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本編

27.まばたきの音(後編)

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 秀哉と最後に会ったのはいつだっただろう。電話やメールのやりとりはたまにして、大学四年間のあいだに何度か会った。大学を出て数年。声はモバイルごしに聞いていたし、顔つきはそれほど変わったようには見えない。

「こんなところで会うなんて」
 ボタンダウンシャツにスラックス、片手にはグラス。僕の方へかがみこんだ彼の首筋からふわりと香りが漂った。シトラスとアンバーのコンビネーション、それと――僕はぞくっと背筋がふるえるのを感じた。
 アルファの匂い。

「リラックスのためにね、ちょっと飲んでいたところ」
 僕は冷静な口調を保とうと努力した。リラックスと口ではいったものの、急に出くわしたアルファの幼馴染のおかげで、さっきまで感じていたそれが一気にどこかへ飛び去ってしまったのだ。

「ひとりなのか? 待ち合わせ」
「ひとりだよ。じきに帰るけど」
「横、いいか? デュマーにはよく来る?」

 僕は首を振ったが、秀哉はすばやくソファの隣にすべりこんだ。記憶よりも堂々として、ちゃんと社会人をやっていますという雰囲気だ。彼の重みでソファが下がる。また匂いが漂ってくる。さっきよりずっと近い。

「いつもは友達とカフェに来るだけだよ。今日はたまたまだ」
「すごい偶然だな。今日、来ることにしてよかった。まさか朋晴とここで会うとは。元気?」
 僕は苦笑した。
「前に電話でもいっただろう。元気だよ」
 秀哉はグラスをテーブルに置く。
「変わらないな、朋晴。あいかわらず――」
 そこで言葉を切って黙るので、僕は先をつなげた。
「あいかわらず何? おまえも変わってないよ。社会人らしくなったけど」
「なんといっても宮仕え中だからな」

 そのまましばらく当たり障りのない世間話をした。会社勤めがどんな感じか、上司や同僚について、高校の頃の同級生の消息について。僕は不思議な気分だった。デュマーのバーのシャンデリアの下で、秀哉と顔をつきあわせてこんな話をしているのは妙に非現実的だったのだ。久しぶりに会えたのは嬉しかった。でも昌行との一件もある。
 だんだん話に倦んできて、空のグラスの縁をぽんぽん叩いたときだった。秀哉がいった。

「で、今日はどうしたんだ? 今のその――朋晴の相手」
 僕は首を振った。カクテルのアルコールが回って、体がすこしだるかった。さっきから皮膚の表面が火照っているようだ。
「今日はたまたまここデュマーで休んでいたんだ。もう僕は帰るよ」
「嘘だろう」鋭い声がいった。
「ヒートのパートナーをハウスにひとりにしておくなんて、あるはずない」

 ひやりとして僕は隣をみる。秀哉はにこりともしていない。
「朋晴、相手がいるなんて嘘なんじゃないか? 俺が――」
「嘘じゃない」僕はイライラとつぶやいた。
「嘘ついてどうするんだ。好きな人はいるよ」
「それならどうして――」
「彼はベータなんだ。ここには来れない」

 深く考えてのことではなかった。峡さんについて秀哉に話すつもりは一ミリもなかったからだ。うっかり漏れた言葉を後悔して僕はソファを立とうとした。とたんに体がふらついた。たったカクテル一杯なのに、これはヒートの作用のせいなのか。

「ベータだって?」
 秀哉がつぶやいた。
「北斗がいった通り――」
 思いがけない名前に僕はまた腰をおろし、口をはさんだ。
「昌行が何かいったのか?」
「ああ」
「おまえ、昌行のことで僕にいろいろいってたくせに、あいつと話していたのか?」
「つい最近あっちから連絡があったんだ。もちろん俺は最初は怒ったさ。例の雑誌の話とか――だけどおまえの話になって……あいつがいろいろ」
「今日はどうなんだ?」
 僕は腕を上げて秀哉をさえぎった。自分でも止められないほどの詰問口調になっていた。
「今日おまえがここにいるのは偶然?」

 秀哉は僕をまじまじとみつめた。
「当たり前だろう。俺はこのバーにはよく来るんだ。それより朋晴、相手がベータっていうのは」
「そんなの僕の勝手だろう」
「どうしてベータなんだ?」

 僕はまた立ち上がろうとした。今度はふらつかなかった。なのに肘を秀哉にがっつりつかまえられている。彼は繰り返した。
「どうしてベータなんだ?」
 僕は秀哉の手を振り払おうと肩をねじった。

「僕が好きなんだ。それ以外に理由がいるか?」
「例の週刊誌に出ていた男」
 秀哉は僕を正面からみつめたままいう。
「藤野谷家の、あの男ならまだわかる。あのアルファなら――でもベータだって?」
「悪いかよ」僕は苛立ちを苦労して抑えていた。
「秀哉、離せ。おまえほとんど飲んでもないのに酔ってるのか? 僕は帰る。おまえがいったとおりヒートなんだ。帰らないと」
「ヒートなのに、ベータの彼氏をおいてこんなところにいるわけだ」

