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第6章 天の川
2.蛇の巣
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薄暗い室内でモニターが光っている。
二つに分割された画面の右側には大きなベッドを真上から見下ろした映像が、左側にはヘッドボードからのアングルが映し出されている。
どちらの映像でもふたつの裸体が絡みあい、熱に浮かされたような情熱的なセックスの最中だ。ひとつのカメラはつながった腰をはっきりとらえ、もうひとつのカメラは長身の男の唇が組み敷いた相手のうなじにかぶさるところを映し出す。
うなじから唇が離れたところで、モニターの前に座る影は動画をストップし、ズームした。
鮮明さには欠けるが、組み敷かれた相手の皮膚に刻まれた噛み跡がはっきりわかるようなスクリーンショットを記録する。ふたたび映像が動きはじめる。
『七星、愛している……愛してる、俺のつがい――俺の――』
『いぶき、いぶき――』
春日武流は動画を停止すると、首をねじって後ろを向いた。椅子のキャスターがキイっと鳴った。
「よく撮れてる。これこそ決定的瞬間ってやつだ。おまえに頼んで正解だったよ、徹」
「それはどうも」
安西徹が組んだ腕をほどき、パイプ椅子から立ち上がった。
「被写体が熱心だからな。そそるビデオになってる。夕方頃は電波の調子が悪くなったみたいだが」
武流は首を振った。
「いや、これだけあればバッチリだ。声も入ってるしな。伊吹もごまかしようがない」
「これをどうするって?」
「宮久保家でトップの男になるために使うのさ。タイミングはバッチリ。俺は花筐会で伊吹の穴を首尾よく埋めたばかりだし、そのあともうまくいった」
武流は映像をリプレイしたが、音声はミュートした。それでも十分刺激的な動画である。顔も鮮明に映っているから、万が一外部に流出したら大変なことになるだろう。
「宮久保家を追い出されたら、このアルファはオメガを追いかけるんじゃないのか?」
安西がたずねた。武流は唇をゆがめ、かすかに笑った。
「当主はそんな真似を許さないさ。それこそ一大スキャンダルになるからな。それに伊吹だって、そんなことはできないはずだ」
「あんなにはっきり噛んでるのに?」
「伊吹はアルファだ。疑似ヒートにあてられてああなっても、正気に戻れば陰険なアルファらしく、打算で――いや、保身で動く。それに伊吹には宮久保家に逆らえない事情がある」
そういいながら武流は動画を停止し、ソフトを終了した。ハードディスクの中身を確認する。無数のスクリーンショット、それにマスターファイル。椅子をくるりと回転させて安西をみる。
「徹には教えていなかったな。なぜあいつが蓮と結婚したと思う?」
安西は首をかしげた。
「当主に見込まれたんだろう? 逆玉ってやつだ」
「それだけじゃない、伊吹には弱みがある。もちろん当主は承知の上で伊吹を選んだ。俺はこれでも注意深く伊吹を観察してきたんだ」
そこまででひと息つくと、武流は得意げにあとを続けた。
「あいつには宮久保家の力が必要なんだ。だから蓮にいくらすげなくされても平気の平左だった。ところが本社から分室に異動になって、周囲の目が行き届かなくなったとたん、妻とは正反対のオメガとこうなった――わかりやすい話じゃないか。気がゆるんだのさ」
安西は肩をすくめた。
「じゃあ、こうして証拠を握られたら、そいつはますます宮久保家のいうなりになるしかないと? それはいいが、蓮はおまえに惚れているわけだろう? 姉とおまえが結婚する件はどうするんだ?」
「対策は考えてるさ。とにかく、伊吹はいま大失敗をしたと気づいて、当主にどう申し開きするか考えているはずだ。その気もないのに噛んだオメガをどうするかは二の次だよ。それに、薬で誘発された疑似ヒートじゃ子供もできないしな。七星はヒート休みが終わったばかりだった」
「その気もない、か。情熱的に呼んでるのになあ」
「発情してるからな。そんなもんさ」
