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第3章 八十八夜

3.苦苺の種

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「蓮様はお出かけになりました」
 五月二十日、土曜日の午後一時。宮久保家のリビングルームで、伊吹は家政婦長から予想外の言葉を聞いて、思わず眉をひそめた。

「今夜は三城家へ行くと前に話したはずだが」
「はい、承知しております。蓮様はハウス・デュマーのアフタヌーンティーをご予約で、お友達とお待ちあわせです。十五時に藤がお迎えに参ります」
「いや、藤さんを煩わせることはない。デュマーなら私が迎えに行って、そのまま三城へ行く。蓮の荷物は?」

 家政婦長の窪井は伊吹よりずっと年上のベータ女性だが、伊吹が自分に丁寧語で話すことを断固として拒否する。最初のうちは慣れなかったが、厳格な口調で何度も指摘されるうちに伊吹もためらいが消えた。たかだか一、二年でこうなるのだから、生まれながらにこんな環境にいた蓮は推して知るべしだ、とこのごろはよく思う。

「お詰めしてございます。伊吹様のご用意はいかがいたしましょう」
「ありがとう。私はけっこうだ」

 明日は伊吹の祖父、三城伊月の七回忌だ。両親とは宮久保家の正月行事で顔を合わせているが、伊吹が実家に帰るのは昨年の盆以来で、蓮を伴って帰ったのはさらに前のことだ。
 とはいえ伊吹は実家にたいして愛着もないし、両親は伊吹よりも蓮に会うのを待ち望んでいるだろう。何しろ蓮は、窮地に陥っていた彼らを救った宮久保家の王子様である。いつだって下にも置かない歓待をする。

「ああ、窪井さん」ふと思い出して伊吹はいった。
「私の書斎は頼んだとき以外掃除しなくていい。前も話したと思うが、みどりさんに伝わっていなかったようだ」
 日々の清掃や給仕など、こまごまとした雑用を担当する家政婦の名前を出すと、窪井は一瞬眉をあげ、それから丁寧に頭を下げた。

「大変申し訳ございませんでした。連絡を徹底するようにいたします」
「そんなに頭を下げることではないよ。いつもありがとう。昼食をいただこう」
「ダイニングにご用意してございます」

 隣のダイニングルームに入ると、大きなテーブルにはひとり分のランチがセッティングされていた。宮久保家では、他の家族全員と顔をあわせての食事のは月に二回、当主がきめた夕食の日だけだ。平日なら朝食のとき、蓮の姉たち――葵と志野――に顔を合わせることもあるが、土曜ともなればどこで何をしているのかまったくわからない。
 伊吹は結婚する前からひとりの食事に慣れていた。とはいえ昼間の宮久保家には家政婦をはじめとした使用人の目がどこかにあって、完全にひとりにされることはない。スープも主菜の魚も運ばれたばかりで温かかった。コーヒーはポットに用意されている。

 蓮はハウス・デュマーのアフタヌーンティーといったか。
 ハウス・デュマーは名族御用達の〈ハウス〉で、贅沢なレストランやカフェが併設されている。〈ハウス〉といえばアルファとオメガだけの出会いの場所だが、デュマーは選ばれた者だけの特別な施設で、会員になるために紹介や審査を必要とする。もちろん蓮は会員だが、伊吹は蓮の婿候補として宮久保家に選ばれなければ、足を踏み入れることもなかっただろう。

 伊吹が最初に蓮と引きあわされたのはハウス・デュマーだった。紹介者をまじえて見合いのようなことをして、会員証もいつのまにか作られていた。とはいえ、結婚前も結婚後も、ここで蓮といわゆる「デート」をしたことは一度もないし、伊吹ひとりで行ったこともない。しかし蓮はハウス・デュマーのカフェが気に入っているらしく、アルファの姉たちと時々出かけているのは知っていた。

