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番外編&後日談
この素晴らしき日々 ―掌編四題
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1.眠るひと
峡さんはとても深く眠る。
夜中に眼をさますと、峡さんはあおむけに横になって、胸の上で手を組んでいる。微動だにしないし、息をしているのか疑ってしまうほど静かだ。心配になった僕はベッドの上に上半身を起こして、峡さんにそうっと顔を近づける。
すうっと静かな寝息がきこえる。
胸がゆっくり上下するのを確認すると、僕は掛布団をひっぱりあげて、隣の峡さんと同じ姿勢でもう一度眠ろうとする。
すると、いきなり峡さんが僕の方を向く。
起こしてしまったのだろうか。一瞬僕はそう考えるが、峡さんはあいかわらず静かな寝息を立てている。僕は眠ろうとして眼を閉じる。ところがほとんど間をおかず、峡さんはもう一度僕の方へ寝返りをうって、今度は僕を抱きよせようとする。
僕の髪を撫でて、背中に腕を巻きつけてくるから、僕はぎゅっと抱きしめられたかたちになる。眠っているふりをしているだけで、ほんとは眼を覚ましているのだろうか? 僕はそう疑うけれど、結論はすぐに出る。僕の首筋や肩にあたる峡さんの寝息は静かで規則正しい。やっぱり眠っているのだ。
僕は背中に回された腕をそっとはずす。すると峡さんはまたころんと寝返りをうち、あおむけになる。またぼくは掛布団をひっぱりあげて、天井を向いて眼を閉じる。
と、また峡さんは僕の方へ寝返りをうつ。
なんだか面白くなってきた。
今度は、僕は自分から峡さんの肩に腕をまきつける。背中に彼の手がまわる。眠る人の体温に寄りそううちに、僕の心も眠りの国へさまよいはじめる。
*****
2.キッチン
ミディトマトはへたをとり、洗って半分に切る。セロリの茎はスティックにカット。キュウリは包丁の柄で叩き割る。カットした野菜をオリーブオイル、レモン、塩と胡椒をまぜたボウルであえて、仕上げにクルミをふる。
キャベツ――これはサラダではなくつけあわせ用。サクサクサク……とみるまに細い千切りにされていく。包丁がまな板にあたる音はやわらかくてリズミカルだ。と思ったら急に音がやんで、峡さんが真顔で僕をみた。
「朋晴、油に気をつけて」
「大丈夫! 気をつけてます!」
「ほんとうに? ぼうっとしてなかった?」
峡さんは包丁を置いてタイマーをみた。ついで、僕が見張っていたフライヤーに目を向ける。
「そろそろだな」
千切りキャベツが皿にのせられた。峡さんの指が僕をつつくので、ちょっと横にずれる。フライヤーから金色に揚がったカツが取り出される一瞬は、何度見ても楽しい。峡さんは慣れた手つきで網にのせ、油を切る。キャベツを刻んだのとは別のまな板にカツをのせ、カリッとした衣に包丁を入れる。サクッ、サクッ――
「ああ、美味しそうですね!」
思わず感嘆の叫びをあげると、峡さんは嬉しそうに笑った。
「じゃ、食べようか」
*****
3.新しい食器
リビングのテーブルに見慣れない白い箱がある。
「これなんですか?」
峡さんはキッチンの方から「ん?」と僕をみやる。
「開けたい?」
「開けていいですか?」
峡さんがうなずき、僕はいそいそと箱に手を伸ばす。子供っぽいかもしれないけれど、箱を開けるという行為が好きだ。なんだかロマンがある。白いボール箱のふたの隙間からは水色がちらっとみえた。
「お皿――ですね? あれ? 同じようなの、もうありませんでしたっけ?」
やわらかい水色をした陶器の皿はなめらかで、ゆったりと波打つような凹凸が飾りと柄を兼ねている。
「ああ、それはね、のせた料理がなんでも美味しくなる皿」
峡さんは包丁で林檎の皮をむきながらさらっといった。
「へ?」
「知り合いの陶芸家の作品でね。俺の分はあるから、それは朋晴の分」
