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第5章 七夕
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日は沈みかけているのに気温はたいして下がらなかった。湿った空気のなかを歩く伊吹の背中は汗でじっとり濡れている。
(伊吹さんはかまわないでください!)
さっきから伊吹は何度も七星の言葉を頭のなかでくりかえしている。そのつもりもないのに思い出してしまうのだ。
彼が声をあげなければ、きっと触れていた。不用意に近づかないと約束したのに。
今日はイベントがはじまるまでカフェにいるつもりだったが、こうなれば七星のあとを追うわけにはいかない。伊吹は一階のギャラリーに行ったが、すぐに時間をもてあました。しかたなく外に出て、蒸し暑い路地から神社に足を向けた。境内を通り抜け、公園をひとまわりする。どこか高いところで蝉が鳴いている。
土曜に出社したのはユーヤのイベントに寄るついで、あるいは口実のようなものだった――つまり、七星がユーヤにいるかたしかめるための。
望みはかなったのだから、それだけで満足していればよかったのだ。それなのにどうしてあんなことを?
過ぎたことをこんなふうに悔やむのは伊吹らしくないことだった。しかし最近の伊吹には自分自身を客観的にみる余裕がほぼなかった。自分で自分にかけた枷――七星に触れてはならないという枷は、いつしか伊吹をぬきさしならないところに追いこもうとしていたが、それにも気づいていなかった。
やっと開場時間になり、伊吹は汗をぬぐいながらユーヤへ戻った。受付に七星の姿はなかったが、このほうがいいのだと自分にいいきかせる。ところが涼しい地下ホールでひと息ついたとたん、スマホが震えはじめた。武流からの電話だ。
宮久保家からの連絡ならすぐ出ただろう。しかし伊吹はしばらく液晶画面を眺めていた。呼び出しはいったん切れたが、間をおかずまたはじまった。伊吹は小さく首を振ると席を立った。入場する観客といれちがいに通路に出る。
『伊吹、今どこにいる? お城じゃないだろう?』
武流が単刀直入にたずねた。お城とは宮久保本家のことで、武流独特の表現である。伊吹は短くこたえた。
「外だが。どうした?」
『実は折り入って相談がある。会えないか』
「今から?」
『明日の花筐会についてだよ。いろいろ考えたが、おまえに話すしかないと結論が出た』
「待て、電波が悪いようだ」
武流の声はやけに遠い。伊吹は眉をひそめて階段を上った。開始前とあって一階の通路にも人がぞくぞくとやってくる。伊吹は顔をしかめて外へ出た。
『伊吹、いいか? あのな、まじめな相談なんだよ。おまえの口が堅いことを見込んで』
「何の相談だ? 花筐会がらみなら、私よりずっとわかっているだろう」
『そりゃ、親族だからな。おまえより前から出席はしてる。でも俺は宮久保姓じゃないし、おまえは瀧さんに見込まれて蓮の夫になった人間だ。あのな、伊吹。わかっていないかもしれないが、俺はおまえをずっと評価してるんだぞ』
ごうっと音をたてて電車が鉄橋を駆け抜ける。伊吹はスマホを耳に押しつけた。
「――わかった。どこへ行けばいい」
『すまんな。場所を送るよ』
メッセージ到着の通知が鳴った。都心の料亭の住所がそっけなく書かれている。
「車があるから、酒が出るのは困る」
『ああ? おまえは飲まなくていいさ。ま、もし飲んだとしてもお城に連絡すればどうにかなるだろ? とにかく待ってる」
通話は唐突に切れた。伊吹はスマホをポケットに入れ、無表情のままコインパーキングに向かった。
花筐会――宮久保家当主が主催する食事会は先月末にもあった。いつもは二カ月か三カ月に一度なのだが、めずらしく続けて開かれることになったのは、宮久保家の家業に関係があった。ながらく使途が決まらず塩漬けになっていた土地の再開発にめどがついたのである。
明日の会はこの事業にからむ大物が何人も訪れることになっており、伊吹は当主じきじきに彼らへの応対を頼まれていた。
武流が何を考えているにせよ、花筐会を持ち出されては応じないわけにはいかない。それに「相談がある」というのはめずらしい――いや、はじめてのことだった。
