肩甲骨に薔薇の種(アルファポリス版・完結済)

おにぎり1000米

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本編

32.眠い王たちの物語

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「おひさま祭り? ああ、医療センターがやってるイベントですよね。そういえば僕の会社も協賛していたはずです。フライヤーをもらいました」

 話しながら僕は食材でぱんぱんの買い物袋を車からおろした。両手に下げてマンションの玄関へ歩いていく。峡さんも同じスーパーの袋と、パンのいい匂いがする茶色い紙袋を持って僕のうしろに続く。
「そのせいだな。零は藤野谷君と一緒に行くんだそうだ」
 峡さんは玄関を開けると僕を先に通した。「来ないかと誘われたんだが、どうする? 明日も晴れるようだし」

 秋の連休一日目の空はうっすらと雲がかかっている。青い背景に刷毛で描いたようなのと綿菓子のようなのがふわふわ浮かんで、こちらの気持ちもふわふわするような天気だ。空気もからりとして、野外のお祭りは気持ちがいいにちがいない。おまけに峡さんが誘っているのだ。
 僕はキッチンに直行して買い物袋をあけながら「明日ですよね。遠いんでしたっけ」とたずねた。

「そこそこ遠いが、三時間くらいだから、ドライブを楽しむつもりで早く出ればいい。帰りが遅くなるなら温泉に寄る手もある。連休だし」
「そうですね……」

 僕は買ってきた食材――牛乳や卵、肉、その他野菜――を冷蔵庫にしまいながら、頭の中でいくつかのことを天秤にかけた。明日の朝早く出るとなると、今晩の夜ふかしが辛くなる。
 しかし峡さんとのドライブデートとなれば、天秤は相当傾くというものだろう。一方会社協賛のイベントで、ひょっこりボスに会う確率が高いとなると、ここはちょっと微妙。でも佐枝さんがいるなら差し引きゼロか。そして峡さんと外で温泉! お泊まり! これはもちろん二重丸だが――

「あとで決めませんか? 夜にでも……」
とりあえずそう答えて、見慣れないパッケージに首をかしげた。
「峡さん、この茶色いの、なんです? どこにしまったらいいですか?」
「ポルチーニだよ」

 峡さんはあちこちの収納庫をあけて手際よく品物をしまっていた。彼はキッチンの整頓にこだわりがあるらしく、さまざまな食材や道具があっても、キッチンだけは常に整然と片づけられている。リビングはそれほど片付いているようにも見えないのだが。そして最近の僕はこのマンションにかなり慣れて、どこに何があるのかもだいたい覚えたから、ぎりぎり合格点はもらえているのではないか。

「イタリア版干しシイタケみたいなもので、いい出汁が出る。リゾットが有名だ。今晩にでも作ろうか」
「僕も手伝えますか?」
「ああ」
 峡さんはふりむいてにやっと笑った。
「次は砂糖と塩を間違えないようにね。あれは俺も悪かったが」
「僕としては調味料の瓶に名前を書いてほしいです」
「うん。今後はそうする」
 峡さんはシンクにむかい、手を洗いはじめる。

「で、腹は減ってる? 今は何を食べたい?」
「美味しいものをください」と僕はいう。

 週末に峡さんのマンションに来るのはこれで何回目だろう。前回のヒートのあと、僕と峡さんはなんとなく落ちついて、ちゃんと「恋人同士」になれたような気がする。ヒートの時に僕が峡さんに口走った内容については、今思い出すとかなり恥ずかしいところもあるが、でもいいのだ。
 今では峡さんは僕と外出すると自分から手をつないでくれるし、スーパーではふたりでべたべたくっつきながら食材を選んでいる。平日は外食もするから僕はたべるんぽのレビューで夕食ジャンルに進出したし、鷹尾が譲ってくれたチケットでコンサートに行ったこともある。

