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第5話 ドラゴンはなぜ健康にいいのか
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ここでいったん、副館長がはじめての早朝ドラゴン散歩を完遂した日に戻ろう。リリを肩にのせたまま、ルークは静かに執務室へ入った。ドラゴンの翼の先が首筋をくすぐる。機嫌がいいのだ。官舎から大学街に出てすこし歩き、戻ってきただけなのに、やけに達成感があり、誇らしい気分だった。
〈竜のヤドリギ〉からリリを連れ帰ったのは二日前の夜である。今朝までは寝室に置いた籠の中にいた。最初の散歩は飼い主の気配に慣らしてからにするよう、〈竜のヤドリギ〉の店主にいわれたからだ。
「慣れていないと散歩の途中で逃げ出そうとします。といっても、卵の殻を二回あげて、二日同じ部屋で眠ればふつうは懐きます」
「ふつう?」
細かいことが気になるルークは聞き返した。
「たまにえり好みが激しいのがいるんですよ。ああ、それとか」
そういいながら店主が指さしたのが、空色の羽根のドラゴンだった。
「いつまでも懐かないからって、三回も返されてね。見た目はいいけどお勧めしません。それよりあっちの――」
ルークは店主の声を聞いていなかった。空色の羽根のドラゴンが籠のすきまから首をのばし、ルークをみつめていたからだ。
それがリリだった。
副館長の執務室は簡素である。ひとつの壁は大きな書類棚で占められ、もうひとつの壁の窓の前にはデスク。書類棚に向かいあった壁には別の扉があって、館長の従僕が控えるための小部屋に続いている。小部屋のもうひとつの扉をあければ、いちいち廊下に出ずとも館長室へ行くことができる。
しかし現館長のラッセルは従僕を使わず、小部屋には大きな長椅子が置いてあるだけである。昼寝に使っているらしいとルークは見当をつけていた。
パタパタ。
翼の音がして、リリが肩の上から飛び立つ。あっと思ってルークがみあげると、一度天井の近くまで舞い上がったあと、部屋をぐるりと一周してふたたびデスクへ舞い降りた。
「鳥籠を吊るすから、そこでじっとしていなさい」とルークはいい、書棚の横から脚立をひっぱりだした。
「おまえだって、遊び疲れたら籠で昼寝したいだろう? 館長みたいに」
ルークは脚立にのぼり、天井から下がる鎖(本来ならランプを吊り下げるためのもの)に鳥籠をぶら下げた。籠の戸には細い鎖がついているから、下から引くだけで開け閉めできる。
この籠も〈竜のヤドリギ〉から借りたものだ。定期飼育の料金には日中用と睡眠用の二つの籠のレンタル料も含まれている。いまルークが吊り下げたのは日中用の籠だ。
「ほら、おいで」
ルークは脚立に乗ったままリリを呼んだ。ドラゴンは空色の翼をパタパタさせてふたたびデスクから舞い上がったが、籠の周囲をまわるだけで中に入ろうとはしない。
「戸は閉めないから、一度入って」
ルークはリリの方へ腕を伸ばした。そうしながら、脚立にのぼるのも久しぶりだと思った。去年までは副館長の補佐役として雑用に駆け回ったものだし、重い本を持って書架の梯子を昇り降りすることもしょっちゅうだ。
ところが今は一日中、執務室に篭って計画書や報告書作成をするばかり。夕刻に仕事から解放されると、今度は書庫に篭って読書するばかり。だからラッセルに「引きこもり」と呼ばれてしまったのだが――
「リリ、おいで!」
空色の羽根がルークの方へと羽ばたく。副館長の唇にはまたも嬉しそうな微笑みが浮かんでいた。
ドラゴンを飼うのは健康に良い。これは〈竜のヤドリギ〉が大繁盛しているもうひとつの理由である。
〈竜のヤドリギ〉の主要顧客である貴族は夜更かし朝寝坊が多く、官吏は運動不足に悩まされがちで、どちらも不摂生になりがちだ。しかしドラゴンを飼えば、一日一度は外に連れ出して散歩をしなくてはいけない。朝露を飲ませようと思ったら早起きも必要だ。
ドラゴンは餌をあたえ、散歩に連れ出し、朝露を飲ませてくれる人間を主人として懐くから、従僕にまかせているとパーティで赤っ恥をかくことになる。サブスクをはじめると、みな最初はしぶしぶ散歩に出る。ところがパタパタと空を飛ぶドラゴンを撫でたりなだめたりしているうち、散歩自体が楽しくなって、やがて運動習慣が身についてくる。
これだけでも十分健康に良さそうだが、ドラゴン飼育の副効果は他にもあった。
毎日餌をやっていると、食が細い者はなぜかよく食べられるようになり、大食していた者は逆に食事を減らして体調がよくなるとか、つねに不機嫌で周囲にあたりちらしていた気難しやがドラゴンを飼い始めて性格が丸くなったとか、引っ込み思案で人と目をあわせることもできず困っていた令嬢が、ドラゴンを連れていれば社交の場でうまくふるまえるようになったとか。
ルークがラッセルに「引きこもり同然」といわれた日、この話題はたまたま、新聞のコラムで大きく取り上げられていた。
「ドラゴンが精霊族だから、こんないいことが起きるんでしょうか?」
王国新聞の記者は〈竜のヤドリギ〉の店主に質問したが、返ってきたのは謎めいた笑みひとつ。記者はさらにたたみかけた。
「もうひとつお聞きしたいのですが、この店でサブスクするドラゴンはこちらで繁殖したのですか? 王領の森の外にいるドラゴンはみつけにくいことで有名ですが……」
店主の答えはそっけないものだった。
