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第1章 ガーゴイルのまなざし

4.いちばん高いコーヒー店

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 朝五時、窓の外はまだ暗い。一有いちうはあくびをしながら顔を洗い、歯を磨いた。叶《きょう》がどこへ行くつもりなのかが気になって、昨夜はよく眠れなかった。
 五時三十分。一有は談話室のドアをあけたが誰もいない。東向きの窓の外はほんのり白く明るかった。このまま叶があらわれなかったら? という思いがかすめた。休日の朝、わざわざこんな時間に起きて、からかわれていたとしたら、どうしよう?

「おはよう」
 一有はふりむき、ほっとして思わず笑みを浮かべた。
「おはよう」
 叶はナップザックをぶらさげている。寝ぐせだろうか、前髪の一部が突っ立っていた。
「俺なにも持ってきてないけど……」
 一有はナップザックをじろじろみたが、叶は首を振っただけだ。
「大丈夫。行こう」
「どこに?」
「到着してのお楽しみ」

 叶は学園の裏にある門から外へ出た。詰所の守衛さんには軽く頭を下げたが、向こうも叶をみて片手をあげただけだ。学園に沿ってのびるゆるやかな坂道を叶はさっさと進み、一有はオマケのようについて歩く。道は学園から離れてさらに急坂になり、別荘分譲地のあいだを抜けていく。

 身長差二十二センチは歩幅に圧倒的な影響をおよぼす。前のめりで坂道を登るのにうんざりしはじめたころ、叶は急に足を止めた。舗装された道が終わり、土の地面がつづいている。木に囲まれた山道だ。

「登るの?」
「ちょっとだけ」

 一有は顔をしかめた。この先にレストランやカフェがあるのだろうか。こんな朝早くから?
 しかし叶はすでに歩きはじめている。置いて行かれるのが嫌で、一有はあわてて紺色のナップザックを追いかけた。坂道はきつく、追いついたときは息が切れていた。土の地面は木の根がでっぱり、階段のようになっている。叶は慣れた足取りで登っていく。周囲は完全に森になり、人家はまったくみえなかった。いつのまにか空は白み、木のあいだにどこからか黄色い光がさしこむ。日が昇ったのだ。

 叶に話しかけたかったが、背の高いアルファは一有の前を速いペースでどんどん登る。話そうとすると息が切れるし、湿った土や小石を踏んだスニーカーはときどきずるっとすべる。足元に気をつけながら揺れるナップザックを追っているとだんだん体が汗ばんで、他のことがどうでもよくなってきた。聞こえる音は自分と叶が小石を蹴る音と、どこかで鳴いている鳥の声だけだ。

「もうすぐだ」
 叶がふりむいていった。一有はハッとして足を速め、叶のところまで追いついた。
「おまえ、足が速すぎる」
「悪い。すぐだから」

 何がすぐなのかと思ったが、聞き返すのもどうでもよくなっていた。道は狭くなり、地面には大きめの石がごろごろ重なっている。山肌に埋まった大岩のあいだをすりぬけたとたん、視界がひらけた。
 山頂に出たのだ。

 草の生えた平らな地面に大きな石がいくつかおいてある。石のひとつに叶が座っていた。紺色のナップザックは膝に置かれている。ここまで登るあいだずっと、一有の視界で揺れていた色だ。

 急に疲れが吹きとんだ。大股で草の上を歩きながら一有は意味もなく笑っていた。太陽がまぶしく、草のうえはきらきらしている。草地のへりにある石によじのぼり、三百六十度の地平線をみる。下の方にある建物は学園の屋根だろうか。

「キョウ、あれ、学校?」
 指さして大声でそういった。
「そう」

 叶は答えながらナップザックをあけた。平らな石の上にボンベとシングルバーナーを取り出すと慣れた手つきで沸かしはじめる。一有は石から飛び降りると、横で黙って見守った。実際は驚きすぎて何もいえなかった、という方が近かった。
 叶は一有の驚きをよそにペーパーフィルターにコーヒーの粉を入れ、湯をそそいでいる。朝の山頂にコーヒーの匂いが流れた。

「コーヒーだ」
 やっと一有がつぶやくと、叶は嬉しそうに笑った。
「イチウ、砂糖とミルクは?」
「砂糖」
 砂糖の小袋はナップザックの底から出てきた――が、叶は顔をしかめた。
「どうしたの」
「……スプーンを忘れた」
「いいよ」

