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▼19「バレンタインデー」

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『ちゃんと持ってきているみたいね』
 もちろん、忘れるわけないよ。

 早朝の教室。
 この時間帯も以前よりは明るくなっているが、まだ本を読んだりするには足りない光度。そんな中でも多少は視界の効く窓際の自席へと、僕は椅子を一つ運んでいた。

 今日はバレンタインデー。
 先日の約束通り、僕たちは手作りしたチョコレートを持参している。
 そして、椅子を運んでいるこの行為も、お互いをより近くに感じようとするため。今日だけは隣にいたいという願望を叶えるためだ。
 それは意味のない見当外れなことだろうけれど。
 それでも僕らはそうした。
 随分と長いこと誰も座っていない安立さんの席の椅子を、僕の席の側まで持ってくる。ここではない場所にいる安立さんも同じようにしてくれている。
 安立さんの席の方に僕の椅子を運ぶでも良かったけれど、窓際が良いと安立さんの方から申し出たので今の形になった。
 少し机も動かし空間を作って、ピッタリと椅子同士をくっつける。窓が正面になるように、僕たちは並んだつもりになって座った。
 暗がりの中に存在を感じることがあればいいなと願いつつ、当然のように肩に触れる感触はない。
 分かり切っていながらも残念な気持ちがあって、それに囚われて落ち込まないようにとさっさと本題へと入る。

「じゃあ、早速食べようか」

 今は誰もいないから口に出す。
 それは前にやめてしまった行為だったけれど、今日は特別だからと再開させた。傍目から見たらとても恥ずかしいことをしていると自覚しながら、そういう現実離れした感じが、少しではあるものの気分を高揚させてくれる。
 それではと僕がカバンの中からチョコレートを取り出そうとすると、制止の声がかかって手を止めた。

『ちょっと待って。先にその、想いを伝え合いましょう。ほら、普通、伝えてからチョコを渡すものでしょ?』

 と言いながら、既にいくつか考えていたのだろう愛の告白めいた言葉が、安立さんの方から流れて込んでくる。そのせいでもう体中が熱くなっていて、でも僕も負けじと愛を羅列していった。
 そんな氾濫する想いを、安立さんはどうにかまとめて言葉にする。

『三戸くん、好きよ。この想いだけでも、受け取って欲しいわ』

 その声はどんな音よりも美しく聞こえた。僕の胸に色んな感情を渦巻かせて、それを全て吹き飛ばす魅力で胸を潰されるようだった。
 彼女が意識して、好意を向けてくれたのはきっと初めてだ。
 だからこそ、今までにない喜びで満たされて、その裏側にはどうしようもない寂しさが張り付いている。
 次は僕の番か、と僕もチョコレートを取り出した。

「僕も好きだよ。安立さん、きみのことが好きだ」

 口にしたことへの羞恥と、それ以上の相手側からの感情が頭の中を支配していく。
 自分の言葉を何度も反芻されて歯がゆさを味わうものの、それで否定してしまわないように自分でも好きを繰り返した。

『……思った以上に照れくさいわ』

 確かに、この照れくささは想像以上だった。
 お互いに気持ちを誤魔化そうとして、でもそうじゃなくて今は全てを見せようと自分の頭の中を整理するのだけれど、やっぱり恥ずかしさが勝つ。
 そうしていたらいつまででも時間が経ってしまいそうだったから、僕は手に持っていたチョコレートの包装をさっさと剥がす。すると安立さんも気を取り直して、食べる準備を進めた。
 それから一緒に、小さく頭の中で、せーのっ、と浮かべてチョコレートを口へ、相手へ送る。

『うん、中々の出来だわ』
「こっちも、想像以上に美味しく出来ているよ。あでも、ちょっと粉っぽいな」

 実物を贈ることは出来ないから、自分の想いを込めて作った出来をどうにかこうにかして伝えていく。

『あたしのはこう、外がパリッとしてて中から半分液状のチョコが出て来るの。二度の食感があって美味しいわよ。これはあたしの勝ちかしら?』
「いやいやいや、僕なんかチョコレートケーキだからねっ。すごい満足感があるよっ!」

 それは勝負だったから、お互いに譲らない。
 美味しさの、気持ちの大きさの勝負。

『へぇ、結構手を込んだのを作ったのね』
「そりゃあ負けられなかったからね。……まあ、親には完全に怪しまれたんだけど」
『この時期にチョコを作っていたらそれはそうよね。しかもケーキってなったら材料だけでも隠しようがなさそうだし』
「そうなんだよ。それに普通、こういうのって女子が作るはずなのに、男子な僕が作っているもんだから、え、まさか、みたいな顔されたよ……。慌てて友達と遊びでやることになったって取り繕ってさ」

 とは言え、完全には誤解を解けた気がしていない。今日帰ったらどんな目で見られることやら。

『ふふふっ。あたしもいつも以上に気合を入れていたから、お父さんに本命かって聞かれちゃったわ。本命って言ったけど』
「そ、そっか。僕も誤魔化さなきゃ良かったかな」

 ストレートな発言にちょっと戸惑って、僕もそうやって開き直るべきだったかと少し反省する。

『まあでも、どちらにしろこれまでだから』

 と、安立さんがこぼした言葉で、僕は思わず隣を見た。
 わざわざ持ってきた椅子。そこにはやっぱり誰も座っていなくて、いつまで経っても温もりは感じられない。

『ご、ごめんなさいっ。暗いのは良くないわよねっ。あたしたちはこれを楽しむって決めたのに……』
「そう、だね」

 強がりは、僕たちの間には意味がない。不安はどこまでも筒抜けだった。
 この教室で過ごす時間はもうあとわずか。1か月を既に切っている。
 僕も受験が終わって、これからは堂々と呑気でいられるけれど、でもそうしている間に終わりはやってくる。
 ……ダメだな、やっぱりこんなことばかり考えてしまう。
 そんな負の連鎖を断ち切るように、安立さんは言ってくれた。

『あたしは、今ちゃんと幸せよ』
「……僕だって、幸せだ」

 その気持ちは嘘じゃない。だから、こんなにも胸が苦しいんだ。
 僕は窓の外を眺めた。
 隔絶された寒々しい景色。風が強いみたいで、枯れ木が大きく揺れている。落ちた葉も高く舞い上がっていた。
 その葉を追いかけて、月を見つける。
 薄暗い、青白い空にまだ浮かんでいる。それなのに、せっかちにも太陽は昇って来ていて、地平線に近いところはどんどんと明るくなっている。
 カチカチと時計の音が、嫌に耳に入った。

 時間が、止まればいいのに……。
『ずっと、このままがいいわ……』

 想いは同じだった。それだけでも幸せは感じられた。
 僕は少しだけ、体重を隣へと傾ける。そこには誰もいないけれど、きっと彼女もそうしてくれていると思って肩を寄り添わせる。

『まだ、ちょっと寒いわね』
「そうだね。寒いな……」

 温もりはやっぱり得られない。
 だから体は震えてしまう。

 飛び切り甘くしたはずなのに、口に残ったチョコは少し苦かった。
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