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本編
1.眠らない光
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少し離れたベンチに座ったボスが、組んだ足の膝を指でポンポンポンと叩きつづけている。蛍光灯の点滅にタイミングが合っているのは偶然だ。こうやって膝を叩くのは、ボスの(おそらく自分では気づいていない)癖だ。
犯罪に巻き込まれただけとはいえ、警察で誰かを待っているのはおだやかな経験ではないから、癖が出てしまうのはどうしようもない。もっとも最近の僕はボスのこの動作に何度も遭遇している。
僕が知るかぎり、うちのボスは何が起きようと予想の範囲だという表情のまま、落ちつきはらって命令を下す人間だ。彼がこんな風に手をこまねいて待つしかない状況はめったにない。僕がじっくり思い返すに、それはボスの〈運命のつがい〉である佐枝さんが絡んだトラブルの時だけだ。
たぶんそんなレアな癖をたまたま僕が知っているのは、佐枝さん――佐枝零さんにはいささか迷惑な話だと思う。佐枝さんはボスと僕のあいだの短い(とっくに終わった)関係を知っているが、彼は僕がこの世で嫌われたくない人間トップ3の二番目だ(一番と二番は甲乙つけがたい)。
虫が鳴くような音がジーッと響き、頭上の蛍光灯が二度すばやく点滅し、次に三度点滅した。
警察というのはおかしなところだ。今どき、グローランプを使った蛍光灯を吊るしているなんて時代遅れすぎないか。建物の外のどこかでサイレンが鳴っている。誘拐拉致警報解除、僕は頭の中で言葉をいじりまわす。今日は朝から働きづめだから座って待っていると眠くなる。下手なリリックでも考えて、うっかり居眠りしないようにしなくちゃ。むかし通っていたハウスの連中は総じて韻を踏むのが得意だった。僕は一度もうまくやれたためしがない。
ボスの指がまた膝を叩いているが、僕の頭の中のリズムとはずれている。ちょっとイラつく。
ほとんどの人は自分の癖を意識していない。佐枝さんは考えに集中すると、会話の途中でもどこからか鉛筆やボールペンを取り出し指のあいだでくるくる回す。そのくせ、そんな動作をしていることに自分ではほとんど気づいていない。
僕が彼のこの癖に気づいたのは、会社のプロジェクトで関わりはじめてからまもなく、ビデオ通話で打合せをしていたときだった。急にひとり遊びに没入する佐枝さんの表情は新鮮だったし、長年ひそかに作品を愛好していたアーティストの秘密を垣間見たような優越感もあって、打合せを重ねるうちに僕はその動作を楽しみにするようになった。
あとで同僚の鷹尾に勘づかれて「人が悪いわね」といわれたけど、他人に癖を指摘されるのはばつが悪いよね? でも、こっそり楽しむくらいは許してほしい。
なにしろ佐枝零は何年も前にネットで発掘して以来、ファンになったグラフィックアーティストなんだから。そして彼はボスの現恋人で、今は暴行被害にあって意識不明で病院にいる。僕らは事件の関係者として警察にいて、今は佐枝さんの家族を待っているところだ。
ところで僕は三波朋晴、ボスは藤野谷天藍という。
藤野谷家はいわずと知れたアルファの名族だが、ボスは製薬・医療系を束ねる家業をさしおいて自分の会社、TEN-ZEROを立ち上げ、目下は新進気鋭の経営者として腕をふるっているところ。一方僕はTEN-ZEROに入社してまだ三年の、ただのエンジニアだ。匿名で発表されていた佐枝さんの作品をひそかにネットで追いつづけていなければ、ボスが気がついたかどうかも怪しいものだ。
もっとも自分が平々凡々の見てくれだとはいわない。僕は(良い意味で)かなり目立つ外見だと自覚している。だがボスのような名門のアルファは僕のようなオメガの顔など見慣れているし、そんなこととも無関係な次元で、ボスが(人生で)本当に気にかけていたのは佐枝零ただひとりだった。佐枝さんとボスが出会ったのは十四歳の頃だという。
十四歳。
なんとも微妙な年齢だと僕は思う。幼馴染というには少し年が行き過ぎて、でもまだ十分に子供で、自分というものがやっとつくられる、そんな年頃だ。僕のようなオメガにとっては、ヒートがまだ始まらない、ある意味呑気で、ある意味焦る、微妙な時期でもある。
トントン、トントン。
指で膝を叩くボスの癖は佐枝さんの癖とちがって、僕をイライラさせている。原因は主に疲労と眠気。それでも運転手を買って出た以上は待たないと――そう思った時、向かい側の灰色の扉が開いた。
ボスがすばやく立ち上がる。僕は一瞬反応が遅れて、視線を落とす。靴とスラックスの裾がみえる。反射的に僕が思ったのは、あの靴には手入れがいるってことだった。
靴やスーツは残酷なアイテムだ。なにしろ一目で値段がわかる。だからって高ければいいというものじゃない。結局のところ問題は中身だ。
どうして僕は、こんな緊迫した状況で場にふさわしくないことを考えてしまうんだろう?