不意を打たれた僕の沈黙をどう思ったのか。峡さんはこともなげにいった。
「信じてないな。ほら、林檎をのせるとわかる。持ってきて」
僕は慎重に青い皿をもちあげる。峡さんの言葉のおかげで、美味しいものの予感がすでに盛られているような気がする。キッチンからは林檎の香りが流れてくる。
*****
4.眼鏡
「眼鏡?」
テーブルクロスから顔をあげたとたん、向かいのソファから峡さんが不思議そうにいった。
「あ、これ? ブルーライト防止用です」
僕はフレームをもちあげる。買ったはいいが使わずにしまいこんでいたブルーライトカットグラスをみつけたのは、このマンションへ引っ越す準備をしていた時だ。
「さいきん疲れ目になりがちだから」
「そう――効果ある?」
そういいながら、峡さんがかけていた眼鏡を外す。膝に広げた雑誌を置いて僕の方をみる。峡さんは文字を読むときだけ眼鏡をかける。
「ええ、あるみたいです」
「似合うね」
さらっとそんなことをいわれると、嬉しいけど、嬉しいけど、うわあ――照れ隠しに僕も自分の眼鏡を外した。
「峡さんの眼鏡も好きです」
「俺のはただの老眼」
ソファに座ったまま峡さんは困ったように目尻を下げる。照れているような、恥ずかしがっているような表情をする。この人のこんな顔は僕をいつもぞくぞくさせる。ぐっとくるものがある、なんていうと変態っぽい気がするし、だから口には出せなくて、かわりにこういった。
「その眼鏡、僕もいずれ使うようになりますよ」
「朋晴が?」
「そうですよ。十年か二十年後」
そう、僕がいまの峡さんとおなじ齢になったら。ところが峡さんは小声で「まさか」という。
「大丈夫だよ」
「なにが大丈夫なんです?」
「朋晴は齢をとらないから」
真面目な顔でたたみかけてくるから、僕は思わず笑った。
「なにいってるんですか」
「信じてない? ほんとうだって」
峡さんの唇がほころび、目がきらっと光る。この人はこんな冗談が好きなのだ。
(おわり)
峡さんはとても深く眠る。
夜中に眼をさますと、峡さんはあおむけに横になって、胸の上で手を組んでいる。微動だにしないし、息をしているのか疑ってしまうほど静かだ。心配になった僕はベッドの上に上半身を起こして、峡さんにそうっと顔を近づける。
すうっと静かな寝息がきこえる。
胸がゆっくり上下するのを確認すると、僕は掛布団をひっぱりあげて、隣の峡さんと同じ姿勢でもう一度眠ろうとする。
すると、いきなり峡さんが僕の方を向く。
起こしてしまったのだろうか。一瞬僕はそう考えるが、峡さんはあいかわらず静かな寝息を立てている。僕は眠ろうとして眼を閉じる。ところがほとんど間をおかず、峡さんはもう一度僕の方へ寝返りをうって、今度は僕を抱きよせようとする。
僕の髪を撫でて、背中に腕を巻きつけてくるから、僕はぎゅっと抱きしめられたかたちになる。眠っているふりをしているだけで、ほんとは眼を覚ましているのだろうか? 僕はそう疑うけれど、結論はすぐに出る。僕の首筋や肩にあたる峡さんの寝息は静かで規則正しい。やっぱり眠っているのだ。
僕は背中に回された腕をそっとはずす。すると峡さんはまたころんと寝返りをうち、あおむけになる。またぼくは掛布団をひっぱりあげて、天井を向いて眼を閉じる。
と、また峡さんは僕の方へ寝返りをうつ。
なんだか面白くなってきた。
今度は、僕は自分から峡さんの肩に腕をまきつける。背中に彼の手がまわる。眠る人の体温に寄りそううちに、僕の心も眠りの国へさまよいはじめる。
*****
2.キッチン
ミディトマトはへたをとり、洗って半分に切る。セロリの茎はスティックにカット。キュウリは包丁の柄で叩き割る。カットした野菜をオリーブオイル、レモン、塩と胡椒をまぜたボウルであえて、仕上げにクルミをふる。
キャベツ――これはサラダではなくつけあわせ用。サクサクサク……とみるまに細い千切りにされていく。包丁がまな板にあたる音はやわらかくてリズミカルだ。と思ったら急に音がやんで、峡さんが真顔で僕をみた。
