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本編

31.薔薇の種まく(後編)

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 また眼を開けたとき、視界は紺色に覆われていた。
 僕は柔らかなパイルに顔を押しつけていた。かすかに透けて見える向こう側が明るい。一度顔をあげ、薄いカーテン越しに射す光のまぶしさに眼をつぶって、もう一度紺色に頭をつっこむ。柔らかい布からは峡さんの匂いがして、体は甘くしびれたような余韻に浸っていた。
 カチャっとどこかでドアが閉まるような音が聞こえた。

 突然意識がはっきりした。僕は峡さんのバスローブを抱きしめたまま、裸でベッドにだらしなく寝ていた。外は明るい。朝にしては明るすぎる。もう昼?
 はっとして起き上がる。今日は何曜日だっけ? 金曜? 峡さんは――
 マンションの中は静かだった。バスローブを羽織ってドアを押し開けても、何の物音もしない。峡さんは仕事? 置いていかれた?

 とたんに落ちつかなくなった。ふわふわと定まらない両足で時計を探す。ナイトスタンドの横に僕のモバイルが置いてあった。時間をみてぎょっとした。午後二時。その下に峡さんのメッセージが表示されている。三十分前の送信で、すぐ戻るとある。

 僕はその場に立ちつくし、箪笥の上に並んだ写真を眺めた。前に見たものと同じだ。若い峡さんと家族。白衣を着た友人たち。そういえばあの裏には……。
 玄関の方でガチャっと音が鳴った。
「起きたね」

 僕ははじかれたように振り向き、はずみでぱたぱたと写真立てが倒れた。戸口にいる峡さんはジーンズ姿で、コンビニのビニール袋をさげている。バスローブを羽織っただけの僕に笑いかけて「そのままでいい」という。
 僕は首を振って写真立てを起こしながら、裏側に隠されていた写真をどうしたものかと迷った。こっそり戻しておくにしても、峡さんはもう僕の真後ろに立っている。観念して僕はいった。

「すみません、これ――」
「ん?」

 峡さんは一瞬怪訝な顔をした。差し出したその写真には一目でカップルとわかるアルファとオメガが並んでいる。アップで撮られたふたりだ。どちらもすこしぎこちない表情だった。

「あの――白衣の写真の裏側にありました。勝手に見てしまって……」
「ああ……昔の知り合いだ」
 僕の心配をよそに、峡さんはあっさりといった。
「オメガの子の方。研修医時代にね。今は一緒に映ってるアルファと結婚して、どこかで元気に暮らしているはずだ」

 単なる知り合いならどうしてわざわざ隠してあるのだろう。もしかしたら僕は釈然としない表情だったのかもしれない。峡さんはそんな僕をみて、小さく笑った。

「ごめん。気になる?」
「――ええ、まあ、その……」
「すこしだけつきあっていたことがあってね」
 峡さんは写真を裏返して箪笥の上に置いた。
「腹が減ってないか?」
「お腹は空いてます……けど」
 僕はつぶやくようにこたえる。
「あの、今日って仕事は……」
「休みをとった」

 峡さんはキッチンに行くと冷蔵庫を開け、電子レンジに何やらつっこんだ。ミネラルウォーターのボトルを渡され、僕はそのまま飲みほした。水はひたすら甘く感じられた。電子レンジが鳴って、峡さんがテーブルに置いた皿からはじゃがいもとホワイトソース、チーズがぷんと香る。優しい味のするそれを一口食べたとたん、自分がものすごく空腹だったのがわかった。

 僕はがつがつ食べ、あっという間に皿を空にした。峡さんは何も食べず、今朝のものらしい新聞の見出しを眺めている。僕の目線に気づいたように顔をあげた。
「俺はもうすんだ。落ちついたらシャワーに行っておいで」

 シャワー。その言葉に反応したようにどくっと腰の奥が熱っぽく脈をうった。甘いうずきが背筋をのぼってくる。思わず僕は唇を噛んだ。あんなに抱かれて、何度もイって、まだ――まだ終わってないなんて。

「峡さん。あの――」僕は焦って口走る。
「朋晴?」峡さんは怪訝な表情になった。
「足りなかった? まだ食べたい?」
「ちがうんです。僕は……」
 すぐに何がいいたかったのかわからなくなってしまった。とにかく僕は喋った。
「峡さん、僕はアルファにのこのこついていったりなんかしません」

 そう、何かいわないと。三波朋晴、おまえは黙ってるなんて柄じゃない。

「そんなことしませんから……ヒートも、いつもはもっと軽くて、だから……」
 ふと何かを悟ったように、峡さんの手が僕の頭を撫でた。
 腕をひかれ、抱き寄せられた。
「落ちついて」
 僕の頭の上でささやいた声はあくまでも冷静だった。

「緩和剤が効かない時のヒートはたいてい重くなる。心配しなくていいから、シャワーを浴びておいで」
「でも……」
「いいから一度洗っておいで」
 峡さんは僕の顎をもちあげる。
「それとも一緒がいい?」
 顔が真っ赤になったのがわかった。
「ひとりでいいです」

 シャワーを浴びて出ると、ベッドルームで峡さんはシーツを替えていた。汚れ物を足で押しやると、戸口で立ち止まっている僕に「おいで」という。

 僕は引き寄せられるように彼に近づいた。腕をのばしてキスをする。そのままベッドの上に倒れこみながら、まだキスをしていた。頭がぼうっとするようなキスだった。
 いや、もともと僕の頭はぼうっとしていたのだが、そのあとどうなったのかがよくわからない。

 次に気がついたとき、僕の隣で峡さんが眠っていた。

 部屋は足元灯の小さな光しかなかった。窓の外は暗かった。峡さんはぐっすり寝ていて身じろぎもしない。僕はトイレに行こうと立ちあがって、ヒートが去ったのを知った。体は軽く、頭もすっきりしている。洗面台で顔をあらって口をゆすぐと首筋や胸に赤い斑点が散っていた。はっとして三面鏡で背中をみるともっとひどかった。花びらのように峡さんの唇の痕が残っている。

 ベッドに戻ると、峡さんはあいかわらず深く眠っていて、寝息もほとんど聞こえない。眠っているのをいいことに僕は彼の髪とひたいを撫でた。ここでキスをして――それからどうなったっけ?

 うっすら覚えているのは、またベッドにうつぶせにされた僕の背中を峡さんの舌がなぞっていったことだ。全身を舐められて、快感にうめく僕の耳元で「俺はしつこいっていったからね?」とささやかれたことも覚えている。それは僕を喜ばせるための嘘じゃないかと思ったことも覚えている。――このひとはやさしいから、僕がどこかのアルファに目移りしたと思ったとたん、すぐに引き下がろうとするんじゃないか。そんなことを霞んだ頭で考えたのも覚えている。

「峡さんの馬鹿」僕はつぶやいた。
「そんなことはさせない。ぜったいに。ねえ……」
 僕は彼のひたいの上でささやく。
「あなたは僕のものだよ」



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