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吊り革全部ドーナツ
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終電に乗った。
仕事が中々、いや結局終わらなくて、最後の一本に間に合うように会社を飛び出した。
人はそこそこいたけれど、終点へと近づくにつれて減っていく。既に車内には自分と一人の女性のみだった。
自宅の最寄り駅は、終点の一つ前。あと二駅。
疲れてはいたけれど、眠ってしまう心配はなかった。
「ドーナツ……」
車内に合わせて揺れる 吊り革。その持ち手の部分が全て、円形の揚げ菓子だった。
その光景に自分の目はすっかり冴えていたのだ。
それは、電車に駆け乗った時からずっと。
きっと疲れているのだ。今は確かに糖分が欲しいし、何よりドーナツは好物だ。
無意識に欲した物が、視界に重なったのかもしれない。
なにより、これまで誰も、その変質したつり革に声を上げる人はいなかった。三人分ぐらい空けて座る右側の女性も、平然と小説を読んでいる。
けれど一応確かめておきたくて、ドーナツに変わった吊り革を指さして彼女を見る。
「ドーナツ、ですよね?」
「……はい?」
少しだけ間をおいて振り向く彼女は、当然のごとく怪訝に首を傾げた。
その女性は、見た目だけで見ればそう歳は離れていなかった。同年代か年下。少し明るく着色されたボブカットと左耳の小さなピアスが印象的だった。
大学生、あるいは女子高生にも見える顔立ちだったが、服装から社会人の様だ。
「いえ、乗った時から、吊り革が全部ドーナツだったんです」
「そうなんですね」
女性は興味なさげに相槌を打つ。言葉を止めればすぐに小説へと意識を戻した。
彼女には申し訳ない事をしていると自覚しながらも、真実を知りたくてたまらず、更に話しかける。
「見えません? ドーナツに」
「……。見えませんね」
女性はきちんと吊り革を確認してから答えてくれる。それから特に文句を言うでもなく、また読書を再開させた。
どうやらやはり、自分にしか見えていないのは間違いないらしい。
仕事の疲れだろうか。確かに最近は残業続きだ。精神的には大丈夫だと高を括っていたが、体には出てしまうのか。
……いや待て。別の可能性もある。むしろ、自身の視界の方が正しいという説。
つまりは、本当はつり革はドーナツだけど、周囲の人はそのドーナツをつり革だと思い込んでいる。世界の認識が書き換わっているのだ。
おお、なんだかそっちの説の方が楽し気じゃないか。
「もし、自分の見ている景色の方が正しかったら、ここにはいくつものドーナツがあるってことになりますよね」
「……まあ、そうなりますね」
「ちなみに自分の目の前にはフレンチクルーラー。そっちはポン・デ・リング。向こうの列はオールドファッション。あっちの車両はなんと全部ゴールデンチョコレートなんですよ」
「ミスドなんですね」
「ですね、大好きです」
どれも一度は食べた事ある物ばかりだ。晩飯はカロリーメイトだけだったから、お腹がうずき始めている。
だからたまらずに確認を取った。
「食べてみても良いですかね?」
「つり革には、結構な雑菌がついていると思いますよ」
そう言われると躊躇う。
自分が見ている間は、人が少ないこともあり、握っている人はいなかったが、誰も触れていないという可能性は低い。妙な菌を貰って病気にでもなったら目も当てられない。
それでも、なんとなく引き下がれない気分だった。
「自分、ドーナツ好きなんですよ」
「そうなんですか」
「今借りてる部屋も、決め手は近くにミスドがあったからなんです」
「それは極端ですね」
「だから、ドーナツを目の前にしたらどうしても食べたいんです」
「ドーナツにしろ吊り革にしろ、この車内に備え付けられている物ですから、勝手に食べたら器物損壊になるのでは?」
「確かにっ!?」
女性の言い分は至極真っ当だった。
自分が見逃していたところを、的確に気づかせてくれる。声音は淡白だが、適当な相槌ではなく話に合わせて言葉を返してくれていた。