伊吹に対する武流の態度にはかねてから複雑なものがある。アルファのくせに、オメガの妻の生家に唯々諾々と従っているなどつまらない男だ、という軽蔑がある一方、大切なオメガの配偶者として宮久保家に迎えられ、当主の瀧が公式の場でそれなりに役割を与えている――つまり伊吹を評価している――ことを羨ましくも思っている。女性アルファの瀧は、ベータの親族をおなじように評価したことは一度もない。
指定された料亭は、百年前は花街として名をはせた通りから奥へ入ったところにあった。植えこみと重々しい石塀にかこまれ、表札も出ていない。名族や政治家といった一部の階層にしか知られていない場所である。
伊吹が案内されたとき、武流はもう玻璃の盃に口をつけているところだった。目だけあげて伊吹をみると「悪いな、わざわざ」といった。
「いったいどうした。こんなにあらたまって」
「警戒するなって、伊吹。おまえに打ち明け話をするためさ。今日まで絶対の秘密だから、うかつなところじゃまずい」
「花筐会のことじゃ――」伊吹はふと気づいた。
「今日まで?」
「明日の会がおわったあと瀧さんに話すからさ。志野とふたりで」
蓮の姉の名に伊吹は眉をあげた。
「志野さんと?」
武流は升をおいた。
「ああ。俺たちはつきあっている。結婚も約束している」
何を聞くと予想していたにせよ、これは想定をはずれた言葉だった。伊吹はまじまじと武流を見返したが、相手はしごくまじめな表情をしている。
「それは……いつからだ?」
「つきあう間柄になったのは一年ほど前だな。子供のころはそこまで仲がいいわけじゃなかったんだが――蓮とはちがってね。でもいまは志野も大人の女で――ま、そういうことになったんだ。ただ従兄妹同士だし、当主がどう考えるかわからない。だから俺も志野も秘密にしていた」
伊吹は思わず目をそらし、卓の上をみわたした。
「驚いているな。おまえも飲むか?」と武流がたずねた。
「いや。……それにしてもまったく気づかなかった。そんな風にはまるで……」
「気づかれないようにしていたのさ」
武流はあいかわらず真剣な表情だ。
「お城には当主の目がいたるところにあるから、あそこじゃむしろ仲が悪そうにふるまってた。なあ伊吹、おまえも飲めよ。俺のとっておきの秘密を明かしているんだ。車はどうにでもなるだろう」
伊吹は小さくため息をついた。
「……わかった。それなら一杯」
「おうよ。おまえ、本当は飲める口なんだろう? わかってるぞ」
伊吹が盃を持つと、武流は金玻璃の酒器をもちあげてゆっくりと注ぐ。そのままひと口ふくむと、青林檎を連想するさわやかな風味が広がった。
「それで――私に前もって秘密を明かして、その上での相談とは?」
「明日、例の再開発がらみで招待された議員への説明、おまえに任されているだろう? 資料ももらっているな」
「ああ」
「その説明、俺にも一口噛ませてもらえないか。要するに俺をその場で、おまえの右腕のベータとして扱ってもらいたいんだ。志野はアルファだし、俺と結婚しても宮久保姓を捨てるつもりはない。つまり俺もおまえとおなじように宮久保家の正式な一員になる。当主の信頼が厚いおまえが花筐会で俺を右腕として扱えば、当主が俺と志野の関係をみる目もよくなるだろうって――志野がそういったんだよ」
口あたりのよい酒だった。伊吹は飲み干した盃を置こうとしたが、武流がさっと手をのばした。
「これが相談ってやつだ。もう一杯飲めよ」
伊吹は盃と武流を交互にみた。
「志野さんとのことは、花筐会のあとで当主に打ち明けるのか?」
「ああ。具体的にどうするかは当主の許可をもらって決めるから、家族全員に知らせるのはもっとあとだ。おまえの口の堅さをみこんでといったのは、そういうことだよ」
伊吹はもうひと口酒をすすった。驚きはまだ続いていたが、そういえば以前も、志野の名を武流の口からきいたことがあった。
「蓮にも話さないのか?」
「蓮に話すのは志野の役目だろう。姉なんだから――でもまあ、これも正式に決まるまで黙っておくつもりだ。伊吹、花筐会の件は?」