「峡さん。大丈夫でしたか」
くだらないことを考えている僕を尻目に、ボスがいった。
「ええ、これで終わりだそうです。待ってもらって申し訳ない」
僕はそっと目をあげる。ボスの隣にいるのは佐枝峡さん、佐枝さんの血のつながらない叔父だ。佐枝さんやボスよりずっと年上で、佐枝さんの複雑な事情(ボスの実家である藤野谷家と佐枝さんの生家のあいだにあった問題や、本当はオメガなのにベータにみせかけていたことなど)をすべて把握している。そもそも佐枝さんが長年ベータに偽装できていたのも、峡さんの協力の賜物だという。
僕はあわてて口をひらき、ボスと峡さんの前に立った。
「送ります。藤野波理《ふじのはり》総合病院でいいですね?」
「え? きみに送ってもらうなんてそんな……」
峡さんがいった。本気の遠慮に聞こえたから、僕は早口で遮った。
「マスコミにばれたらまずいでしょ? タクシーも危険です。僕の車は兄の借りもので、マークされてませんから」
「悪い、三波。ありがとう」
すかさずボスがいった。ずいぶん素直だが、家柄のいいアルファだけあって、ひとを使うことに慣れているせいもある。蛍光灯の光の下でボスの顔は黄色みがかり、暗い影とまだらになっている。心労で下がった頬がすこしたるんでみえ、ハンサムな顔が台無しだ。
峡さんはそんなボスの肩に慰めるように軽く手を置いた。身長はボスより低いのにそんな仕草が不自然でないのは、彼の落ちついた雰囲気のせいだろう。
「零は大丈夫だ。あの子は強いから」
彼の口調や仕草は僕をいくらか安心させる。これが年の功というものだろうか。
峡さんは、佐枝さんにボスが〈運命のつがい〉だと打ち明けられていた、ただひとりの人間だった。でもボス自身は長年佐枝さんのことをベータだと思っていたのだから、話はひたすらややこしい。医師の資格をもつ峡さんは甥をベータに偽装するために、オメガの匂いを消す薬を処方していた。佐枝零の秘密を知るのが自分だけという状況は、彼にはどれほど重かっただろう。その秘密がボスや僕だけでなく、マスコミのために縁もゆかりもない世間一般にまで知られてしまったのは、少し前のことだ。
男女に加えてアルファ、ベータ、オメガの三性があるおかげでこの世界はずいぶんややこしく、同時に面白いことにもなっているが、いくらオメガが社会的に不利(もっともこのごろは逆に有利だという人もいる、特にベータには)としても、佐枝さんほど徹底して隠すことなどふつうはありえない。
常識的にありえないことを人は予想しないから、そうとわかったときは僕も嘘みたいな話だと思った。
具体的にどういう経緯でそんなことになったのか、週刊誌やウェブメディアが好き勝手に書き散らした信憑性のない情報以外、僕は知らない。僕が直接知っているのは、佐枝さんはある時から偽装をやめざるをえなくなり、オメガとして人前に――僕の前にも――出てきたということだけだ。
ただ、佐枝さんがボスの実家、つまり藤野谷家というアルファの名族と、親世代からつづく因縁絡みだということがマスコミにすっぱ抜かれてから、雲行きがおかしなことになった。
名族のアルファの相手であるオメガが財産目当てで拉致されるなんて、まったく陳腐なフィクションのようだが、現実にそれが起きたのだ。
事件が発生したのは三日前の昼間で、一介の会社員の僕が招集されたのは翌日の早朝。佐枝さんが身につけていたオーダーメイドの香水――うちの会社の製品で、僕がサンプルデータから調製した――を手掛かりにして、犬やドローンを使った捜索にわが社の技術を投入し、佐枝さんを保護したのは拉致されてから二十六時間後。
くわしいことは知らないが、佐枝さんは薬を打たれてひどい中毒症状を起こしていた。今もまだ意識が戻らないらしい。
僕はどうしてここにいるのかって?