だからか、ついつい話を続けてしまう。
「しかし、なんで吊り革がドーナツになっているんですかね」
「形状が似ているからじゃないですか」
と、その時、女性の目の前で揺れていたポン・デ・リングが落ちた。
「あ、ポン・デ・リングが落ちた!」
「それは大変ですね」
「拾って確かめてみます……ふむふむ」
女性の前まで行って、落ちているポン・デ・リングを拾う。その感触は確かなもので、にぎにぎしていると指先に砂糖がこびりついた。
「この握り心地は間違いありません。ポン・デ・リングです」
「握り心地で分かる物なんですね」
「好きですから」
「大層ですね」
そう評価されるとちょっと嬉しかった。
それから、ちぎれたポン・デ・リングが吊るされていた場所を確認して、そこで目を剥いた。
「なっ! ストロベリー!?」
まさかのランクアップをしていた。まあノーマルだって愛されているから、階級が上がったと表するのは異論があるかもしれないが、コーティングと値段は増えている。
先ほどの落下はいわゆる脱皮的なものなのだろうか。新たな姿へと変化するため、古い姿を捨て去る。このつり革は生物だったのか。
「すみません、ちょっと吊り革を握ってみてもらえませんか?」
「はあ……」
女性は曖昧な返事をしながらも、素直に立ち上がって吊り革を握った。
「今、ポン・デ・ストロベリーを握っていますよ……!」
「へえ、思っていたより固いんですね」
どうやら女性の目には変わらず吊り革が映っているらしい。こちらの興奮はさらりと流して、感想を告げた後はすぐに座り、小説のページをめくった。
握られていたポン・デ・ストロベリーは、握っている時は潰れているように見えたのに、今は整った形でぶら下がっている。
よく分からない現象だ。
女性の隣に腰を落ち着かせて、改めて拾ったポン・デ・リングを確かめる。しかしそこには何もなかった。油がまとわりついたべたつきもない。
「……どうやら、やっぱり自分が幻覚を見ているようでした」
「ゆっくり休んで疲れを取って下さい」
はい、と頷いたその時、車内アナウンスが耳に飛び込む。
『次は終点、糖輪駅ー』
電子掲示板を眺めて呆然とする。どうやら、話に夢中ですっかり、降りそこなったようだった。
「……乗り過ごしてしまいました」
それは、女性の声。
彼女も、自分の話に付き合ったばかりに乗り過ごしたらしかった。
「すいません自分のせいですね。タクシー代は払います」
「いいえ結構です。このくらいは自己責任ですよ」
女性は慌てるそぶりもなく、車窓から外の景色を眺める。
徐々に電車は減速して行って、終点の駅が見え始めてくる。真っ黒を照らす光。そこの中はとても静かで、背景として彼女の横顔をとてもキレイに映していた。
だからついつい、口から出てしまう。
「それじゃあ、結婚してくれませんか?」
「……はい?」
それは、初めの時のように、彼女は自分に掛けられた言葉だと思わず、少し間を空けて、それでも視線がこちらに向いているものだから首を傾げる。
「えっと、いきなり過ぎませんか?」
「運命を感じました」
「と言う事は、今までのはナンパだったんですか」
「いいえ違います。ドーナツは本当に好きです」
「いや、吊り革がドーナツに見えるってところなんですけど」
女性は思わずと言うように笑った。
彼女は最後まで、自分の話を聞いてくれていた。与太話と取られても仕方ないのに、かと言って変に前のめりなわけではなく、ただただ、付き合ってくれた。
その時間が、自分にとってはとても心地よかった。
理想だった。
電車が止まって、アナウンスが流れる。ドアが開いて、女性は立ち上がった。
「どちらにせよ、ゴメンなさい。名前すら知りませんから」
冗談に返すように、女性は笑いながら頭を下げる。
その仕草を見て、やっぱり素敵だと思う。
芯を持っていて流されはしない。偏見や決めつけでなく、ちゃんと受け止めてから返してくれる。
やはり理想の女性だった。
だから、その手を掴みたかった。
「せめて、ドーナツは奢らせてください」