伊吹は思わず沈黙した。武流が「右腕のベータ」だと? 蓮はもちろん、宮久保家の人々は自分と武流についてそんな風に思ったことはないだろう。だからこそ意外性はあるだろうし、いつもはアルファにしか注目しない当主の瀧になんらかのインパクトは与えるだろう。
「……協力してもいいが、詳細をどこまで知ってる? 右腕といっても――」
「データを送ってくれればいい。明日までに目を通しておく」
「相当な量だぞ。一晩で大丈夫か?」
「がんばるさ、そりゃ」
武流は邪気のない笑顔をうかべた。
「志野と一緒にハードルを越える――いや、ベータの俺にとっては志野へ通じるハードルを越えることだ。やりとげるさ。一晩で読みこんでやる。なんならいま送れないか?」
「できないことはないが……」
「頼む、伊吹」
そこで心を動かされたのはなぜなのだろう。今の武流はいつものへらへら笑いを浮かべていなかった。だが蓮と結婚した時から、武流は伊吹にとってフレネミー――友人の顔をして近づいてくる敵のような存在で、けっして気を許せない相手のはずだった。
きっと、志野との秘密の関係を告白されたことが伊吹の心の暗い部分に響いたにちがいない。
「わかった。資料の共有リンクを送ろう」
伊吹が答えたとたん、武流の表情は一瞬で笑顔にかわった。
「ありがとうな。今やってくれればすぐ確認できる」
伊吹はスマホをタップした。クラウドに置いた資料のフォルダを武流のアカウントと共有する。
「メールを送った」
「ああ、来た。おっと……これはすごい量だな」
「要点は最初のファイルにまとまっているが、議員への説明をふたりでやるとなると――」
「ああ、打ち合わせをしたほうがいいな。明日、会がはじまる前に簡単にやろう」
上機嫌でそういって、武流はスマホを卓に伏せる。
「ベータの俺にはよくわからんが、アルファの女たちが牛耳る宮久保家で、蓮の夫でいるのもなかなか大変だろう? 実家のためとはいっても、自分勝手なお姫様の面倒をみてるだけじゃおまえも報われない。志野と結婚したら俺と組んで、あの家の空気をすこし変えていこうぜ」
伊吹は答えなかった。実家のため、という言葉が意識にひっかかっていた。武流は三城家の事情をどこまで知っているのだろう?
しかしその疑問は次の瞬間宙ぶらりんになった。武流のスマホが鋭く鳴り響いたのである。
「はい――ん、徹か? どうした? 何だって、七星君が?」
ここで聞くとは思わなかった名前に、伊吹の腹の底がさっと冷えた。
相手は誰だ? なぜ七星が?
「ああ、わかった。うん、車か。わかった、すぐ手配する。こういうときの友達だからな。待ってろ。場所は? ああ、送ってくれ」
「武流、何があった」
伊吹はもう武流の方へ身を乗り出している。
「誰からの電話だ?」
「徹だよ。昨日おまえも会った、俺の友達。警察署からかけてきたんだ」
「なんだって?」
「大声出すなよ」
武流は手のひらを左右に振った。
「徹のやつ、ユーヤで七星君を誘って飯を食いに行ったらしいが、まずいことになってる。あのあたり、駅前は物騒なのか? ひったくりか何かわからんが、あいつ財布とスマホをなくしたらしい。おまけに七星君は気分が悪くなって動けないそうだ。それで迎えに来てほしいと」
「待て、それはいったい――」
武流は伊吹を片手で制するとスマホを耳にあて、電話をかけはじめた。伊吹はいてもたってもいられず、スマホの連絡先をひらいた。画面を下にスクロールしたとき、急に酔いが回ったように頭がくらりと傾いだ。
横から肩を叩かれる。伊吹は顔をあげようとした。首をチクッと何かが刺した。
「武流?」
また頭がくらりと傾ぎ、膝から力が抜ける。スクリーンが塗りつぶされるように目の前が暗くなる。
ずっと遠くで声が響いた。ぼそぼそと話しあっているような声だ。しかし急速に薄れていく伊吹の意識にはもうほとんど届かない。
「よし、時間通りだ。では眠る貴公子をしずかに次のマスへ運んで――あっと、待ってくれ」
春日武流は伊吹の左手をゆっくりともちあげる。ハンカチをあてて金の指輪を抜きとり、触れないようにくるんでポケットにしまった。
「これは重要な小道具だからな。さてと、ゲームを進めさせてもらうぜ。伊吹」
(伊吹さんはかまわないでください!)
