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鎖輪<チェーン・リング>の岩平
しおりを挟む黒い雨が降り続いていた。
それはまるでコールタールのような粘り気のある、冷めた溶岩の如き漆黒の雨だった。
我妻(あづま)岩平(いわひら)は焼け付くような喉の渇きをそれで潤すと、地獄より酷い惨劇の中を三日三晩彷徨い続けた。
その大災害は隕石のせいだった。
50キロトンという、広島原爆の三倍のエネルギーはある爆発が枚片(ひらかた)市という町の居住区を襲ったのである。凄まじい熱と爆風は一瞬にして、町を瓦礫の山へと変えた。
岩平(いわひら)の両親も、少年の手を握る片腕だけを残して、目の前で一瞬にして消し炭へと変えられた。たまたま建物の陰にいた岩平(いわひら)だけが奇跡的に助かったのである。
後に残されたのは鉛のような曇天と煙と、焼け爛れ、肉塊になった人々のうめき声だけだった。
岩平(いわひら)はこの地獄の底からどうにか逃れようと、必死で瓦礫の山を踏み分け歩く。
だが、いくら待っても助けは来ず、進めば進む程に方角がわからなくなるばかりだった。
やがて、岩平は爆心地のクレーターへと彷徨い着いてしまう。完全に逃げる方向が逆だったのである。
しかし、岩平はその爆心地で意外な光景を目にする。
なんと、今までの嵐が嘘のように、爆心地周辺では晴れ間が広がっていたのである。それはまるで、台風の目のようであった。
さらに、その先で岩平が見たのは有り得ないものだった。
爆心地のちょうど真ん中で、無傷の男が立っていたのである。真っ白な長いローブに身を包み、そこには無数の光のカーテンが降り注いでいた。
その幻想的な光景はまるで――――――まさしくそれは『神』の姿だった――――――――。
「贈り物(ギフト)は受け取ってくれたかい?」
男の声が直接脳内に響いてきた気がした。何かを言っているような気がするが、岩平の意識はだんだんと薄れてゆく。
―ねぇ、どうして……、神様…………。
それが岩平の見た最後の記憶だった。
※※※
「ちょっとやめてよ! 離してぇ!」
鷹月(たかつき)市駅前の路地裏で今日も女学生の悲鳴が聴こえる。十年前のあの大災害以来、移住民の増えたこの隣町の治安は悪化の一途を辿るばかりだった。
他の街はどうか知らないが、春の忙しないゴタゴタや五月病、梅雨の憂鬱も過ぎた初夏ごろになってくると、環境に慣れて、つるみはじめた冴えないゴロツキどもがイキりだす季節になるのがこの街の風物詩である。
「あらまー真理華(まりか)ちゃん、まだおれっちのこと覚えてくれていないとは残念…………。おれっちだよ! 同じ一年生の島本(しまもと)水無瀬(みなせ)!」
そう言って、数人の男子学生の取り巻きと共に、男は嫌がる女学生の手をとる。その学生たちはみんな安岡寺高校の制服を着ている者たちだった。
「実はさぁ、入学式で一回見た時から真理華ちゃんのことイイなぁと思ってたんだよねーおれっち。どうだい? この島本家次期当主であるエリート水無瀬(みなせ)様と一緒にこの夏の青春でも過ごさないかい?」
「やれやれ、ようやく陰鬱な梅雨が明けたと思ったら……、今度はこんな羽虫どもが湧くからヤダねぇ全く……」
この状況を、見るに見かねた我妻(あづま)岩平(いわひら)は女学生と男の間へと割って入る。ちょうど岩平も、電気屋のバイトの帰りに目撃したところだったからだ。
「オメーら、群れなきゃクラスの女子一人に告りも出来ねぇのかい? 男が聞いてあきれらぁ」
「なっ!? その声は!? 『鎖輪(チェーン・リング)の岩平』か!? もう貴様はケンカを辞めた筈では……!?」
岩平はその懐かしい二つ名を聞いて苦笑する。
「こんなのケンカじゃねぇよ。ただのハエ叩きさ」
岩平は悪態とともに、噛んでいたガムを道端に吐き捨てて挑発をした。その両の腕が動く度に、腕に巻かれた大量の鎖が細かなチャリチャリとした音を立てる。さらには岩平が歩く度に、彼の履いた鉄下駄がカツンカツンという戦慄が走るような足音を鳴らした。
「なんだと貴様!? てめぇらやっちまえ! こんな引退日和見ヤローなんざ、おれっちらの敵じゃあねぇ!」
わかりやすく挑発に乗っかった島本水無瀬とその手下たちが岩平へとナイフを向けて襲い掛かる。
そんな暴漢どもの刃を、岩平は腕に巻いた太い鎖で次々と弾き、殴りつけては薙ぎ倒していく。
「ハァ……、てんで手応えの無ぇー奴ら……」
後に残ったのは、倒れて気絶した手下どもの山だった。岩平はそれらを片足の鉄下駄で踏みつけて、最後に残った一人である島本水無瀬を睨み付ける。