「タクシー代じゃないんですね」
吊り革のように。目的地まで離さず。
電車を降りてからも、それはまだやっぱり大好物のままだった。
仕事が中々、いや結局終わらなくて、最後の一本に間に合うように会社を飛び出した。
人はそこそこいたけれど、終点へと近づくにつれて減っていく。既に車内には自分と一人の女性のみだった。
自宅の最寄り駅は、終点の一つ前。あと二駅。
疲れてはいたけれど、眠ってしまう心配はなかった。
「ドーナツ……」
車内に合わせて揺れる 吊り革。その持ち手の部分が全て、円形の揚げ菓子だった。
その光景に自分の目はすっかり冴えていたのだ。
それは、電車に駆け乗った時からずっと。
きっと疲れているのだ。今は確かに糖分が欲しいし、何よりドーナツは好物だ。
無意識に欲した物が、視界に重なったのかもしれない。
なにより、これまで誰も、その変質したつり革に声を上げる人はいなかった。三人分ぐらい空けて座る右側の女性も、平然と小説を読んでいる。
けれど一応確かめておきたくて、ドーナツに変わった吊り革を指さして彼女を見る。
「ドーナツ、ですよね?」
「……はい?」
少しだけ間をおいて振り向く彼女は、当然のごとく怪訝に首を傾げた。
その女性は、見た目だけで見ればそう歳は離れていなかった。同年代か年下。少し明るく着色されたボブカットと左耳の小さなピアスが印象的だった。
大学生、あるいは女子高生にも見える顔立ちだったが、服装から社会人の様だ。
「いえ、乗った時から、吊り革が全部ドーナツだったんです」
「そうなんですね」
女性は興味なさげに相槌を打つ。言葉を止めればすぐに小説へと意識を戻した。
彼女には申し訳ない事をしていると自覚しながらも、真実を知りたくてたまらず、更に話しかける。
「見えません? ドーナツに」
「……。見えませんね」
女性はきちんと吊り革を確認してから答えてくれる。それから特に文句を言うでもなく、また読書を再開させた。
どうやらやはり、自分にしか見えていないのは間違いないらしい。
仕事の疲れだろうか。確かに最近は残業続きだ。精神的には大丈夫だと高を括っていたが、体には出てしまうのか。
……いや待て。別の可能性もある。むしろ、自身の視界の方が正しいという説。
つまりは、本当はつり革はドーナツだけど、周囲の人はそのドーナツをつり革だと思い込んでいる。世界の認識が書き換わっているのだ。
おお、なんだかそっちの説の方が楽し気じゃないか。
「もし、自分の見ている景色の方が正しかったら、ここにはいくつものドーナツがあるってことになりますよね」
「……まあ、そうなりますね」
「ちなみに自分の目の前にはフレンチクルーラー。そっちはポン・デ・リング。向こうの列はオールドファッション。あっちの車両はなんと全部ゴールデンチョコレートなんですよ」
「ミスドなんですね」
「ですね、大好きです」
どれも一度は食べた事ある物ばかりだ。晩飯はカロリーメイトだけだったから、お腹がうずき始めている。
だからたまらずに確認を取った。
「食べてみても良いですかね?」
「つり革には、結構な雑菌がついていると思いますよ」
そう言われると躊躇う。
自分が見ている間は、人が少ないこともあり、握っている人はいなかったが、誰も触れていないという可能性は低い。妙な菌を貰って病気にでもなったら目も当てられない。
それでも、なんとなく引き下がれない気分だった。
「自分、ドーナツ好きなんですよ」
「そうなんですか」
「今借りてる部屋も、決め手は近くにミスドがあったからなんです」
「それは極端ですね」
「だから、ドーナツを目の前にしたらどうしても食べたいんです」
「ドーナツにしろ吊り革にしろ、この車内に備え付けられている物ですから、勝手に食べたら器物損壊になるのでは?」
「確かにっ!?」
女性の言い分は至極真っ当だった。
自分が見逃していたところを、的確に気づかせてくれる。声音は淡白だが、適当な相槌ではなく話に合わせて言葉を返してくれていた。
だからか、ついつい話を続けてしまう。
「しかし、なんで吊り革がドーナツになっているんですかね」
