言いたいのだろうか?」
事件は日本橋本町にある薬種問屋岸本屋で起きた。手代の長吉が店の売り上げを盗んだことを咎められ、店主の彦左衛門を出刃包丁でぐさりと刺殺したという。吟味方が執拗な取り調べをした後、下手人が自白した。それなのに、それは違うとは如何なものだろうか。
気になって尋ねてみると、声の主はすぐさま返答した。
――犯人は長吉ではなく、番頭の忠兵衛でございます。
「しかしながら、その日に忠兵衛は休みをもらい、不在だったと記されておるぞ」
不思議なことに声の主は、口書には記されていない当日の様子を事細かに説明し始めた。
表向きには休みをもらったはすの忠兵衛だが、実は夕方まで店の奥で算用帳の整理をしていたそうだ。そして、夜になるのを今か、今かと待ち構えていたらしい。夜が更け店主の彦左衛門が床に入ったのを見定めると、隠し持っていた出刃包丁で強行に出たという。
耳が不自由なのだから、聞こえるというのは実に奇妙な話。最初のうちは音が上手く聞き取れず、虫が耳元で飛び回るようにうるさく感じた。
すわ、新しい病にでもかかったのではないかと正直不安になった。ところが、徐々に雑音が人の話し声に変わっていき、今ではしかと正太郎の耳にその声が届いてきている。ほら、こんな風に……
――いや、違います。殺したのはそいつじゃあございません、旦那。
低くて落ち着きのある高齢の男の声だが、どうもその声は正太郎にしか聞こえないらしい。周囲をきょろきょろと見回しても、誰一人として気づいていないようだ。
どうしたものかと悩んではみたが、話しかけてくる声を無視できない。深く息を吸い、吐いてはまた吸って気持ちを落ち着かせる。そして、周囲に誰もいなくなってから、意を決し正太郎はそっと声をかけてみる。
「ち、違うとは、どういう意味であろうか?」
手前の声も聞こえないわけだから、この音量が的確かどうかはわからない。だが、両親から窘められた日々を思い出す。喉に負担が少ないのだから、大きな声を出しているわけではなさそうだ。
「ここには手代の犯行だと記されておるが、それが別人による犯行とでも言いたいのだろうか?」
事件は日本橋本町にある薬種問屋岸本屋で起きた。手代の長吉が店の売り上げを盗んだことを咎められ、店主の彦左衛門を出刃包丁でぐさりと刺殺したという。吟味方が執拗な取り調べをした後、下手人が自白した。それなのに、それは違うとは如何なものだろうか。
気になって尋ねてみると、声の主はすぐさま返答した。
――犯人は長吉ではなく、番頭の忠兵衛でございます。
「しかしながら、その日に忠兵衛は休みをもらい、不在だったと記されておるぞ」
不思議なことに声の主は、口書には記されていない当日の様子を事細かに説明し始めた。
表向きには休みをもらったはすの忠兵衛だが、実は夕方まで店の奥で算用帳の整理をしていたそうだ。そして、夜になるのを今か、今かと待ち構えていたらしい。夜が更け店主の彦左衛門が床に入ったのを見定めると、隠し持っていた出刃包丁で強行に出たという。
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