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本編

13.犬のように優雅な生き物(前編)

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 TEN‐ZEROの正面から出て左に直進、つきあたりの交差点はぎりぎりで赤に変わった。残念なことにここの信号待ちは長い。周囲のオフィスビルから現れた人たちが同じように信号を待っている。渡ったところに地下鉄の入り口があり、その先には電車の駅がある。

 夜のオフィス街は信号と街灯とビルの明かりに照らされている。車が通りを切れ目なく走り、信号はなかなか変わらない。ここまで走ったせいか顔に汗がにじむ。僕は片手で鞄を持ったまま片手でシャツの襟を直した。今日の服は昨日にくらべれば適当なセレクトだ。おかしな服ではないが、もう少し考えて選べばよかったな、と思う。

 待ち合わせのカフェはすぐそこだ。通りに面した角はガラス張りで、窓に沿ったカウンター席にちらほらと人が座っている。そばに誰かが並んだが、信号待ちでここに人がたまるのはいつものことなので僕は気にしなかった。峡さんから連絡がないかモバイルを取り出そうとポケットに右手をつっこむ。左腕を掴まれたのはその時だった。

「トモ」
 僕は反射的に体をひいたが、相手は腕をつかんだままだ。声の主を見上げて息を飲む。
「昌行?」
「久しぶり」
 北斗昌行はあっさりそういった。

 内容とは裏腹に昨日会ったばかりのような口調だった。Tシャツにチノパンという、オフィス街にはそぐわない学生のようなスタイルだ。ベータの彼は僕よりずっと背が高いし、スポーツで鍛えていて体格もいい。高校時代はずっとバスケ部で、アルファのエースのサブとして活躍していたはずだ。日焼けした顔が微笑む。やたらと歯が白く光った。
 何の理由もなく僕はぞっとした。

「どうしてこんなところにいるんだよ?」

 何気ない口調を保とうと努力する。ここ数か月のあいだ、昌行の話はいくつかの場所で話題にのぼったが、顔を見たのは何年振りだろう。

「ご挨拶だな。メールを送っただろう? 返事がないから」
「メール?」
「会って話したいって。誤解されていると思ってさ」
「悪い。見てない」
「ひどいな、小学生からのつきあいなのに。古い友を大切に、だぜ」

 古い友か。中学の修学旅行の時、僕が割ったフォーチュンクッキーに入っていた言葉だった。

「だからってわざわざこんなところまで?」
 僕の声はあきれた調子になっていたと思う。だが昌行は気にした様子もない。とてもだった。学生時代の頃と同じ口調だ。ごくふつうの友達づきあいをしていた頃のような、何ひとつ変わらないかのような口調で、久しぶりの再会に驚いた様子もない。

「トモの会社の前にいたんだ。気づかずに走っていっただろう?」
「前って……こんな時間に?」
「残業するとこのくらいになるのはわかってる」
「なんでさ」
「知ってるから」

 僕はまたぞっとした。知ってるって――どういうことだ?

「信号、変わったぜ」
 昌行が僕の腕をまた引いた。僕を自分の腕で囲い込もうとするかのように近くに体を寄せてくる。まるでアルファのような仕草だ。僕はあとずさった。周囲の人の動きは反対で、いっせいに横断歩道を渡っていく。

「トモ、渡るんだろう。そこの地下鉄から帰るなら一緒に行こう。話したい」
「いや――離せよ」

 僕は昌行の腕を振りほどこうとした。半袖のTシャツから出ている腕は記憶にあるより太く、胸も厚く見える。昌行は僕の言葉を無視して腕を掴んだまま横断歩道を歩きはじめた。大股に進む足どりに僕は自然とついていかざるを得なくなる。

「離せって」
 まわりは人目もある上に会社はすぐ近くだ。顔見知りの誰かに気づかれるのもいやで、僕は小声でいらいらと続けた。
「今日はまだ約束があるんだ。おまえに付き合っていられない」
「約束? 誰と」

 何をいってるんだ、こいつは? 僕の声はかなりきつい調子になったはずだ。

「昌行に関係ないだろう。なんだよ、いきなりこんなとこまで来て? 何年も会ってなかったのにこんな――」
 昌行の足が止まった。ちょうど歩道にたどりついたところで、背後でまた車が動き出す。彼は僕を見下ろした。奇妙に静かな眼つきだった。

「メールを送った。何十回も」
「一度返したじゃないか」
「一度だけだ。他は読んでもいない。ちがうか?」
「そんなの当たり前だ」
「どうして。古い友達の連絡を無視して――」

 古い友達。そこに含まれたニュアンスに、僕の中で唐突に怒りが湧きあがった。僕は昌行をにらみつける。

「僕とおまえがまだ友達だとは知らなかったね。いくら雑誌に旧友Aと書かれたって」
「だからその話をきちんと――」
「きちんともへったくれもあるもんか! 僕はおまえと話をする気なんかないね」
「はは、嘘だろ。そんなわけない」

 その時だった。僕の背後から肩に腕が回された。僕は飛び上がりそうになるくらい驚いて、次に聞こえてきた声に安堵した。心の底から安堵した。

「失礼。私の連れに何か?」

 ふわりとシダーの香りが漂う。峡さんの声が僕のひたいのすぐ上で響く。
「彼と何かありましたか? 私と待ち合わせをしていたんだが。もしかして、同じ会社の人かな」
 昌行はみるからにとまどい、毒気を抜かれたような表情になった。

「いえ……古い友人です。久しぶりに会ったので」

 峡さんはさりげなく僕の腕をひいて昌行の手を払った。そのまま腕を絡ませ、僕の指をそっと握りながら昌行をみつめる。表情は穏やかだが、視線は昌行の上から下まで、精査するように鋭く通り過ぎた。車のライトが峡さんのネクタイピンに反射しては消える。

「そうか。朋晴の同級生?」
 唐突に名前を呼ばれ、僕はドキッとする。
「ええ、まあ」
 昌行は口をすこしあけ、まだ途惑っている様子だ。
「そうか」
 峡さんは僕の腕にさらに深く腕をからめた。

「申し訳ないが今日は急ぐんだ。朋晴と話があるなら今度にしてもらえませんか。いくら久しぶりといっても、恋人より友達を優先されるのは困る」

 沈黙が落ちた。昌行は我にかえったようにまばたきをした。
「その……あなたはトモの」
「悪いね、久しぶりに会ったのに」

 峡さんの声は妙に明るく響いた。穏やかなのに断固とした調子が、もう話は終わりだと告げている。
「朋晴、行くぞ」
「峡さん」
「こっちだ」

 腕を絡ませたまま峡さんは僕を導きながら「振り向かないで」とささやいた。
「彼は本当に友人?」
「ええ、まあ、幼馴染というか、昔からの……ただ最近はその――」
「そうでもない? 雰囲気が変だったから引き離そうと思った。勝手に恋人扱いして悪かった」
「いえ、そんな――」
 それこそ願ったりかなったりです、と口走りそうになるのを僕はこらえる。同時に少しがっかりしていた。
「いいタイミングで来てくれて嬉しかったです。ありがとうございます。どこまで行きます?」
「タクシーでもいいかな?」

 僕がうなずくと峡さんは流しのタクシーに手をあげた。車は湾岸の埋め立て地の方向へ走ったが、ほんの数分で峡さんは運転手に声をかけ、二本の大通りに挟まれた明るい通りで停めた。



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