武流は確信をもって断言した。アルファとオメガのつがいの絆は、オメガのヒートに関係なく、アルファが挿入しているときにオメガのうなじ――受容器と呼ばれる器官がある――を噛むことで生まれる。一方、受精はオメガが排卵している時期、つまり発情期にしか起きない。
オメガの蓮と親密な関係にあるのもあって、武流はヒートの前後のオメガのふるまいになじんでいた。七星が一週間ユーヤに現れなかったのがヒートのためだということくらい、簡単にわかる。
アルファ名族、宮久保家の傍系である武流には、それなりにアルファとオメガの思考がわかるという自負があった。おかげで、自分の感覚がベータのそれを超えられないことには気づいていない。
満足そうに唇をなめた武流を安西は無表情で見やった。
「おまえの予想が当たるとして――じゃ、宮久保家はあのオメガをどうすると思う?」
「まだわからん。そのまま放っておくことはないはずだが、俺が今勝手に動くのはまずい。当主の判断にうまく介入して……」
「つまらんな」
安西はむすっとした声を出す。
「七星は俺が食うつもりなんだぞ。いつまでおあずけにする気だ?」
「がっつくなって、徹」
武流は声をあげて笑った。
「おまえのことはちゃんと考えてるし、ここまでの報酬は払っただろう? 今の時点で重要なのは、俺がこのマスターを持ってることだ。宮久保瀧はスキャンダルを忌み嫌う。コピーが存在したら――流出したら最後、俺もおまえも徹底的につぶされる。俺が宮久保本家の一員になるからこそ、この映像には意味があるし、あとあと使うこともできる……相手は名族のアルファだ。わかってるな?」
「ああ、わかってるよ」
安西はおもしろくなさそうに答えた。
「そりゃな、名族には前に一度痛い目をみたし。コピーはとってない」
「大丈夫さ。おまえにはいずれ、つがいのアルファに捨てられた可哀想なオメガを慰める役目がやってくる」
*
(愛している。だからきみを噛んだ)
夢うつつの意識のなか、遠くから聞こえる伊吹の声を、スマホのアラーム、いや、電話の呼び出し音がふいに断ち切った。
『七星、最近どうしてるの? お盆の日程のことで美桜さんから連絡があって、七星君大丈夫ですかって聞かれたんだけど』
惰性でタップしたスマホから母親の声が響き、七星はやっと枕から顔をあげる。
「えっ……だ、大丈夫だよ。いつも通りだから。お坊さんが来る日は前に連絡したよね?」
エアコンの風にカーテンが揺れていた。八月三日。今日は午後からの出勤だからのんびりしてもいいはず。そう思いながら時刻をみると、もう十一時だ。
体がだるくてたまらないのは連日の猛暑のせいだ。七月末の出来事は関係ない、七星はそう自分にいいきかせている。理由はなんであれ、「大丈夫か」と聞かれて、大丈夫じゃない、なんて返事はしづらいし、したくなかった。未来は夏バテ以上の何かがあると悟って、細かく問いただそうとするだろう。
母親の勘はあなどれない。彰が死んだときも未来だけは、急な事故より前から七星と彰のあいだに問題があったことに気づいた。葬儀やさまざまな手続きが一段落したあとそれとなく尋ねられたが、七星はあいまいにごまかして、詳しいことは話さなかった。
母親は息子が「子供の頃からよく知っているアルファ」とつがいになったのを喜んでいた。オメガにとって、平凡だが理想的な幸福が得られると信じていたからだ。そうではなかったとは告げたくなかったし、今の状況に至ってはもっと話しづらい。
〈運命のつがい〉に出会って――しかも相手は既婚者だ――トラブルになった、なんて。
『うん、日にちはカレンダーに書いてた通りだったけど。元気ならいいけど……そうそう、お盆にそっち行ったとき、ユーヤにも寄るつもりなのよ。春は行けなかったし、九月で終わるって案内ももらったから。あ、ひょっとして美桜さんが大丈夫って聞いたのはそっちの話? 仕事のこと?』
「……それも大丈夫だから」
とっさに口をついて出たのは、いかにもそれらしい嘘だった。
「ユーヤが終わったあとのことも、いろいろ考えてる。魚居さんや、他のスタッフにも紹介してもらったり、良さそうなところ探してるから」
『そう? そうに決まってるわよね』
母親の声は納得したようにすこし明るくなる。半分――四分の一くらいは本当のことだから、と七星は自分にいいきかせる。