僕と佐枝さんは、昨年秋にボスが結成した特別チームで一緒に働いて以来、かなり頻繁にやりとりをしていた。僕は彼の自宅にも行ったし、その後もマスコミ騒動等々で何かと縁があったから、今も事件のおかげでマスコミに追い回されて動きにくいボスの足代わりとして、超過勤務をしているわけだ。
ちなみに今回の事件で招集されたのは僕だけじゃなかった。きっと関わった社員には相応の賃金と口止め料もかねたボーナスが支払われるだろう。僕はボスの気前の良さを疑ったことはない。
ボスと峡さんは小声で話しながら僕のあとをついてくる。深夜の駐車場を横切り、平凡な白いボックスカーのロックを外すと、僕はボスを助手席ではなく後部座席に追いやった。彼が隣にいるとあれこれ指図したがるかもしれず、疲労が頭に来そうな今は避けたかった。
峡さんが横に来てくれるのなら――という考えがちらりと頭をよぎるが、ボスが助手席に座るよりはるかに不自然だし、緊急事態のいまそんなことを思うなんて不謹慎もいいところだ。それでも僕はさりげなく後ろの座席をふりかえり、峡さんがシートベルトをつけるのを確認する。
峡さんに会ったのは今が二回目、だと思う。それなのに彼をこんなに意識してしまう理由は、自分でも見当がついていた。僕が昔知っていたある人に似ているから。最初に会った時、生き別れの双子の兄弟でもいるのかと思ったくらいだった。
でも今会って思うのは、顔の造作はそこまで似ていないということだ。似ていたのは雰囲気と声と、ベータであることと……まあ、そのくらいだ。さらに付け加えるなら、匂いもすこし。
オメガに匂いでその時々の感情を知られるのを嫌うベータは多い。匂いは嘘がつけないのだが、たいていのベータはオメガよりも鼻がきかない。
僕はできるだけ無表情でいようとする。今の峡さんは不安でいっぱいで、気がせいている。家族が集中治療室にいるのだから当然だ。それなのに僕は不謹慎なくらい峡さんを気にしていて、こうして彼を車で送れるのを少しラッキーだと思っている。おまけに峡さんが僕を嫌っていないことにものすごくほっとしている。
僕のような外見のオメガはベータの男に嫌われることも多いのだ。そうするとすぐに匂いでわかる。
どっちにせよ、今のような状況では褒められた心境とはいえない。
「三波、すまなかった。特別休暇を何日か出すから、休んでいい」
病院の裏口に車をつけると、ボスは窓の外から運転席の僕にそんなことをいう。
「まさか」
「いや。他の連中にもあとでメールする」
僕はうなずいてサイドウインドウを上げ、ボスの斜めうしろに立つ峡さんに会釈した。口の動きで「ありがとう」といわれたのがわかった。
もちろん佐枝さんのことは僕だって心配していた。でも僕には予感があったのだ。佐枝さんが発見された時、警官以外で最初に彼に触れたのは僕だった。僕はオメガの中でも鼻が効く方で、彼が致命的な匂いをさせていないことは直感した。大丈夫だと思ったのはそのせいだろうか。
幸いその予感は間違っていなかった。佐枝さんは数日して意識を取り戻し、ボスは何事もなかったように会社に姿をみせた。あいかわらずピリピリしていたものの、TEN-ZEROで働く僕らは心の底からほっとしたものだ。
そして僕はというと、佐枝さんを案じる一方で、峡さんはどうしているのかをひそかに気にかけていた。
犯罪に巻き込まれただけとはいえ、警察で誰かを待っているのはおだやかな経験ではないから、癖が出てしまうのはどうしようもない。もっとも最近の僕はボスのこの動作に何度も遭遇している。
僕が知るかぎり、うちのボスは何が起きようと予想の範囲だという表情のまま、落ちつきはらって命令を下す人間だ。彼がこんな風に手をこまねいて待つしかない状況はめったにない。僕がじっくり思い返すに、それはボスの〈運命のつがい〉である佐枝さんが絡んだトラブルの時だけだ。
