1000文字短編集

桜木雨

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徒桜

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桜は、いつの世も人の心を惑わせる。
そう言ったのは誰だったか。
俺は、そう言ったあのお方を今も探し続けている。


「春の宮。こちらにおいでになられたのですか。夜風は体に障ります。お部屋にお戻りください」
「宗一郎。見よ。桜が美しいであろう」
その言葉とともにはらりと、その美しい目から涙がこぼれ落ちた。
「春の宮…泣いておられたのですか」
「…世の中に絶えて桜のなかりせれば春の心はのどけからまし。桜はいつの世も人の心を惑わせる。私はあと何度この桜を見ることができるのだろうか」

その僅か1ヶ月後、春の宮は黄泉の国へと旅立った。


風が吹く。
桜が散る。
花びらが舞う。
僕は、その美しい桜の木の下に車椅子を近づけた。
その桜の幹に触れた瞬間。
心が掻き乱されるような、そんな感覚がした。
何が起こったわけでもないのに、何を思い出したわけでもないのに、ただ訳もなく心が騒いだ。

「また、泣いておられたのですか」

泣いて、いるのか。
男のその言葉で、気がついた。
自分は、泣いているのだと。
また、と彼は言った。
彼の前で涙を見せたことなどないはずだ。
そもそも初対面なのだから。
けれど、その言葉はどこか暖かくて、心地よくて。
どこか懐かしかった。

「…世の中に絶えて桜のなかりせれば春の心はのどけからまし。桜はいつの世も人の心を惑わせる、でしたか。お会い出来て良かった。もう二度とお会い出来ないかと」

嬉しい。
彼を知りもしないのに。
その言葉を今も覚えてくれていることが嬉しい。

「覚えていてくださって、ありがとうございます。もっとも僕は、貴方のことを何も覚えてはいないのですが。貴方に出会えて良かったと、もう一度会えて良かったと、覚えていてくださって嬉しいと思うのです。貴方の言うように、僕も桜に心惑わされてしまったのかもしれませんね」
「覚えていて欲しかったわけではないのです。ただ、貴方様が生きてくださっているだけで、良いのです」

生きているだけ、か。
今この男に明日、目覚められるのかも分からないこの体で病院を抜け出してきたことがバレたらどうなるのだろうか。
生まれた時、半年生きられるかわからないと言われた。
それからは、次は一歳、二歳と少しずつ伸びてはいるけれど、二十歳は越えられないだろうと言われた。
此処まで生きられたことが奇跡のようなものだから、まあ良いかと思っていた。
小さい頃から、入院していない期間の方が短かったけれど、心配はできるだけかけたくなくて、一度も病室を抜け出したことはなかったのだ。今日までは。
けれどなぜだか今日は此処に来なければならない気がして。
来なきゃ後悔する気がして。
看護師さんの目を盗んで、此処まで来てしまった。
それをこの人に言ったらいけない気がして。
どこかこの人は僕に縋っている気がして言った。

「私もお前が生きてくれているだけで嬉しい」

と。


徒桜/完


こちらの小説と同じ題名のものが君へ。の方にもあります。そちらの方はこの小説よりも後味の悪いラストとなっておりますので、どうしてもという方だけどうぞ。保証はしません。
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