「朋晴、油に気をつけて」
「大丈夫! 気をつけてます!」
「ほんとうに? ぼうっとしてなかった?」
峡さんは包丁を置いてタイマーをみた。ついで、僕が見張っていたフライヤーに目を向ける。
「そろそろだな」
千切りキャベツが皿にのせられた。峡さんの指が僕をつつくので、ちょっと横にずれる。フライヤーから金色に揚がったカツが取り出される一瞬は、何度見ても楽しい。峡さんは慣れた手つきで網にのせ、油を切る。キャベツを刻んだのとは別のまな板にカツをのせ、カリッとした衣に包丁を入れる。サクッ、サクッ――
「ああ、美味しそうですね!」
思わず感嘆の叫びをあげると、峡さんは嬉しそうに笑った。
「じゃ、食べようか」
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3.新しい食器
リビングのテーブルに見慣れない白い箱がある。
「これなんですか?」
峡さんはキッチンの方から「ん?」と僕をみやる。
「開けたい?」
「開けていいですか?」
峡さんがうなずき、僕はいそいそと箱に手を伸ばす。子供っぽいかもしれないけれど、箱を開けるという行為が好きだ。なんだかロマンがある。白いボール箱のふたの隙間からは水色がちらっとみえた。
「お皿――ですね? あれ? 同じようなの、もうありませんでしたっけ?」
やわらかい水色をした陶器の皿はなめらかで、ゆったりと波打つような凹凸が飾りと柄を兼ねている。
「ああ、それはね、のせた料理がなんでも美味しくなる皿」
峡さんは包丁で林檎の皮をむきながらさらっといった。
「へ?」
「知り合いの陶芸家の作品でね。俺の分はあるから、それは朋晴の分」
不意を打たれた僕の沈黙をどう思ったのか。峡さんはこともなげにいった。
「信じてないな。ほら、林檎をのせるとわかる。持ってきて」
僕は慎重に青い皿をもちあげる。峡さんの言葉のおかげで、美味しいものの予感がすでに盛られているような気がする。キッチンからは林檎の香りが流れてくる。
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4.眼鏡
「眼鏡?」
テーブルクロスから顔をあげたとたん、向かいのソファから峡さんが不思議そうにいった。
「あ、これ? ブルーライト防止用です」
僕はフレームをもちあげる。買ったはいいが使わずにしまいこんでいたブルーライトカットグラスをみつけたのは、このマンションへ引っ越す準備をしていた時だ。
「さいきん疲れ目になりがちだから」
「そう――効果ある?」
そういいながら、峡さんがかけていた眼鏡を外す。膝に広げた雑誌を置いて僕の方をみる。峡さんは文字を読むときだけ眼鏡をかける。
「ええ、あるみたいです」
「似合うね」
さらっとそんなことをいわれると、嬉しいけど、嬉しいけど、うわあ――照れ隠しに僕も自分の眼鏡を外した。
「峡さんの眼鏡も好きです」
「俺のはただの老眼」
ソファに座ったまま峡さんは困ったように目尻を下げる。照れているような、恥ずかしがっているような表情をする。この人のこんな顔は僕をいつもぞくぞくさせる。ぐっとくるものがある、なんていうと変態っぽい気がするし、だから口には出せなくて、かわりにこういった。
「その眼鏡、僕もいずれ使うようになりますよ」
「朋晴が?」
「そうですよ。十年か二十年後」
そう、僕がいまの峡さんとおなじ齢になったら。ところが峡さんは小声で「まさか」という。
「大丈夫だよ」
「なにが大丈夫なんです?」
「朋晴は齢をとらないから」
真面目な顔でたたみかけてくるから、僕は思わず笑った。
「なにいってるんですか」
「信じてない? ほんとうだって」
峡さんの唇がほころび、目がきらっと光る。この人はこんな冗談が好きなのだ。
(おわり)
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