「ホラホラどうしたリーダーさん、かかって来いよ。怖けりゃ子分を見捨てて、そのまま逃げ帰ってもいーんだぜ」
「う……ぐ……、ナメやがって畜生ぉぉおおおおおッ!」
度重なる煽りでついにキレてしまった島本水無瀬が岩平へと捨て身で突っ込む。その手には大きなスタンガンが握りしめられていた。まさかこんな武器まで用意していたとは思わなかった岩平はその電撃をまともに喰らってしまう。
「フハハハハハハハ! どうだ! この高電圧スタンガンの味は!? コイツぁ像でも気絶する程の代物だぜ! これでくたばりやがれ!」
しかし、スタンガンを腹に喰らった岩平は微動だにしない。それどころか、相変わらずケロッとした顔で電撃を受け止めている。
「ハァ~……かゆいなぁ~。これじゃあ、スーパー銭湯の電気風呂の方がまだ効くぜ」
「そ、そんなバカな!? 確かに電気は流れている筈なのに!? 故障してるのか!?」
「じゃあ、確かめてみる?」
平気な顔で岩平はスタンガンを素手で掴み、水無瀬の胸へとスタンガンを押し当て返す。
「ぐギャぁぁああああああぁぁ!」
「なんだ、ちゃんとコイツ効いてんじゃないの。像の気絶は無理でも、猿を気絶させるくらいなら出来るみたいだな」
たちまち水無瀬はノビてしまい、倒れているたくさんの男どもの一員へと加わる。
「岩平くん! 大丈夫!?」
助けられた女生徒が急いで岩平へと駆け寄る。岩平はその女生徒を知っていた。中学校からの後輩だったのだ。彼女の名前は見(み)麗(れい)真理(まり)華(か)。くせっ毛のある栗色のミディアムロングの髪をした可愛らしい娘だが、どこか常人の感覚とはズレた天然な奴である。今回、こんな路地裏をうろついて男に絡まれたのも、どうせいつものドジッ娘属性が働いた為であろう。最初に出会ったのも、こんな風にボケっとしていて男に絡まれた所を助けたのがきっかけだ。
「大丈夫だ。なんでか、俺ってば昔から電気の類には強いんでね。なんか、まぁ『帯電体質』っつーの? 冬の静電気も痛くないし、感電系は割と耐えられるんだわ、俺」
「? なるほどー?」
絶対に大して理解できていないであろう顔で真理華(まりか)が答える。
「それよりお前、なんでこんな所にいんだよ。最近、この街も治安が悪いから物騒だろうが」
「えへへ~、スーパーの特売があったのでつい、近道しようとしちゃいました~。後でお礼に、岩平くんにもご飯作ったげるね」
「いらんわ。つか、お前の作るメシ、どれもこれも塩の替わりに砂糖が入ってんだもん。この前なんかお前、ご飯に砂糖かけて食ってたろ」
「えぇ~、砂糖さんは万能なんだよ~」
何がいけないのかというあっけらかんとした顔で真理華が答える。この超絶甘党め。
「とにかく、真理華どのが無事で良かったでやんす」
電柱の陰から声がしたと思ったら、それは、いつもの黒いシャツに黒いオーバーオールを着た空鳶(そらとび)数吉(かずきち)だった。図書館で白土三平のサスケを読んで以来、忍者に憧れているとかいう変てこな小学生で、大分前にガキ大将からいじめられているのを助けて以来、岩平を兄貴分と慕い、しつこくつきまとってくる。本人は忍者のつもりなのか、こうしていちいち物陰から現れてくるのだった。
「それもこれも、急いで知らせに行ったあっしのおかげでやんすね。岩平兄貴の一の子分―――この数吉(かずきち)が」
「俺は舎弟を持った覚えはねーがな」
「あうっ! なんて辛辣なお言葉!? あっしショック!」
「でもまぁ、今回の一件は助かったよ数吉。ありがとな」
「いえいえ、滅相もございやせん。この数吉、兄貴の戦いっぷりが再び見れただけでも満足でございやす」
「そうか、、じゃあお礼はナシでいいな」
「そんなッ!? ガーン!」
「あ~っ、ひどーい岩平くん、小学生を泣かせたぁ~」
「別にいーんだよ、コイツは俺に粗雑に扱われることに快感を感じる変態ストーカー野郎なんだから」
「へへへ……、兄貴ってばあっしの事をよく分かっていらして……って違うでやんすよ! あっしの願いは今もただ一つでやんすよ。どうか兄貴、またケンカの世界へ戻ってきてくれませんかねぇーっ。兄貴ならこの街の天下統一も夢では無いというでやんすのに……」
「その願いだけは聞けんなぁ、俺はもうそーゆーのから一切合切足を洗ったんだよ」
そう一蹴した岩平は、踵を返して去ってゆく。
「じゃあな、俺はもうそろそろ学校に用事があるんで帰るが、念の為お前は真理華を家まで送ってやれ」
いつも通り、岩平は不満げな数吉を無視し、二人を置いて日が沈む帰路へと急いだ。
―やっべ、もう稽古の時間じゃねーか。こりゃまたあのジジイにどやされるぞ。
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