『VRTex<ボルテックス>』―天才幼女リーゼルの物理戦―

我破破

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及川波美が願い続けたもの

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 このわたし、及川波美の人生は退屈なものだった。

 退屈な男、退屈な生徒。言い寄ってくる男はたくさんいたけれど、わたしが好きな数学の話をすると、みんな逃げていった。

 もともと、数学者になりたかったけど、そこまで才能が無いのも分かっていた。現代数学は極度に抽象化が進み、数学で飯が食える人なんて一部の天才である化物たちだけだ。

 結局、夢を諦めて、親の勧めと経済状況の為に、教師へと就職した。

 日々の職務に忙殺され、数学書を読む事も少なくなった毎日。そんな退屈な毎日が、二年ほど続いた時だった。あの『神』が現れたのは―――。

「君が欲しいものは何だい―――?」

 そうして、『神』はイタリア人の素敵なパートナーと出会わせてくれた。それが今の彼、『エンリコ・フェルミ』だ。

 わたしは、彼の語る科学の話に夢中になった。わたしの質問には何でも答えてくれた。わたしたちは、その数学的理論を語りあった。

 彼と暮らした三年間の日々は、わたしが求めていたものそのものだった。

 けれど、いつかはきっと戦わなきゃいけない時がやって来る。それがこの真理論争のルールだ。

 どんな手を使ってでも勝ちたかった。彼を消えさせたくなどなかった。だからわたしは、わたしの教え子をも殺そうとした。そこまでしてでも、わたしは彼の願いを叶えてあげたかった。

 たとえ、その《彼の願い》の中に、《わたし》はいないのだとしても―――――――――

 


「波美くん? おい、波美くんっ……!」

 彼に呼ばれたわたしは、愛車フィアットの助手席の上で目を覚ます。どうやら、いつの間にかうたた寝をしてしまっていたようだ。学校には既に到着してるらしい。

「ん……? なぁに、エンリコ……?」

「いや、とりあえず安高に着いたぞって話……。大丈夫か? 波美くん。やはりまだ、ネゲントロピー消費の疲れが残っているのでは……? まだもう少し休んだ方がよかったのでは……」

「わたしはもう、回復してるから大丈夫よ。それよりも、早いとこ我妻を仕留めに行きましょう。もうすぐ西日の差してる時間帯になるわ。絶好のハント日和よ」

 そう強がって、わたしは正門前の坂下から校舎を眺める。今日は結局、無断欠勤してしまったので、なんとなく居づらい気分になる。それどころか、昨日は戦いであんだけ校舎を壊してしまったのに、一体どの面下げて職場に戻れると言うのか。

「……この正門前に張っておけば、ターゲットは現れるんだな?」

「ええ、もうすぐ部活帰りにこの道を通るハズだわ」

 わたしは、意を決して車から出る。どうせもう、ここで我妻たちを殺さなければ、今の仕事には戻れない。

「……いい狙撃ポイントを探しましょう……」

 

 ※※※

 

 どうにかこうにかバースデーパーティを、盛況のうちに終えた岩平とリーゼルは、技術室を出て、茜色に染まる正門へと歩きだす。松林にとまっているたくさんのカラスが、うるさくカァカァと鳴きあっていた。蒸し暑さはだんだんと夏らしくなってきて、岩平の額の汗をにじませる。 リーゼルは花壇の縁の上を、手を広げて無邪気な子供のように歩いていた。

 爺さんや真理華や数吉は、片付けがあるからと言って、二人は先に帰されたのだった。ホントは岩平もそれくらい手伝いたかったのだが、電気屋のシフトがあるのでそれも無理だった。

 その替わり、余った分のおかずをたくさん持たされたけど、これはまぁ、舞子婆さんにでも食べさせてあげればいい。

「ふー、ケェーキの味はなかなか良かったぞ。がんぺい」

 どこかご満悦なリーゼルは、花壇の縁から飛び降りて、先に正門前に進んでいる岩平へと駆け寄る。

「へー、そりゃ良ござんすた。お前の言うところの『無駄な日常』が役に立って何よりだ」

 わざとらしく、リーゼルのこの前の言葉でからかってみる岩平。だが、リーゼルにそのブーメランはけっこう刺さったようで、かなり言い訳に焦っている。

「あっ、アタシだって、たまには息抜きくらいはするさ! 悪い!?」

「冗談だよ、冗談。分かってるって大丈夫だよ。さぁ、もう家に戻って一息つこうじゃないか」

 そう適当になだめて、岩平は正門の外へと歩き出す。

 しかし、岩平はこの時、ある考えで頭がいっぱいだった。それは、まだ岩平はリーゼルへのお祝いのプレゼントを渡していなかったという点である。ただでさえ、女子小学生の天才少女に、何あげたら喜ぶかなんて分からないのに、一日という準備期間の短さである。おまけに、昨日は爺さんとある用事で出かけていたので、誕生会の設営もロクに手伝えていない。申し訳なさに、歯噛みしそうになった岩平は、ポケットの中で右手を握りしめた。

 

「がんぺー、その……あの……、あり……がとう」

 そうとは知らず、今回の事は、技術部部長である岩平が仕組んだと思っていたリーゼルは、お礼を言おうとする。

「へ? 今なんか言ったか? リーゼル?」

 しかし、呟いたリーゼルの小さな声は、どこか上の空の岩平には届かなかった。二度言うのが、急にこっ恥ずかしくなってきたリーゼルは、真っ赤に赤面して俯いてしまう。

「なっ! 何も言ってないわよ! このお馬鹿がんぺい!」

「な、何だよ一体……? さっきなんか絶対言ってただろ、リーゼル。教えてくれよ」

「うっさい! 言ってないったら言ってないのよばか!」

 照れ隠しで、リーゼルは心にも無い罵詈雑言を、岩平に向けて浴びせてしまう。

「あほ! へんたい! おバカ演算者(オペレーター)っ……!」

 その時だった。夕陽が傾く方角のマンションの屋上から、二人の人間の人影が動いたのは―――――。

 

 ※※※

 

 エンゼルハイムマンションの屋上に来ていた及川は、コンパス狙撃銃で狙いを定めているフェルミを不安げに見つめる。フェルミはまた狙いを定める時に、ブツブツとパラメーターを計算して呟いていた。

「目標への距離、約53メートル。風は北西より、やや西寄り1・3メートル。推定誤差、0・1センチ以内……。今度はもう外さんぞ、我妻岩平よ……」

「あ、あのね、エンリコ……。わたしちょっと、あなたに言おうとして、言えなかった事が……」

 邪魔しちゃ悪いと思いつつ、急に溢れてきた罪悪感に苛まれた及川は過去についた『嘘』の真相についてを打ち明けようとする。それは、昨日の物理演算(シミュレート)実験の時に、ついた『嘘』についての事だった。その『嘘』のせいで今、本当は必要が無いかもしれないのに目の前の教え子の一人が傷付けられようとしていた。

 しかし、集中状態のフェルミには、そんな言葉の一切が聞こえなかった。引き金が引かれ、弾は超音速で飛び、岩平の鳩尾へと、音も無く迫り来る。

「シュート―――――」
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