 金属のカップは熱かった。一有は用心深く注がれたコーヒーを吹いて冷まし、ゆっくり啜る。溶け残った砂糖が底に溜まっている。

「キョウの『コーヒー飲みに行く』ってこれか」
 口に出したとたん可笑しくなった。
「こんなところに店があるのか、不思議に思ったよ」
 叶はすました顔をしている。
「本物のコーヒーだろう? このあたりじゃいちばん高いコーヒー屋だ」
「まさかお金とるの?」
「いや、高さが」
 一有はあたりをみまわし、吹き出すのを何とかこらえた。
「たしかに」
 叶はナップザックをさぐり、チョコレートバーの袋を取り出した。

「初等部のころは年上の従兄弟に連れられてよく登ったんだ。去年の夏からたまにひとりで登るようになった」
「なんで?」
「なんでだろう。静かだから? 誰のことも気にしなくていい」
「だったら俺を連れてきてよかったの?」
 思わずそうたずねると叶の目が丸くなった。
「い、イチウはいいんだ」
「それならいいけど」

 一有はコーヒーを飲み干した。カップの底に溜まった砂糖を舐めようと舌をのばしたが、叶の視線に気づいて恥ずかしくなり、あわててやめる。
「ここからみるとジオラマみたいだ」誤魔化すように下界の景色を指さした。
「学校もみんな小さい」
「踏めるかもな」
 叶が片足をにゅっと突き出した。スニーカーの先に学園の屋根がある。一有は真似しかけたが、とっさにやめた。足の長さが違いすぎるのを思い出したのだ。

「キョウはいいな」
「なんで」
「背が高くて」
 ぽろっと口から飛び出したのは、他のところでは絶対に口に出さない言葉だった。
「俺もあと十五センチあったら、オメガに間違われて追いかけられたりしないのに」
 とたんに叶の雰囲気が堅くなった。しまった、口がすべった。

「間違えられた?」
「夏休みに、ちょっとね」
「それで」
「どうってことない。迷惑行為ってことで警察に行った」
 話さなければよかった。焦った一有は早口になり、さらに余計なことまでいってしまった。

「神宮寺さんにまで連絡が行ったから、そのあともいろいろあって」
「神宮寺さん?」
「俺の後見人――保護者。あ、俺、親がその……日本にいなくて」
「そうなんだ。海外?」
「うん、まあ……海にね。その、俺の親はどっちも、メソアメリカ文明の」
「んん?」
「大航海時代にさ、スペイン人とかが船でアメリカ大陸へ行って、メソアメリカ文明の財宝を船に積んで、ヨーロッパへ送ったわけ。何百年も前のことだよ。船はみんな海を無事に渡れたわけじゃなくて、嵐とか、大砲に撃たれて沈んだのもたくさんある。そんな船を探して調査する仕事で」
「そりゃすごい。だったらたまにしか日本に帰らない?」
「ずっと帰らない」

 嘘をつきたくなかったが、死んだから、とはいいたくなかった。山の上でうっかり話すには重すぎる。それでも秋休みに帰省しない理由にはなる。ちらっと叶をうかがうと目があった。

「イチウ、身長だけど」
「なに」
「きっとまだ伸びる」
 一有はため息をついた。
「キョウにいわれてもさ……ほんとにそう思う?」
「思う」

 ジオラマのような景色をみつめて叶はいった。まじめくさって、確信的で、重々しい口調だった。一有はため息を飲みこんだ。
「わかった。がんばって牛乳を飲む」




 叶の予言は当たった。翌年の夏までに一有の身長は約十センチ伸びたのだ。最終的に叶との身長差は十三センチに落ちついたが、そのころの一有はもう、他人の身長を目視で測ることはなくなっていた。

 身長が伸びると同時に顔が大人びたのか、あるいはおなじ学年のオメガの生徒が性成熟したせいか、一有はもうオメガと間違われることはなくなった。西尾のような同じクラスの友人によると、雰囲気もすこし変わったという。いつのまにか一有は、一年生のオメガに「騎士ナイトになってほしい」と頼まれる立場になっていた。

「断ったのか」
 寮の部屋で椅子をくるりと回しながら叶がいう。二年になって、叶と一有は同室になった。それまで叶と同室だった上級生が卒業したので、一人部屋にいた一有が叶のところへ移ったのだ。