たぶんそんなレアな癖をたまたま僕が知っているのは、佐枝さん――佐枝零さんにはいささか迷惑な話だと思う。佐枝さんはボスと僕のあいだの短い(とっくに終わった)関係を知っているが、彼は僕がこの世で嫌われたくない人間トップ3の二番目だ(一番と二番は甲乙つけがたい)。
虫が鳴くような音がジーッと響き、頭上の蛍光灯が二度すばやく点滅し、次に三度点滅した。
警察というのはおかしなところだ。今どき、グローランプを使った蛍光灯を吊るしているなんて時代遅れすぎないか。建物の外のどこかでサイレンが鳴っている。誘拐拉致警報解除、僕は頭の中で言葉をいじりまわす。今日は朝から働きづめだから座って待っていると眠くなる。下手なリリックでも考えて、うっかり居眠りしないようにしなくちゃ。むかし通っていたハウスの連中は総じて韻を踏むのが得意だった。僕は一度もうまくやれたためしがない。
ボスの指がまた膝を叩いているが、僕の頭の中のリズムとはずれている。ちょっとイラつく。
ほとんどの人は自分の癖を意識していない。佐枝さんは考えに集中すると、会話の途中でもどこからか鉛筆やボールペンを取り出し指のあいだでくるくる回す。そのくせ、そんな動作をしていることに自分ではほとんど気づいていない。
僕が彼のこの癖に気づいたのは、会社のプロジェクトで関わりはじめてからまもなく、ビデオ通話で打合せをしていたときだった。急にひとり遊びに没入する佐枝さんの表情は新鮮だったし、長年ひそかに作品を愛好していたアーティストの秘密を垣間見たような優越感もあって、打合せを重ねるうちに僕はその動作を楽しみにするようになった。
あとで同僚の鷹尾に勘づかれて「人が悪いわね」といわれたけど、他人に癖を指摘されるのはばつが悪いよね? でも、こっそり楽しむくらいは許してほしい。
なにしろ佐枝零は何年も前にネットで発掘して以来、ファンになったグラフィックアーティストなんだから。そして彼はボスの現恋人で、今は暴行被害にあって意識不明で病院にいる。僕らは事件の関係者として警察にいて、今は佐枝さんの家族を待っているところだ。
ところで僕は三波朋晴、ボスは藤野谷天藍という。
藤野谷家はいわずと知れたアルファの名族だが、ボスは製薬・医療系を束ねる家業をさしおいて自分の会社、TEN-ZEROを立ち上げ、目下は新進気鋭の経営者として腕をふるっているところ。一方僕はTEN-ZEROに入社してまだ三年の、ただのエンジニアだ。匿名で発表されていた佐枝さんの作品をひそかにネットで追いつづけていなければ、ボスが気がついたかどうかも怪しいものだ。
もっとも自分が平々凡々の見てくれだとはいわない。僕は(良い意味で)かなり目立つ外見だと自覚している。だがボスのような名門のアルファは僕のようなオメガの顔など見慣れているし、そんなこととも無関係な次元で、ボスが(人生で)本当に気にかけていたのは佐枝零ただひとりだった。佐枝さんとボスが出会ったのは十四歳の頃だという。
十四歳。
なんとも微妙な年齢だと僕は思う。幼馴染というには少し年が行き過ぎて、でもまだ十分に子供で、自分というものがやっとつくられる、そんな年頃だ。僕のようなオメガにとっては、ヒートがまだ始まらない、ある意味呑気で、ある意味焦る、微妙な時期でもある。
トントン、トントン。
指で膝を叩くボスの癖は佐枝さんの癖とちがって、僕をイライラさせている。原因は主に疲労と眠気。それでも運転手を買って出た以上は待たないと――そう思った時、向かい側の灰色の扉が開いた。
ボスがすばやく立ち上がる。僕は一瞬反応が遅れて、視線を落とす。靴とスラックスの裾がみえる。反射的に僕が思ったのは、あの靴には手入れがいるってことだった。
靴やスーツは残酷なアイテムだ。なにしろ一目で値段がわかる。だからって高ければいいというものじゃない。結局のところ問題は中身だ。
どうして僕は、こんな緊迫した状況で場にふさわしくないことを考えてしまうんだろう?