 最近の僕は周囲の視線(とくにアルファ)があまり気にならなくなった。峡さんが横にいればなおさらそうだ。

 昼は簡単にワカモーレとチップスでいいか。そんなことをいって峡さんはアボカドにナイフを入れている。チップスは出来合いだからともかく、僕にはワカモーレが簡単だとはあまり思えない。
 料理というのはすこし魔法に似ている。最初にこのマンションへ来た時、峡さんが作ってくれたお茶漬けも魔法のようだと思ったのだった。インスタント食品だって魔法のたぐいといえるかもしれないが、実際に眼の前に魔法使いがいて、カボチャをケーキやプリンに変えてくれるのは話が違う。
 まあ、いまの僕は魔法使いの弟子みたいなものだから、そのうち多少魔法が使えるようになれるのかもしれないが、あいにくまだまだ不肖の弟子だ。だから僕は峡さんが手際よく包丁を使う横で、どうでもいい話ばかりしてしまう。

「ねえ、どうしてアボカドってアボカドっていうんでしょう?」
「ん?」
「僕はいつもアボっていいそうになるんです」
「そう?」

 アボカドの実の外見は真っ黒で悪魔じみているが、割るときれいな柔らかいグリーンで、僕は毎回すこし驚いてしまう。峡さんはそんな僕が面白いという。
 峡さんはアボカドの半球からグリーンの果肉だけをするりとまな板にのせ、手際よくカットする。玉ねぎもさくさくとみじん切りにする。

「音の繋がりのせいかな? アボガドの方がいいやすいから?」
 峡さんが「アボガド」というのを聞いて、僕は急に思い出す。
「そういえばアボガドロ定数ってありましたよね」
「聞き覚えがあるな」
「僕も聞き覚えがあります。ありますけど――」
「学生のころに習ったんだろう?」
「峡さんだって学生だったでしょう?」
「俺の場合、すごく昔の話になるからね。朋晴はつい最近だろう」
「つい最近ってことはないですよ」

 僕はむきになるが、峡さんの眼が笑っているのをみてあきらめる。彼は楽しんでいるのだ。

「朋晴、味見して」
 峡さんはできあがったばかりのワカモーレ、つまりアボカドのディップをスプーンに入れて差し出す。僕が口をあけると、峡さんはにやっとしてスプーンを僕の口につっこむ。とても美味しかった。

 もう少し食べたいという心の願いが顔に出ていたのか、峡さんはまたスプーンを差し出す。僕がもぐもぐしていると、ふいに唇が重なってくる。
 キスはアボカドとライムと玉ねぎの風味だ。そして峡さんの味がする。僕の舌の上にあるアボカドを舐め、しまいには僕の上唇までていねいに舐めて、峡さんは「うん、うまい」といった。

「よしよし、食べようか。ワイン? ビール」
「ビールがいいです」
 僕はなんとか普通の口調で答える。

 峡さんは自分のマンションにいるときはちょいちょいこんなおふざけをしてくる。これを知ったのも最近のことだ。ちょっと困るときがある。彼はただふざけているだけかもしれないけれど、舌が触れあうと僕は当然異常なくらいどきどきするし、素っ頓狂なことだってやってしまう。

「そういえば、朋晴、それはダメだ」
 峡さんはワカモーレとチップスをリビングに運び、僕はビールを持ってついていく。
「なにがです?」
「その言葉づかい」

 あ、と僕は思う。先週の週末、峡さんと話したときに出た「丁寧語禁止令」を思い出したのだ。
「俺は朋晴の教師でも上司でもないんだから」
「でも……難しいんですよ。ほら、僕は会社でも下っ端だし、四人兄弟の末っ子だから、自然なんです」
「ほら、まただ」峡さんはにべもなくいう。
「ダメ」
「せめて昼間はいいってことにしましょうよ」
 僕はあわてていう。
「夜だけとか」
「そう?」峡さんは僕をみてにやにやする。
「今晩そんな話し方をしたら、どんなことになるか覚悟するんだな」

 もう、と僕は思う。この人ときたら……。
「どうしてそんなに意地悪なんですか」
「べつに」
「意地悪ですよ」
「まさか」
 峡さんはしらっとしていう。

 テレビのスイッチは入っている。休日の昼間に流れるのはバラエティや特集番組、ドラマの再放送だ。けれど僕はこのリビングでろくに画面を見たことがない。昼下がりのビールと料理は相性抜群だし、ソファに座った僕の隣には峡さんがいる。
 どちらからともなく肩を抱き寄せてしまうのはいつもの流れで、どちらからともなくキスしているのも毎度のこと。峡さんのキスが気持ちよくてどうしようもないのも、いつも同じだ。
 チュッチュッと峡さんは僕の鎖骨のあたりを甘噛みする。ここからだいたい――だいたい長いセックスに突入するのが、僕と峡さんの新定番になりつつある。