「もちろん秘策がありますが、教えられませんね」
企業秘密というわけである。ともあれ記事は新聞に載り、上流階級の流行になど興味を持たなかった図書館のいとし子も、胡桃通りのはずれにある〈竜のヤドリギ〉を知ることとなったのである。
〈竜のヤドリギ〉からリリを連れ帰ったのは二日前の夜である。今朝までは寝室に置いた籠の中にいた。最初の散歩は飼い主の気配に慣らしてからにするよう、〈竜のヤドリギ〉の店主にいわれたからだ。
「慣れていないと散歩の途中で逃げ出そうとします。といっても、卵の殻を二回あげて、二日同じ部屋で眠ればふつうは懐きます」
「ふつう?」
細かいことが気になるルークは聞き返した。
「たまにえり好みが激しいのがいるんですよ。ああ、それとか」
そういいながら店主が指さしたのが、空色の羽根のドラゴンだった。
「いつまでも懐かないからって、三回も返されてね。見た目はいいけどお勧めしません。それよりあっちの――」
ルークは店主の声を聞いていなかった。空色の羽根のドラゴンが籠のすきまから首をのばし、ルークをみつめていたからだ。
それがリリだった。
副館長の執務室は簡素である。ひとつの壁は大きな書類棚で占められ、もうひとつの壁の窓の前にはデスク。書類棚に向かいあった壁には別の扉があって、館長の従僕が控えるための小部屋に続いている。小部屋のもうひとつの扉をあければ、いちいち廊下に出ずとも館長室へ行くことができる。
しかし現館長のラッセルは従僕を使わず、小部屋には大きな長椅子が置いてあるだけである。昼寝に使っているらしいとルークは見当をつけていた。
パタパタ。
翼の音がして、リリが肩の上から飛び立つ。あっと思ってルークがみあげると、一度天井の近くまで舞い上がったあと、部屋をぐるりと一周してふたたびデスクへ舞い降りた。
「鳥籠を吊るすから、そこでじっとしていなさい」とルークはいい、書棚の横から脚立をひっぱりだした。
「おまえだって、遊び疲れたら籠で昼寝したいだろう? 館長みたいに」
ルークは脚立にのぼり、天井から下がる鎖(本来ならランプを吊り下げるためのもの)に鳥籠をぶら下げた。籠の戸には細い鎖がついているから、下から引くだけで開け閉めできる。
この籠も〈竜のヤドリギ〉から借りたものだ。定期飼育の料金には日中用と睡眠用の二つの籠のレンタル料も含まれている。いまルークが吊り下げたのは日中用の籠だ。
「ほら、おいで」
ルークは脚立に乗ったままリリを呼んだ。ドラゴンは空色の翼をパタパタさせてふたたびデスクから舞い上がったが、籠の周囲をまわるだけで中に入ろうとはしない。
「戸は閉めないから、一度入って」
ルークはリリの方へ腕を伸ばした。そうしながら、脚立にのぼるのも久しぶりだと思った。去年までは副館長の補佐役として雑用に駆け回ったものだし、重い本を持って書架の梯子を昇り降りすることもしょっちゅうだ。
ところが今は一日中、執務室に篭って計画書や報告書作成をするばかり。夕刻に仕事から解放されると、今度は書庫に篭って読書するばかり。だからラッセルに「引きこもり」と呼ばれてしまったのだが――
「リリ、おいで!」
空色の羽根がルークの方へと羽ばたく。副館長の唇にはまたも嬉しそうな微笑みが浮かんでいた。
ドラゴンを飼うのは健康に良い。これは〈竜のヤドリギ〉が大繁盛しているもうひとつの理由である。
〈竜のヤドリギ〉の主要顧客である貴族は夜更かし朝寝坊が多く、官吏は運動不足に悩まされがちで、どちらも不摂生になりがちだ。しかしドラゴンを飼えば、一日一度は外に連れ出して散歩をしなくてはいけない。朝露を飲ませようと思ったら早起きも必要だ。
ドラゴンは餌をあたえ、散歩に連れ出し、朝露を飲ませてくれる人間を主人として懐くから、従僕にまかせているとパーティで赤っ恥をかくことになる。サブスクをはじめると、みな最初はしぶしぶ散歩に出る。ところがパタパタと空を飛ぶドラゴンを撫でたりなだめたりしているうち、散歩自体が楽しくなって、やがて運動習慣が身についてくる。
これだけでも十分健康に良さそうだが、ドラゴン飼育の副効果は他にもあった。
毎日餌をやっていると、食が細い者はなぜかよく食べられるようになり、大食していた者は逆に食事を減らして体調がよくなるとか、つねに不機嫌で周囲にあたりちらしていた気難しやがドラゴンを飼い始めて性格が丸くなったとか、引っ込み思案で人と目をあわせることもできず困っていた令嬢が、ドラゴンを連れていれば社交の場でうまくふるまえるようになったとか。
ルークがラッセルに「引きこもり同然」といわれた日、この話題はたまたま、新聞のコラムで大きく取り上げられていた。
「ドラゴンが精霊族だから、こんないいことが起きるんでしょうか?」
王国新聞の記者は〈竜のヤドリギ〉の店主に質問したが、返ってきたのは謎めいた笑みひとつ。記者はさらにたたみかけた。
「もうひとつお聞きしたいのですが、この店でサブスクするドラゴンはこちらで繁殖したのですか? 王領の森の外にいるドラゴンはみつけにくいことで有名ですが……」
店主の答えはそっけないものだった。
「もちろん秘策がありますが、教えられませんね」
企業秘密というわけである。ともあれ記事は新聞に載り、上流階級の流行になど興味を持たなかった図書館のいとし子も、胡桃通りのはずれにある〈竜のヤドリギ〉を知ることとなったのである。
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