『じゃ、お盆に会いましょう。暑いから気をつけなさいよ』
「うん」
七星は通話を切り、スマホを眺めた。メッセージアプリに通知がある。アイコンに表示されているのはIの文字だけだが、伊吹からだとわかっている。
あれから彼は毎日メッセージをくれる。届いたと知るたびに七星の心は喜びで踊るが、タップしてメッセージを読むと、今度はなぜか引き絞られるように胸が痛む。
メッセージはいつも短かった。伊吹は自分のことは何も書かない。内容だけみれば、両親が送ってくるメッセージとほぼ同じだ。今日も暑くなりそうだ。身辺に異常はないか、体調は悪くないか。どうか良い日を。
伊吹は会いたい、とは書かなかった。愛しているとも、きみは私のつがいだ、とも。それは今のふたりにとって、わざわざ言葉にする必要もないことだった。
七月末のあの日は、宮久保姓の名刺ももらった。信頼できる第三者に相談してくれ、ともいわれた。
七星はどうやってあのホテルに行ったのか、まったく思い出せなかった。覚えているのは安西徹とユーヤを出たところまでだ。いつものショルダーバックはベッドの横にあって、スマホも財布も入っていた。
ホテルの駐車場には伊吹の車があったが、あの日伊吹は、ホテルの電話で呼んだタクシーに七星とふたりで乗った。七星のマンションとは反対方向の駅でタクシーを降りると、駅ビルの地下にある小さな喫茶店で、すこしだけ話をした。
「その安西という男から連絡があっても、絶対に出るな。ユーヤに来ても避けることだ」
「わかってます。当たり前です。あの人と……あと、春日さん、ですか? 伊吹さんには……敵がいるんですね」
「だから、他の誰かに何が起きているか知っておいてもらう必要がある」
人もほとんどいない喫茶店で、ひそやかにそんなやりとりをした。
あれから数日たったのに、七星は今もあのときの伊吹の表情をありありと思い出せる。伊吹は苦しそうに眉をひそめながら、私がきみを守れなかったときのために、といった。つまり宮久保家が七星を訴えるとか、そういうことが起きたときのことを考える必要があるという。
「何があっても私を悪者にするんだ。きみは何も悪くないのだから」
でも七星はこう答えた――無理です、と。
「あなたが僕をつがいだというなら、僕も――最初に会ったときから、あなたが気になってた。あなたを好きになったけど、いけないことだと思って――でも僕は……僕だってあなたが好きです。あなただけが悪いなんてことはない。これは僕とあなたの、ふたりのことだ。僕らは……どうしようもなかった」
「私はアルファだ。責任はアルファが負うものだ」
「でも」
「頼む」
伊吹は押し殺した声でいい、七星はその視線と言葉の強さに息を飲んだ。そうだ、アルファとはこういうものだ。だからこそベータとオメガはアルファに従ってしまう。
話していた時間は短いものだった。せいぜい十五分程度だっただろう。七星は自分のスマホでタクシーを呼び、先に席を立ったが、伊吹から一歩離れるごろにうなじを引っ張られるような感じがして、がまんできずふりむいてしまった。
伊吹は七星をみつめていた。何年もまえ、彰とつがいになったばかりのころ、彰も似た目つきで七星を見ていたことがある。俺のもの、俺のオメガだと――ものいわずに語るアルファのまなざし。
でも――彰のときとはくらべものにならないほど、伊吹の視線を甘美に思うのはどういうことだろう?
あれから四日。
七星はスマホをタップした。ありがとう。僕は大丈夫です。うなじがひくりと疼いた。僕はあなたのものです、と書いたのを消して、伊吹さんも良い日を、と送った。
母親の未来の持論は〈運命〉なんてろくでもない、というものだ。たしかにその通りかもしれない。もちろん未来は七星の味方だ。でも伊吹の話はやはり、未来にはできない。
七星は寝そべったまま小さくため息をつき、連絡先の一覧を眺めた。祥子のアイコンをそっとタップして、メッセージを送る。
〈すみません、今日どこかで話、聞いてもらえませんか? 相談があるんです〉
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