「形状が似ているからじゃないですか」
と、その時、女性の目の前で揺れていたポン・デ・リングが落ちた。
「あ、ポン・デ・リングが落ちた!」
「それは大変ですね」
「拾って確かめてみます……ふむふむ」
女性の前まで行って、落ちているポン・デ・リングを拾う。その感触は確かなもので、にぎにぎしていると指先に砂糖がこびりついた。
「この握り心地は間違いありません。ポン・デ・リングです」
「握り心地で分かる物なんですね」
「好きですから」
「大層ですね」
そう評価されるとちょっと嬉しかった。
それから、ちぎれたポン・デ・リングが吊るされていた場所を確認して、そこで目を剥いた。
「なっ! ストロベリー!?」
まさかのランクアップをしていた。まあノーマルだって愛されているから、階級が上がったと表するのは異論があるかもしれないが、コーティングと値段は増えている。
先ほどの落下はいわゆる脱皮的なものなのだろうか。新たな姿へと変化するため、古い姿を捨て去る。このつり革は生物だったのか。
「すみません、ちょっと吊り革を握ってみてもらえませんか?」
「はあ……」
女性は曖昧な返事をしながらも、素直に立ち上がって吊り革を握った。
「今、ポン・デ・ストロベリーを握っていますよ……!」
「へえ、思っていたより固いんですね」
どうやら女性の目には変わらず吊り革が映っているらしい。こちらの興奮はさらりと流して、感想を告げた後はすぐに座り、小説のページをめくった。
握られていたポン・デ・ストロベリーは、握っている時は潰れているように見えたのに、今は整った形でぶら下がっている。
よく分からない現象だ。
女性の隣に腰を落ち着かせて、改めて拾ったポン・デ・リングを確かめる。しかしそこには何もなかった。油がまとわりついたべたつきもない。
「……どうやら、やっぱり自分が幻覚を見ているようでした」
「ゆっくり休んで疲れを取って下さい」
はい、と頷いたその時、車内アナウンスが耳に飛び込む。
『次は終点、糖輪駅ー』
電子掲示板を眺めて呆然とする。どうやら、話に夢中ですっかり、降りそこなったようだった。
「……乗り過ごしてしまいました」
それは、女性の声。
彼女も、自分の話に付き合ったばかりに乗り過ごしたらしかった。
「すいません自分のせいですね。タクシー代は払います」
「いいえ結構です。このくらいは自己責任ですよ」
女性は慌てるそぶりもなく、車窓から外の景色を眺める。
徐々に電車は減速して行って、終点の駅が見え始めてくる。真っ黒を照らす光。そこの中はとても静かで、背景として彼女の横顔をとてもキレイに映していた。
だからついつい、口から出てしまう。
「それじゃあ、結婚してくれませんか?」
「……はい?」
それは、初めの時のように、彼女は自分に掛けられた言葉だと思わず、少し間を空けて、それでも視線がこちらに向いているものだから首を傾げる。
「えっと、いきなり過ぎませんか?」
「運命を感じました」
「と言う事は、今までのはナンパだったんですか」
「いいえ違います。ドーナツは本当に好きです」
「いや、吊り革がドーナツに見えるってところなんですけど」
女性は思わずと言うように笑った。
彼女は最後まで、自分の話を聞いてくれていた。与太話と取られても仕方ないのに、かと言って変に前のめりなわけではなく、ただただ、付き合ってくれた。
その時間が、自分にとってはとても心地よかった。
理想だった。
電車が止まって、アナウンスが流れる。ドアが開いて、女性は立ち上がった。
「どちらにせよ、ゴメンなさい。名前すら知りませんから」
冗談に返すように、女性は笑いながら頭を下げる。
その仕草を見て、やっぱり素敵だと思う。
芯を持っていて流されはしない。偏見や決めつけでなく、ちゃんと受け止めてから返してくれる。
やはり理想の女性だった。
だから、その手を掴みたかった。
「せめて、ドーナツは奢らせてください」
「タクシー代じゃないんですね」
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