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第一章
ある朝の山田くん
しおりを挟む澄み切った空気が心地よい初夏の早朝。
すれ違う人もまばらなこの時間帯に、急勾配の坂道を少し年季が感じられるようになってきた自転車でガシャガシャ音を立てながら一生懸命登っていく。
最近、ギアの調子が悪くなってきたのを実感しているけれど、我が家の女帝は買い換えを許してはくれなかった。買いたければバイトしろと女帝は言っているし、そうした方がいいのも分かってはいるものの、その時間すら惜しい事が俺にはあるのだ。
そのためにはギアの壊れた自転車で毎朝坂道を登ることなど、俺の太ももと脹ら脛から苦情が来るけれど、どうでもいい事なのだ。
足の痛みより思うことはあの人に会えるという喜びだ。
この坂を登り切れば会えるという歓喜だけが俺の原動力。
俺にとっての最優先事項であり、生きる糧でもあるあの人のためならば、きっと俺は何だって出来てしまうと思う。
現にこうやって雨が降る日でさえ毎日欠かさず行っているのだから。
ザ昭和、もしくは明治を思い浮かばせる古民家の扉を鍵を使って開ける。お邪魔しますと小声で言って、家の住人を起こさないよう、なるべく音を立てないようにそっと歩く。
住人ですら把握しきれていないであろう棚の中から必要な物を取り出していく。
元々、ここの住人はこの場所を廃墟と化してしまえるほどの力量の持ち主だ。
一体今までどんな食生活をしてきたのだろうかとたまに不安になる。
冷蔵庫から買い置きしておいた干物を取り出す。
パン派とご飯派に分かれてしまう昨今、意見が対立したときの対処法は見つけるのが難しい。
俺の場合はあの人の意見こそが遵守すべきであるため、それ以外の意見は受け付けないのだけど。
干物のいい匂いがし出した。
予約しておいた炊飯ジャーからメロディが流れ出す。
魚の焼け具合を確認しつつ溶いた卵を綺麗に厚焼きにしていく。
最初の頃から比べれば、かなり上達してきた方だと思う。
あの人から褒められたことはないけれど、残されたことは無いから、心の中で言ってくれているのだろうと勝手に想像する。
糠漬けもここに通い出してから作り始めたのだが、試行錯誤のおかげか最近は味が安定してきたように思う。
こちらは一番始めに箸をつけるため、お気に入りだと分かる。因みに、一番好きなのは王道、キュウリ様だ。心なしか微笑んでくれているようにさえ思うし。
今日もキュウリ様を取り出し、少し水洗いをしてから切っていく。
ここで俺の腹が苦情を申し立ててくるのでキュウリの端を口に放り込む。
ボリボリと歯ごたえがあって美味しい。今日も合格だな。
お味噌汁の味噌を溶かす前に、起こしに行く。
寝起きが悪いあの人は、起こしてもすぐには食卓に着くことは無い。
一度、起こしに行ってから中々居間に来ないから、もう一度見に行ったことがある。
とは言え、あの人の部屋への立ち入りは許可されていないため、きっちり閉まった扉越しに声を掛けるだけなんだけど。
その時はまた、夢の世界へお出掛けしていたらしく、何故か俺が怒られた。
曰く、起こしてと言っているのだから私が起きるまでが俺の仕事だと。
俺はご立腹なご尊顔が見れただけで満足だったけど。
まあ、そんなことがあってから、起きて扉を開けて出てくるまで俺が声をかけることになった。
出てくるまで時間がかかる分、お味噌汁が温くなる。また沸騰させるにしても、そうしたら塩分が濃くなっているように思うので、起こしてから味噌を溶くことにしだした。
お味噌汁の話はおいておこう。
なんて言ったって、愛しのあの人。美咲ちゃんに数時間ぶりに会えるのだから。
部屋の扉の前で深呼吸。
今日も朝一番に美咲ちゃんが聞く声が俺だということに凄くゾクゾクしてくる。
あっ、少し変態っぽかったかな……ふー気を付けなければ美咲ちゃんに嫌われてしまう。
トントントン
「美咲ちゃーん朝ですよー起きてー。美咲ちゃーん、美咲ちゃーん起きてー」
ううむ、イケボでないのがマイナス点だな。
平凡な声で毎朝起こして申し訳ない気持ちになってくる。
申し訳ないとは思うけど、止める気はないの、ごめんねと、こんな事を思っている間も、しっかりと役目は果たしている。
ずーっと呼びかけていたら、ドスッと扉に何かが当たる音が。
あー良かった、起きたみたい。
今日も八つ当たりで投げつけられたであろうぬいぐるみのダイフクに心からのお悔やみを言う。勿論、口になんて出さないけど。
暫くしてから、ゆっくり扉が開いた。
可憐とは言い難いほどボサボサになった髪が一番に見える。
この髪が、梳かせば天使の輪を作り出す絹糸のような美しい物になるなんて……正直詐欺だと思う。
しかし、そのボサボサの髪の間から覗くご尊顔はとてつもなく綺麗だ。
作り物かと思うほど整ったお顔をこれでもかと崩してのご登場だけど、これはこれで愛嬌があって可愛らしい。
さて、美咲ちゃんが起きたことだし、まずは挨拶をしなければね。
「おはよう、美咲ちゃん。今日も綺麗だね」
ギロッと睨み付けてくる愛しい人。ううん、可愛い。
「ふぁー、おはよう山田。今日も顔面がうるさいわね」
ううーんとのびをしながら、欠伸をする。
思わずさっと目を反らしてしまった。だって可愛いお口の中が見えてしまったんだもの。心の準備ができてなかったから危なかった。ドキドキしすぎて死ぬかと思った。
顔面に熱がこもってくるのが分かる。今、真っ赤だよな?わー恥ずかしいぃ。
羞恥に悶えながらも、チラリと美咲ちゃんを見てみる。
どんな目で見てるのかな?蔑んだような冷たい目?それとも、こいつ可愛い奴だなっていう優しい目?