さっきから伊吹は何度も七星の言葉を頭のなかでくりかえしている。そのつもりもないのに思い出してしまうのだ。
彼が声をあげなければ、きっと触れていた。不用意に近づかないと約束したのに。
今日はイベントがはじまるまでカフェにいるつもりだったが、こうなれば七星のあとを追うわけにはいかない。伊吹は一階のギャラリーに行ったが、すぐに時間をもてあました。しかたなく外に出て、蒸し暑い路地から神社に足を向けた。境内を通り抜け、公園をひとまわりする。どこか高いところで蝉が鳴いている。
土曜に出社したのはユーヤのイベントに寄るついで、あるいは口実のようなものだった――つまり、七星がユーヤにいるかたしかめるための。
望みはかなったのだから、それだけで満足していればよかったのだ。それなのにどうしてあんなことを?
過ぎたことをこんなふうに悔やむのは伊吹らしくないことだった。しかし最近の伊吹には自分自身を客観的にみる余裕がほぼなかった。自分で自分にかけた枷――七星に触れてはならないという枷は、いつしか伊吹をぬきさしならないところに追いこもうとしていたが、それにも気づいていなかった。
やっと開場時間になり、伊吹は汗をぬぐいながらユーヤへ戻った。受付に七星の姿はなかったが、このほうがいいのだと自分にいいきかせる。ところが涼しい地下ホールでひと息ついたとたん、スマホが震えはじめた。武流からの電話だ。
宮久保家からの連絡ならすぐ出ただろう。しかし伊吹はしばらく液晶画面を眺めていた。呼び出しはいったん切れたが、間をおかずまたはじまった。伊吹は小さく首を振ると席を立った。入場する観客といれちがいに通路に出る。
『伊吹、今どこにいる? お城じゃないだろう?』
武流が単刀直入にたずねた。お城とは宮久保本家のことで、武流独特の表現である。伊吹は短くこたえた。
「外だが。どうした?」
『実は折り入って相談がある。会えないか』
「今から?」
『明日の花筐会についてだよ。いろいろ考えたが、おまえに話すしかないと結論が出た』
「待て、電波が悪いようだ」
武流の声はやけに遠い。伊吹は眉をひそめて階段を上った。開始前とあって一階の通路にも人がぞくぞくとやってくる。伊吹は顔をしかめて外へ出た。
『伊吹、いいか? あのな、まじめな相談なんだよ。おまえの口が堅いことを見込んで』
「何の相談だ? 花筐会がらみなら、私よりずっとわかっているだろう」
『そりゃ、親族だからな。おまえより前から出席はしてる。でも俺は宮久保姓じゃないし、おまえは瀧さんに見込まれて蓮の夫になった人間だ。あのな、伊吹。わかっていないかもしれないが、俺はおまえをずっと評価してるんだぞ』
ごうっと音をたてて電車が鉄橋を駆け抜ける。伊吹はスマホを耳に押しつけた。
「――わかった。どこへ行けばいい」
『すまんな。場所を送るよ』
メッセージ到着の通知が鳴った。都心の料亭の住所がそっけなく書かれている。
「車があるから、酒が出るのは困る」
『ああ? おまえは飲まなくていいさ。ま、もし飲んだとしてもお城に連絡すればどうにかなるだろ? とにかく待ってる」
通話は唐突に切れた。伊吹はスマホをポケットに入れ、無表情のままコインパーキングに向かった。
花筐会――宮久保家当主が主催する食事会は先月末にもあった。いつもは二カ月か三カ月に一度なのだが、めずらしく続けて開かれることになったのは、宮久保家の家業に関係があった。ながらく使途が決まらず塩漬けになっていた土地の再開発にめどがついたのである。
明日の会はこの事業にからむ大物が何人も訪れることになっており、伊吹は当主じきじきに彼らへの応対を頼まれていた。
武流が何を考えているにせよ、花筐会を持ち出されては応じないわけにはいかない。それに「相談がある」というのはめずらしい――いや、はじめてのことだった。
伊吹に対する武流の態度にはかねてから複雑なものがある。アルファのくせに、オメガの妻の生家に唯々諾々と従っているなどつまらない男だ、という軽蔑がある一方、大切なオメガの配偶者として宮久保家に迎えられ、当主の瀧が公式の場でそれなりに役割を与えている――つまり伊吹を評価している――ことを羨ましくも思っている。女性アルファの瀧は、ベータの親族をおなじように評価したことは一度もない。