 ハウス・デュマーほど特別なところではない、よくある〈ハウス〉なら、伊吹も祖父が亡くなる前は、友人に誘われて時々行ったものだ。祖父が亡くならなければ、さらに蓮と結婚しなければ、他のオメガと出会うこともあっただろうか?
 そう思ったとたん頭に浮かんだのは七星の顔で、伊吹はあわてて夢想を振り払った。それなのに、ポットからコーヒーを注いでいると今度は〈ユーヤ〉のカフェを思い出した。

 あそこに立ち寄るのをやめたとたん、伊吹の日常は四月とはうってかわって空虚になってしまった。けっして暇だったわけではない。余計なことを考えないために仕事に注力したせいか、一週間がすぎるのはむしろ早かった。
 それでも伊吹にとって、これは以前と何ひとつ変わらぬ日常である。四月がイレギュラーだっただけだ。




「ハウスって、ここ……?」
「来たことない?」
 宮久保蓮が平然とのたまったのに、七星は無言でうなずくしかなかった。
「心配しなくていいよ。今日のうちに七星の会員カードもらえるようにするから」
「会員カード?」
「ハウス・デュマーは審査制だからさ。いちいちビジター登録するのも面倒でしょ?」

 洒落た服をきた美貌のオメガは七星の途惑いにはまったく無頓着な様子にいいはなつ。運転手が車のドアをあけ、蓮のあとについて出ると、すぐそこにあるのは中世の城か宮殿を思わせる木の扉だった。重厚で背が高く、真鍮の箍が嵌っていて、中央でノッカーが鈍く光っている。
 蓮が前に立ったとたん、扉はひとりでに開いた。
「いらっしゃいませ、蓮様」

 暖かみのある声が響いたのに、誰の姿もみえない。そこはどこかのお屋敷の玄関ホールといった様子で、六角形のスペースの中央に無人のカウンターがある。蓮は平気な顔でカウンターのスキャナに黒いカードをかざし、そのまま宙に話しかけた。

「今日は友達を連れてきたんだ。七星、IDスキャンして」
「あ、うん」

 七星はあわてて財布をひっぱり出した。初めての〈ハウス〉では三性を確認するためにIDを求められるのが普通だ。アルファかオメガでなければ〈ハウス〉は利用できない。スキャナーがグリーンに光ると、隣のスロットにリストバンドが滑り出してくる。
「帰るときまでに七星の会員カードも作ってもらえる? ビジター登録がなくても、僕の紹介なら問題ないよね?」
「もちろんです。かしこまりました」 

 蓮はリストバンドをさっと手首に嵌め、堂々とした身ごなしでつきあたりの扉へ向かった。七星もリストバンドを取って追いかけたが、蓮のスマートな背中のうしろにいると自分の野暮ったさがどうしても気になった。扉はまた自動で開き、広く明るい廊下があらわれる。蓮の足は中庭に面したカフェに向かっていた。

 先々週の金曜、突然ユーヤを見学に来た蓮が七星にメールを送ってきたのは今週の水曜である。土曜の午後にアフタヌーンティーに行かないかという誘いだった。
 たしかにあの日、蓮は別れぎわになにかいっていたが、まさか本気だとは思わなかった。困惑しながら魚居と祥子に相談したら、ふたりはそろって爆笑し、七星の土曜午後のシフトをあっさり免除した。

「でも僕、ほんと意味がわからないです」
 七星はほとんど途方にくれてぼやいたが、魚居はどうみても他人事の顔で「お茶に誘ってくるなんて、ずいぶん上品だな。王子様はほんとうに友達が欲しいんじゃないか? 七星が嫌なら断ればいい」といった。さらに祥子はメールの文面をみつめて「断るなんてもったいない。せっかく王子様に見初められたわけだし」といったものだ。
「見初められたって、僕も向こうもオメガですよ」
「でも名族の御曹司のお誘いなのよ。きっと一見さんお断りの店――っていうかこれ、デュマーのカフェじゃない!」
 メールに添えられたウェブサイトのリンクに声を大きくしたから、七星はきょとんとして聞き返した。