 秀哉は僕の話を聞いているのかいないのか、低い声でつぶやいている。自分の膝に抱えこもうとするかのように僕の腕を引く。僕は背中をそらせて彼を避けようとするのを無視してささやく。
「で、アルファの俺がここにいて? 笑わせるな。朋晴の匂いがするよ。オメガのおまえの……すごくいい匂いが」
 彼の息は首筋からうなじに下がり、僕の背筋を泡立たせる。
「ベータの男にこの匂いがわかるのか? 俺を誘惑しているんじゃないのか? 知ってるくせに――俺がまだ朋晴を」

 とっさに僕は体をひねった。秀哉は振り払われた腕を伸ばし、立ち上がって僕の両肩を抑えつけようとする。僕は後ろにとびすさった。テーブルがガチャンと音を立て、グラスが倒れた。秀哉は僕を威圧するように見下ろしている。これだからアルファのでかいやつというのは――

「いい加減にしろ!」怒鳴った反動で声が裏返った。
「何度いったらわかるんだ。おまえがアルファだろうとベータだろうと変わらない。僕がオメガだからおまえを好きになるなんて馬鹿なことがあってたまるか! だいたい秀哉はわかってないんだ。おまえのことを好きだったのは昌行じゃないか! ずっと――おまえの横にいて、おまえのことを気にしていたのは」
 秀哉は眼をまたたいた。
「なんだって?」

 仲裁が入ったのはそのときだ。
「お客様、おやめください」
 バーテンのうしろに無表情のベータの男がふたり、無表情なのに怖い顔で僕らをみつめている。ひとりが秀哉の方へ近寄り、自然な足どりで僕と彼のあいだに入った。

「このハウスではこういったふるまいはやめていただきます。アルファのそちらは――」
 バーテンは秀哉に眼をやった。
「オメガの方にこんな接触をしないように。他にもお客様がいらっしゃいますから、退席していただけますか?」

 後半のせりふは僕にいったのだった。僕はうなずいた。知らず知らずのうちに片手がもう一方の手首をさすって、腕時計の存在をたしかめていた。時計はちゃんとそこにあった。お守りのように僕は薔薇の留め金に触れる。
「申し訳ありませんでした。僕は帰ります」
「こちらへどうぞ」

 僕はふりむかなかった。秀哉の方向を二度と見なかった。ほかのお客様がいるとバーテンはいったが、バーの客はまったく増えていない。もうひとりのベータの男におとなしくついていくと、レセプションの裏の小さな部屋へ通された。彼は水を出してくれ、一礼して出て行った。僕は小さな応接セットのソファにへたりこむように座った。

『大丈夫ですか? 落ちつくまで休んでいかれて大丈夫ですよ?』

 ふいにスピーカーから声が聞こえる。コミュニケーションAIのサムだ。妙に人間臭い口調に僕は吹き出しそうになった。まだ興奮していたのだ。感情がうまくコントロールできないのは、秀哉を怒鳴りつけたばかりだから。秀哉がベータがどうのこうのとかいったから。僕があいつを誘惑しているとかなんとか――

 僕は息を吸った。動転していたおかげでさっきは感じなかった怒りが、急にわきあがってくる。

「ありがとう。すぐに落ち着くから。帰ります」
『お車を手配いたしましょうか? それともご自分でお迎えを呼ばれますか?』

 ハウス・デュマーは贅沢で至れり尽くせりでありがたい施設だ。僕は車を用意してもらって帰ればいい。帰って、アパートの一人の部屋で、残りのヒートをやり過ごせばいい。

 みじめな気分が僕を包んだ。ヒートが問題なのだ。なんて面倒なんだろう。僕はこれまでこんな風に思ったことはなかった。いっそ素直に峡さんに会いたいといえばよかったのでは? でも峡さんはベータだから……。

(ベータの男にこれがわかるのか?)

 ポケットから取り出したモバイルを僕はしばらく眺めていた。迷いがあったのかなかったのか、どうしてその番号をタップしたのか、それでよかったのか。自分でも心もとなかった。
 僕はすこし話がしたかっただけなのだ。僕とおなじオメガの誰かと。

『三波?』
 ためらうようなコールのあとに声が聞こえた。優しくて、すこしぽやっとした雰囲気の声だ。
「佐枝さん」
 僕はモバイルを耳に押しあて、つぶやいた。不覚にも眼の奥が熱くなる。
『どうしたの三波。電話なんて珍しいな』

 柔らかく、すこしからかうような口調にどっと安堵があふれた。
「佐枝さん。すみません。僕――」
『三波? どうかしたの?』

 止めるまもなく涙がこぼれおちた。喉がつまりそうになる。僕はどうにか声を押しだそうとして失敗した。
「ちょっと――」
『大丈夫? 何かあった?』
「大丈夫なんですが……」
 僕はつばをのみこむ。しゃっくりが出そうになる。

「……すみません、大丈夫じゃないみたいで」
『おい、落ちつけよ。いまどこにいるんだ?』

 まったくなんてざまだ、三波朋晴。僕はモバイルを握りしめたままうなだれた。
「ハウス・デュマーです。佐枝さん」



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