「峡さん。大丈夫でしたか」
くだらないことを考えている僕を尻目に、ボスがいった。
「ええ、これで終わりだそうです。待ってもらって申し訳ない」
僕はそっと目をあげる。ボスの隣にいるのは佐枝峡さん、佐枝さんの血のつながらない叔父だ。佐枝さんやボスよりずっと年上で、佐枝さんの複雑な事情(ボスの実家である藤野谷家と佐枝さんの生家のあいだにあった問題や、本当はオメガなのにベータにみせかけていたことなど)をすべて把握している。そもそも佐枝さんが長年ベータに偽装できていたのも、峡さんの協力の賜物だという。
僕はあわてて口をひらき、ボスと峡さんの前に立った。
「送ります。藤野波理《ふじのはり》総合病院でいいですね?」
「え? きみに送ってもらうなんてそんな……」
峡さんがいった。本気の遠慮に聞こえたから、僕は早口で遮った。
「マスコミにばれたらまずいでしょ? タクシーも危険です。僕の車は兄の借りもので、マークされてませんから」
「悪い、三波。ありがとう」
すかさずボスがいった。ずいぶん素直だが、家柄のいいアルファだけあって、ひとを使うことに慣れているせいもある。蛍光灯の光の下でボスの顔は黄色みがかり、暗い影とまだらになっている。心労で下がった頬がすこしたるんでみえ、ハンサムな顔が台無しだ。
峡さんはそんなボスの肩に慰めるように軽く手を置いた。身長はボスより低いのにそんな仕草が不自然でないのは、彼の落ちついた雰囲気のせいだろう。
「零は大丈夫だ。あの子は強いから」
彼の口調や仕草は僕をいくらか安心させる。これが年の功というものだろうか。
峡さんは、佐枝さんにボスが〈運命のつがい〉だと打ち明けられていた、ただひとりの人間だった。でもボス自身は長年佐枝さんのことをベータだと思っていたのだから、話はひたすらややこしい。医師の資格をもつ峡さんは甥をベータに偽装するために、オメガの匂いを消す薬を処方していた。佐枝零の秘密を知るのが自分だけという状況は、彼にはどれほど重かっただろう。その秘密がボスや僕だけでなく、マスコミのために縁もゆかりもない世間一般にまで知られてしまったのは、少し前のことだ。
男女に加えてアルファ、ベータ、オメガの三性があるおかげでこの世界はずいぶんややこしく、同時に面白いことにもなっているが、いくらオメガが社会的に不利(もっともこのごろは逆に有利だという人もいる、特にベータには)としても、佐枝さんほど徹底して隠すことなどふつうはありえない。
常識的にありえないことを人は予想しないから、そうとわかったときは僕も嘘みたいな話だと思った。
具体的にどういう経緯でそんなことになったのか、週刊誌やウェブメディアが好き勝手に書き散らした信憑性のない情報以外、僕は知らない。僕が直接知っているのは、佐枝さんはある時から偽装をやめざるをえなくなり、オメガとして人前に――僕の前にも――出てきたということだけだ。
ただ、佐枝さんがボスの実家、つまり藤野谷家というアルファの名族と、親世代からつづく因縁絡みだということがマスコミにすっぱ抜かれてから、雲行きがおかしなことになった。
名族のアルファの相手であるオメガが財産目当てで拉致されるなんて、まったく陳腐なフィクションのようだが、現実にそれが起きたのだ。
事件が発生したのは三日前の昼間で、一介の会社員の僕が招集されたのは翌日の早朝。佐枝さんが身につけていたオーダーメイドの香水――うちの会社の製品で、僕がサンプルデータから調製した――を手掛かりにして、犬やドローンを使った捜索にわが社の技術を投入し、佐枝さんを保護したのは拉致されてから二十六時間後。
くわしいことは知らないが、佐枝さんは薬を打たれてひどい中毒症状を起こしていた。今もまだ意識が戻らないらしい。
僕はどうしてここにいるのかって?