「デュマーって?」
「紹介者がいないと入れないハウス。いいとこのアルファしか来ないってところよ。聞いたことない?」
「僕、学生結婚だったからその手の噂、疎くて……」
「いいじゃない、七星。宮久保家の王子とお茶したついでに破格の出会いがあるかもしれないし」
「祥子さん、冗談きついですよ。それに車で迎えに来るっていうんですよ?」
「いいじゃないか、来てもらえば」魚居が片目をつぶっていった。
「なにしろ彼は〈プラウ〉の理事長だ。参考になりそうな話を聞いたら教えて」

 そんなわけで七星は蓮と同じテーブルに座っている。ガラス越しに中庭の緑が眩しく、運ばれてきた三段トレイには宝石のようなケーキと軽食が並んでいる。
「本日のテーマは『五月の森で小鳥がみていた』となっております。フィンランド民謡の歌詞からとったもので、緑が濃くなる森の中、野苺摘みをするイメージでございます」

 ベータのウェイターが丁寧に説明するのを七星はかしこまって聞いてしまったが、蓮はろくにみてもいない。だが白い磁器のカップをもちあげる所作はきまっている。
「ここのアフタヌーンティーは二カ月おきにテーマが変わるんだ。アルファの姉とたまに来るけど、七星みたいなオメガと一緒に来るの、初めてだ」

 蓮があまりにも感慨ぶかげにいったので、七星は驚くのを通り越してすこし呆れ、思わず「そんなに周りにオメガがいない?」と聞いてしまった。
「もちろん全体からみれば少数派だけど、大学のときは自然と知りあいになったりとか……」
 蓮はカップを置き、顔の横で人差し指を振った。

「大学ではアルファはたくさんいたけどオメガはいなかったよ。七星はオメガの同級生っていた? ハウスに遊びに行ったりさ」
「何人かは。一緒にハウスに行くことはなかったけど」
「なぜ? 楽しそうなのにさ。そういうドラマよくあるじゃない。ちょっとうらやましかったんだよね。僕の家はアルファ家系で、周りにはほんとうに同世代のオメガがいなくて」
「でも中高生はともかく、大学ならオメガだけのサークルなんかもあって、勧誘がきたりするんじゃ……」
「勧誘? そんなのなかったよ」

 小首をかしげた蓮が話したのは七星には驚くべき「箱入りオメガ」の実録話だった。キャンパスまでの時間通りの送り迎えはもちろん、特別な許可をとった護衛役が講義室の外で待機していたとか、話しかけてくるアルファやベータは親が許可した者だけ、などという話を蓮は当たり前のように連発したので、なるほど、これではサークル勧誘などあるはずがないと七星は納得した。

「直系親族にもオメガが全然いないから、すごく過保護なんだ」
 蓮は照れくさそうにいった。
「おかげで常識がないって武流によくいわれたし、今もいわれる。ハウスもここしか知らないし、大学の頃は姉以外のアルファとデュマーに来るときはだいたいお見合いだったからさ。結婚したらそれもなくなるしね。そうそう、ここ、夜はバーやダンスフロアもあるから、武流も来れるなら楽しいと思うけど、彼はベータだからね」
「でも結婚したのなら、旦那さんと来ればいいんじゃ」

 何気なくいったのだが、とたんに蓮は奇妙な目つきで七星をみて、花開くように笑った。なぜか馬鹿にされたような気がした。
「ああ、夫――つがいはね、いるけど――要するにつがいがいないと、僕らどうにもならないじゃない? だからまあしょうがないよね。そうそう、七星はどうなの?」
 どうって、何が? 突然自分に返ってきた質問を、七星はスコーンを口に放りこむことで先延ばしした。