 最近わかったのは峡さんは達するまでに時間がかかることで、面と向かってこんなことはもちろん聞けないけれど、どうもそれは峡さんにとって引け目というか、マイナスにあたるらしい。彼のアレはすごく――大きいので、長すぎて負担がかかっていないかと気遣われて、僕はようやくそのことに思い至った。
 正直いえば早漏のアルファより僕にはこっちのほうがぜんぜんいいが、そんなこともいえるはずはない。彼の愛撫がめちゃくちゃ上手くて、おかげでときおり複雑な気分になってしまうのもこのせいかもしれないし、別の理由もあるのかもしれない。

 峡さんは最近、ベッドルームに飾っていた写真を全部リビングの棚に並びかえた。写真立ての裏側に隠されていた写真はその時に片づけられて、どうなったのか僕は知らない。捨てたのか、しまったのか。そのうち教えてくれるのかもしれないし、僕に話す必要はないと思っているのかもしれない。
 僕も秀哉や昌行のことを細かく峡さんに話したわけではないから、そんなものだとは思う。思い出は個人のもので、一緒に作っているものでなければ、簡単に人に与えられないからだ。

 写真立てが置いてあった箪笥の上は、今では僕の持ち物が一時的に置かれる場所になっている。着替えや忘れ物などだ。その下の引き出しの中をさぐって、峡さんは訝しげな表情になった。ベッドの上で僕はもう動けないくらいトロトロだから、口しか出さないことにする。

「ゴムなら南国に帰りました。さようならって」
「何だって」
 峡さんは僕の上に乗っかってくると、顔を真上に近づけてくる。
「朋晴……」
「だって……そのままがいいから……」
 僕は説明とも言い訳ともつかないことをつぶやく。
「僕はもう峡さんしかいないし……あの、僕は信用ないですか?」
「いや……」
「どうしてもっていうなら、今度クリスマスの赤と緑色のストライプとか、信号機みたいに赤青黄色でピカピカ光る面白ゴムを買ってきますけど。赤鼻のトナカイ仕様なんてどうです?」
「あのな」
「お願いします」
 峡さんは片手で僕の顎をつかむ。

「そういえば朋晴、今の言葉づかいも禁止じゃなかったか?」
「まだ夜じゃないですよ……」
「同じようなもんだ。覚悟しなさい」
「そんなのずるいですよ――あ、あ、待って峡さん、そこ急に触られたら」
「触られたら何だって?」




 結局この日も同じだった。暗くなるまでセックスして、そのあとぐっすり寝てしまったということだ。夜中になって峡さんはポルチーニきのこのリゾットを作りはじめ、僕はキッチンテーブルに肘をついて彼のうしろ姿をみている。

 明日のために早起きするどころか、おかしな時間に眠ったせいで、すっかり夜ふかしモードになってしまった。このあと素直に眠れるとも思えないから、佐枝さんおすすめのお祭りに行くのは厳しそうだ。でも佐枝さんに会う機会は他にもあるだろうし、峡さんとは一緒に暮らしているわけじゃないから、週末の時間はどう使っても貴重なことに変わりはない。

「明日はどうする?」
 鍋をかき回しながら峡さんがたずねる。
「何を食べたい?」

 峡さんの「どうする?」はたいてい「何を食べたい?」とセットだ。どこに行くにしても、何をするにしても。峡さんはいつも与えてばかりいる人のように思える。そう考えると胸の底のあたりがきゅっと締まって、僕はたまらない気持ちになる。

「何か料理を教えて」と僕は答える。
「峡さんに弟子入りします」
 峡さんはレードルを持ったまま僕の方をふりむいた。
「朋晴、またその言葉づかい――」
「え、待って! 今のはありでしょ!」
 僕はあわてて叫ぶ。
「師匠にはていねいに話さないと!」
「ちがうな」

 峡さんはレードルを置いて火を止めた。
「俺は師匠って柄じゃない」
「じゃあ何?」
「朋晴の恋人」

 僕は息をのみ、キッチンは急に静かになった。峡さんはコンロの方を向いてまた鍋をかき回しはじめる。ここはとてもいい匂いがする。



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