どっちでも、美咲ちゃんが目に俺を写してくれるなら嬉しいなと。そんな淡い期待で見たけれど、残念ながら目線の先に俺はいなかった。
足元に転がっているダイフクに謝罪をしていたから。
ぬいぐるみと侮るなかれ、奴の座高は九十センチメートルを超える。抱きかかえれば、足の長さも相まって百六十センチメートルの美咲ちゃんの膝位までになる。頭の大きさも、美咲ちゃんの三倍はあるだろう。そして、重さはニキロをゆうに超える。
これを投げつけられる美咲ちゃんって……と毎回思うが、引きはしない。だって、もの凄く大好きだから。むしろ可愛さが増すと思っている。
怪力の美少女も最高ではないか。
謝りたおしていた美咲ちゃんの気が済んだらしい。
おなか空いた早くご飯~とダムダム足をならす。
ついでに抱きかかえているダイフクも手足がバタバタとしている。
美咲ちゃんはかわいいからこのままで。
ダイフク、お前はホコリとダニ、その他もろもろ舞うから止めなさい。
今度、日干しと言うお家からの締め出ししてやる。
目も閉じたまんまで本当腹立つな。目を開けろ、朝だぞコノヤロウ。まあ、実際に目を開いたらそれはそれでホラーで嫌なんだけど。
美咲ちゃんが顔を洗ってくる間にお味噌を溶かす。
今日の具は、トマトとオクラ。夏を意識してみたけど、気に入ってくれるかな?
あっ、ちなみに美咲ちゃんが一番好きなのは豆腐の味噌汁です。
王道が好きなの美咲ちゃん。
分かりやすくて可愛いでしょう?
「「いただきます」」
二人で着席して黙々と食べる。
ちゃっかり美咲ちゃんの隣にお座りしているダイフクに若干ムッとしつつも、無機物だからそこまで嫉妬はしない。……してないもん。
もんとか言って、可愛さ対抗なんてしてないし。本当に。
「ねえ、なくない?」
いきなり話しかけられてビックリした。
食事中はあまり話すことなんてないから。今日はどういう風の吹き回しかな?嬉しいけど、ドキドキするから心臓に悪い。
「ん?何がかな。いつも通りの品揃えだと思うけど、足りなかった?」
「足りなくはないけど。なくない?端っこ」
「端っこ?」
「キュウリの。端っこは?」
ああ、それなら
「さっき食べちゃった」
「何で?」
「お腹が空きすぎて。もしかして、端っこ食べたかったの?」
「いつも山田が美味しそうに食べてるから気になっただけだもん……」
同じ“もん”でも使用する人間が違えばここまで変わるのか……
口に出して言わなくてよかった。平凡(良く言って)の俺が言っていいセリフではないな。
いつも、できれば美味しいところをって真ん中をあげているけど、次回からは端っこを乗せてあげよう。
っていうか、俺が食べてる顔を見てくれているのか。
嬉しさ半分、恥ずかしさ半分ってところだな。
あーやっぱり、恥ずかしさが勝っちゃうかも。
少し熱を持った頬を気にしながら、もぐもぐと食べた朝食は味なんて分からなくなっちゃったけど、なんか幸せな味がした気がする。
ごちそうさまをして、美咲ちゃんは出かける準備を。俺は食器の片付けをする。
二人そろって玄関に行き、互いに行ってきますをして、美咲ちゃんの姿が見えなくなるまで見送って、俺は彼女と反対方向に自転車を漕ぎ出す。
今日は美咲ちゃんの可愛いお口の中が見られたし、きっと何かいいことがあるはずだ。
今日の夕飯は何にしようかな?と冷蔵庫の残りを思い出しながら考える。
そうだ今日は美咲ちゃんの大好物のハンバーグを作ってあげよう。特別にデミグラスソースだ。
俺にも良いことがあったんだから、美咲ちゃんにも良いことがないとね。
来るときより、少しぬるくなった空気を吸い込みながら、俺は登ってきた坂道を勢いよく下っていった。
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