僕と佐枝さんは、昨年秋にボスが結成した特別チームで一緒に働いて以来、かなり頻繁にやりとりをしていた。僕は彼の自宅にも行ったし、その後もマスコミ騒動等々で何かと縁があったから、今も事件のおかげでマスコミに追い回されて動きにくいボスの足代わりとして、超過勤務をしているわけだ。
ちなみに今回の事件で招集されたのは僕だけじゃなかった。きっと関わった社員には相応の賃金と口止め料もかねたボーナスが支払われるだろう。僕はボスの気前の良さを疑ったことはない。
ボスと峡さんは小声で話しながら僕のあとをついてくる。深夜の駐車場を横切り、平凡な白いボックスカーのロックを外すと、僕はボスを助手席ではなく後部座席に追いやった。彼が隣にいるとあれこれ指図したがるかもしれず、疲労が頭に来そうな今は避けたかった。
峡さんが横に来てくれるのなら――という考えがちらりと頭をよぎるが、ボスが助手席に座るよりはるかに不自然だし、緊急事態のいまそんなことを思うなんて不謹慎もいいところだ。それでも僕はさりげなく後ろの座席をふりかえり、峡さんがシートベルトをつけるのを確認する。
峡さんに会ったのは今が二回目、だと思う。それなのに彼をこんなに意識してしまう理由は、自分でも見当がついていた。僕が昔知っていたある人に似ているから。最初に会った時、生き別れの双子の兄弟でもいるのかと思ったくらいだった。
でも今会って思うのは、顔の造作はそこまで似ていないということだ。似ていたのは雰囲気と声と、ベータであることと……まあ、そのくらいだ。さらに付け加えるなら、匂いもすこし。
オメガに匂いでその時々の感情を知られるのを嫌うベータは多い。匂いは嘘がつけないのだが、たいていのベータはオメガよりも鼻がきかない。
僕はできるだけ無表情でいようとする。今の峡さんは不安でいっぱいで、気がせいている。家族が集中治療室にいるのだから当然だ。それなのに僕は不謹慎なくらい峡さんを気にしていて、こうして彼を車で送れるのを少しラッキーだと思っている。おまけに峡さんが僕を嫌っていないことにものすごくほっとしている。
僕のような外見のオメガはベータの男に嫌われることも多いのだ。そうするとすぐに匂いでわかる。
どっちにせよ、今のような状況では褒められた心境とはいえない。
「三波、すまなかった。特別休暇を何日か出すから、休んでいい」
病院の裏口に車をつけると、ボスは窓の外から運転席の僕にそんなことをいう。
「まさか」
「いや。他の連中にもあとでメールする」
僕はうなずいてサイドウインドウを上げ、ボスの斜めうしろに立つ峡さんに会釈した。口の動きで「ありがとう」といわれたのがわかった。
もちろん佐枝さんのことは僕だって心配していた。でも僕には予感があったのだ。佐枝さんが発見された時、警官以外で最初に彼に触れたのは僕だった。僕はオメガの中でも鼻が効く方で、彼が致命的な匂いをさせていないことは直感した。大丈夫だと思ったのはそのせいだろうか。
幸いその予感は間違っていなかった。佐枝さんは数日して意識を取り戻し、ボスは何事もなかったように会社に姿をみせた。あいかわらずピリピリしていたものの、TEN-ZEROで働く僕らは心の底からほっとしたものだ。
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