「断らないほうがよかったか?」
 一有は叶のベッドに座って聞き返した。
「断らなかったら、横暴なアルファのおまえから姫君を守らなきゃならない」
「『僕は筋肉馬鹿のアルファより境君みたいな美形がいい』」
 唐突に叶が誰かの口真似をしたので、一有はあっけにとられた。
「は?」
「如月がつきあってるE組の坂城だ。喧嘩してそういわれたと」
「なんの冗談」
「もののはずみだろうけどな。如月は凹んでた。あいつがっちり系だから」

 如月は叶と同じクラスのアルファで、柔道をやっている。見た目もじつに柔道家らしい。
「そんなこというのなら、坂城はキョウとつきあえばよかったんだ。おまえなら着やせする。筋肉モリモリでも服を着ればみえない」
 そう軽口をたたくと、叶はじろりと一有をにらんだ。
「それこそなんの冗談だ」
「だっておまえアルファだし」一有はベッドに背中を倒した。「なんか、俺の知らないうちに告白とかされて、つきあったりしてんじゃないの? 学園にいるあいだは何もできないけどさ……」

 聖騎士学園には恋愛禁止の校則はない。しかし第三次性徴とともに〈発情期ヒート〉がはじまったオメガの生徒もいるから、学内で万が一のことがないように教師は目を配っている。
 それでもアルファとオメガの生徒が自分たちの意思で〈つがい〉になると約束するのは否定されない。三年生の後期には、よほどのことがないかぎりオメガの生徒はアルファの予約済み、というのがもっぱらの噂である。

 一有の知るかぎり、二年生の叶にそんな話はない。学園では叶と一有は親友同士、もしくは「セット」とみなされている。今年も同じクラスにはならなかったが、一年の後期には二人そろって生徒会に入ったし、こうして寮も同室だ。「セット」扱いされるときはアルファの叶が主で一有が従だが、まったく気にならなかった。副官扱いは性に合っている。

「いないよ」叶はあっさり答える。
「告白のひとつやふたつあるだろうに」
 一有がそういっても叶は首を振る。
「でも俺が好きにならない」
「匂いなんだろう?」
 すこし突っ込みたくなって、一有はさらにいった。
「アルファとオメガは匂いで惹きあうらしいじゃないか。ほらあの、運命のつがいとかいう話だってさ」
 キイっと椅子が鳴った。
「匂いを気に入ることが、その人を好きになることか?」

 一有はベッドに寝そべったまま片方の肘をつき、叶をみた。
「きっかけにはなるかもしれない」
「きっかけ、ね……」

 叶は椅子から立ち上がり、一有が寝そべるベッドに腰をおろす。精悍な顔がすうっと近づいたと思うと、上体がのしかかってくる。背は伸びたとはいえ体格差は圧倒的で、一有はころりと体を倒されていた。
「何するんだよ」
 この程度はよくあるじゃれあいだ――同室になってから、どうもこんなことが多い。一有は笑ったが、叶はまじめくさった声で「匂いを嗅いでる」といった。

「馬鹿、どこの匂い嗅いでんだ」
「イチウの首」
「あのな」
 叶の髪が顎をくすぐり、鼻が首筋に押しつけられる。叶の吐息を感じたとたん、心臓が急に激しく動き出した。一有は息をのんだ。
「やめろって、キョウ!」

 顎に触れていた感触が消えた。叶は両手をついて一有を見下ろしていた。
「いちおう、鷲尾崎わしおざきだから」
「え?」
「好きになった相手とつがいになれるとは限らない」

 叶は鷲尾崎家、つまり名族のひとりだ。一有は唐突に思い出した。跡継ぎがどうとか、ワイドショーのネタにされることもあるような人々のひとりなのだった。
「悪い。無神経なことをいって」

 一有はぼそぼそと謝った。叶の目元がゆるみ、口もとに笑みがうかぶ。なんとも表現しづらい、綺麗な微笑だった。一有の胸はずきりと痛んだ。これまで気づかないようにしていた自分の心の一部が矢のように飛び出し、まっすぐ向かっていくような気がした。

「キョウ、どけよ。重い」
 わざと呻き声をあげていった。叶は小さな笑い声をあげた。
「イチウがオメガならよかったのに」
「何それ、冗談」

 一有も笑った。叶はアルファだ。いつか一有の知らない誰かオメガがあらわれて、叶とつがいになるのだ。



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