指定された料亭は、百年前は花街として名をはせた通りから奥へ入ったところにあった。植えこみと重々しい石塀にかこまれ、表札も出ていない。名族や政治家といった一部の階層にしか知られていない場所である。
伊吹が案内されたとき、武流はもう玻璃の盃に口をつけているところだった。目だけあげて伊吹をみると「悪いな、わざわざ」といった。
「いったいどうした。こんなにあらたまって」
「警戒するなって、伊吹。おまえに打ち明け話をするためさ。今日まで絶対の秘密だから、うかつなところじゃまずい」
「花筐会のことじゃ――」伊吹はふと気づいた。
「今日まで?」
「明日の会がおわったあと瀧さんに話すからさ。志野とふたりで」
蓮の姉の名に伊吹は眉をあげた。
「志野さんと?」
武流は升をおいた。
「ああ。俺たちはつきあっている。結婚も約束している」
何を聞くと予想していたにせよ、これは想定をはずれた言葉だった。伊吹はまじまじと武流を見返したが、相手はしごくまじめな表情をしている。
「それは……いつからだ?」
「つきあう間柄になったのは一年ほど前だな。子供のころはそこまで仲がいいわけじゃなかったんだが――蓮とはちがってね。でもいまは志野も大人の女で――ま、そういうことになったんだ。ただ従兄妹同士だし、当主がどう考えるかわからない。だから俺も志野も秘密にしていた」
伊吹は思わず目をそらし、卓の上をみわたした。
「驚いているな。おまえも飲むか?」と武流がたずねた。
「いや。……それにしてもまったく気づかなかった。そんな風にはまるで……」
「気づかれないようにしていたのさ」
武流はあいかわらず真剣な表情だ。
「お城には当主の目がいたるところにあるから、あそこじゃむしろ仲が悪そうにふるまってた。なあ伊吹、おまえも飲めよ。俺のとっておきの秘密を明かしているんだ。車はどうにでもなるだろう」
伊吹は小さくため息をついた。
「……わかった。それなら一杯」
「おうよ。おまえ、本当は飲める口なんだろう? わかってるぞ」
伊吹が盃を持つと、武流は金玻璃の酒器をもちあげてゆっくりと注ぐ。そのままひと口ふくむと、青林檎を連想するさわやかな風味が広がった。
「それで――私に前もって秘密を明かして、その上での相談とは?」
「明日、例の再開発がらみで招待された議員への説明、おまえに任されているだろう? 資料ももらっているな」
「ああ」
「その説明、俺にも一口噛ませてもらえないか。要するに俺をその場で、おまえの右腕のベータとして扱ってもらいたいんだ。志野はアルファだし、俺と結婚しても宮久保姓を捨てるつもりはない。つまり俺もおまえとおなじように宮久保家の正式な一員になる。当主の信頼が厚いおまえが花筐会で俺を右腕として扱えば、当主が俺と志野の関係をみる目もよくなるだろうって――志野がそういったんだよ」
口あたりのよい酒だった。伊吹は飲み干した盃を置こうとしたが、武流がさっと手をのばした。
「これが相談ってやつだ。もう一杯飲めよ」
伊吹は盃と武流を交互にみた。
「志野さんとのことは、花筐会のあとで当主に打ち明けるのか?」
「ああ。具体的にどうするかは当主の許可をもらって決めるから、家族全員に知らせるのはもっとあとだ。おまえの口の堅さをみこんでといったのは、そういうことだよ」
伊吹はもうひと口酒をすすった。驚きはまだ続いていたが、そういえば以前も、志野の名を武流の口からきいたことがあった。
「蓮にも話さないのか?」
「蓮に話すのは志野の役目だろう。姉なんだから――でもまあ、これも正式に決まるまで黙っておくつもりだ。伊吹、花筐会の件は?」
伊吹は思わず沈黙した。武流が「右腕のベータ」だと? 蓮はもちろん、宮久保家の人々は自分と武流についてそんな風に思ったことはないだろう。だからこそ意外性はあるだろうし、いつもはアルファにしか注目しない当主の瀧になんらかのインパクトは与えるだろう。
「……協力してもいいが、詳細をどこまで知ってる? 右腕といっても――」
「データを送ってくれればいい。明日までに目を通しておく」
「相当な量だぞ。一晩で大丈夫か?」
「がんばるさ、そりゃ」
武流は邪気のない笑顔をうかべた。
「志野と一緒にハードルを越える――いや、ベータの俺にとっては志野へ通じるハードルを越えることだ。やりとげるさ。一晩で読みこんでやる。なんならいま送れないか?」
「できないことはないが……」
「頼む、伊吹」
そこで心を動かされたのはなぜなのだろう。今の武流はいつものへらへら笑いを浮かべていなかった。だが蓮と結婚した時から、武流は伊吹にとってフレネミー――友人の顔をして近づいてくる敵のような存在で、けっして気を許せない相手のはずだった。
きっと、志野との秘密の関係を告白されたことが伊吹の心の暗い部分に響いたにちがいない。
「わかった。資料の共有リンクを送ろう」
伊吹が答えたとたん、武流の表情は一瞬で笑顔にかわった。
「ありがとうな。今やってくれればすぐ確認できる」
伊吹はスマホをタップした。クラウドに置いた資料のフォルダを武流のアカウントと共有する。
「メールを送った」
「ああ、来た。おっと……これはすごい量だな」
「要点は最初のファイルにまとまっているが、議員への説明をふたりでやるとなると――」
「ああ、打ち合わせをしたほうがいいな。明日、会がはじまる前に簡単にやろう」
上機嫌でそういって、武流はスマホを卓に伏せる。
「ベータの俺にはよくわからんが、アルファの女たちが牛耳る宮久保家で、蓮の夫でいるのもなかなか大変だろう? 実家のためとはいっても、自分勝手なお姫様の面倒をみてるだけじゃおまえも報われない。志野と結婚したら俺と組んで、あの家の空気をすこし変えていこうぜ」
伊吹は答えなかった。実家のため、という言葉が意識にひっかかっていた。武流は三城家の事情をどこまで知っているのだろう?
しかしその疑問は次の瞬間宙ぶらりんになった。武流のスマホが鋭く鳴り響いたのである。
「はい――ん、徹か? どうした? 何だって、七星君が?」
ここで聞くとは思わなかった名前に、伊吹の腹の底がさっと冷えた。
相手は誰だ? なぜ七星が?
「ああ、わかった。うん、車か。わかった、すぐ手配する。こういうときの友達だからな。待ってろ。場所は? ああ、送ってくれ」
「武流、何があった」
伊吹はもう武流の方へ身を乗り出している。
「誰からの電話だ?」
「徹だよ。昨日おまえも会った、俺の友達。警察署からかけてきたんだ」
「なんだって?」
「大声出すなよ」
武流は手のひらを左右に振った。
「徹のやつ、ユーヤで七星君を誘って飯を食いに行ったらしいが、まずいことになってる。あのあたり、駅前は物騒なのか? ひったくりか何かわからんが、あいつ財布とスマホをなくしたらしい。おまけに七星君は気分が悪くなって動けないそうだ。それで迎えに来てほしいと」
「待て、それはいったい――」
武流は伊吹を片手で制するとスマホを耳にあて、電話をかけはじめた。伊吹はいてもたってもいられず、スマホの連絡先をひらいた。画面を下にスクロールしたとき、急に酔いが回ったように頭がくらりと傾いだ。
横から肩を叩かれる。伊吹は顔をあげようとした。首をチクッと何かが刺した。
「武流?」
また頭がくらりと傾ぎ、膝から力が抜ける。スクリーンが塗りつぶされるように目の前が暗くなる。
ずっと遠くで声が響いた。ぼそぼそと話しあっているような声だ。しかし急速に薄れていく伊吹の意識にはもうほとんど届かない。
「よし、時間通りだ。では眠る貴公子をしずかに次のマスへ運んで――あっと、待ってくれ」
春日武流は伊吹の左手をゆっくりともちあげる。ハンカチをあてて金の指輪を抜きとり、触れないようにくるんでポケットにしまった。
「これは重要な小道具だからな。さてと、ゲームを進めさせてもらうぜ。伊吹」
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