「僕は――大学に入った時はつがいがいたから、ハウスに行くことはあまりなくて」
「え、七星ってそうなの? シングルだと思ってた」
「あ、今は独身みたいなもの――っていうか独身です」
 蓮の手がとまる。
「じゃあ、その時の人とはつがいを解消したの?」
「あ、うん。まあ……」

 七星は言葉を濁した。よく知りもしない、しかも同い年のオメガに、夫が死んだなどといいたくなかった。どうやら蓮はそんな七星に多少は何かを察してくれたらしい。

「もし必要なら知りあいのアルファを紹介するよ。武流――従兄を通してけっこう知りあっててね。ほら、結婚したオメガにアルファは興味ないから、七星みたいにシングルのオメガに会えると喜ぶからさ」
 七星は曖昧に笑った。
「ありがとう。でも今はその気になれないからいいよ」
「従兄は広告会社のシニアディレクターでさ、いろんな界隈に顔が広いんだ」

 そのあとはマーケティングとアート、エンタメ業界のトレンド、それに商業演劇の話題になった。総じて蓮が「従兄から聞いた」という話で、ユーヤのような助成金頼みのNPOとは予算規模も観客もほぼ縁がない。でも前の話題よりはずっとましだった。

 王子様はほんとうに友達がほしいんじゃないか――魚居がいったことはひょっとしてマジなのかもしれない。しだいに七星がそう思うようになったのは、適当に合いの手を入れているだけなのに蓮がやけに嬉しそうだったからだ。ケーキをつまむだけでキラキラしたエフェクトが飛ぶような人間が嬉しそうに笑うのをみるのはそんなに悪いものでもない。

 初対面のときはそれと知らずアルコールを飲まされてしまったせいで、蓮の印象はよくなかった。だが三段トレイが空になるころにはそれも和らいでいた。きっと周囲の視線のせいもあっただろう。七星はただの庶民なのに、蓮と話しているだけで特別な人間のように周囲がみるのだ。

 蓮がどうして七星を気に入ったのかはいまだによくわからなかったが、悪い気分ではなかった。こういうのも自分が凡人の証拠なのだろう、と七星は思った。三性のうち、アルファはベータのなかにいてもきわだつ何かを持っているのが常だが、オメガはそうとはかぎらない。

 もちろんアルファはつがいの相手になりうるという意味でオメガを見分けるが、それは他とくらべて優れているところがあるから、という話ではない。オメガの中には蓮のように、生来の美貌とオメガ性の魅力が合わさってひとめを惹く人もいる。それにオメガのアーティストは、七星の母の未来のように、オメガゆえの個性もあるといわれたりもする。
 でも七星はアーティストではないし、見た目だって、悪い方ではないにせよ、蓮のようなオメガと並ぶとおよそ個性がなくなる。

 死んだ夫、彰はそれでいいのだ、といった――少なくとも結婚した時は。でもだんだん、それだけではつまらなくなったようだった。

 テーブルに黒服がやってきてうやうやしく礼をしたのは、二度お代わりした紅茶がなくなったころだ。
「蓮様、お迎えが参りました」
「え、もう?」
「十五時でございます」
 蓮はスマホをみて苛立たしげな顔になったが、さっとひっこめて七星をみた。
「残念だが時間だ。いろいろ話せて楽しかったよ」

 会計は当然のように蓮がもって、というより、七星にはいつのまにどうやって会計が処理されたのかもわからなかった。カフェを出て出入口に向かいながら、蓮は当然のように「七星、帰りはどこまで送ろうか?」とたずねた。
「良ければ家まで送るよ。迎えが来てるから」

 毒を食らわば皿まで、というのではないが、別世界のオメガにここまでつきあったのだ。このさいだから送ってもらおうと七星は思った。
 しかしそれも、香りが鼻をつくまでのことだ。

「伊吹、三城家に行く前に彼を送ってくれる?」
 そのとき蓮の言葉がほとんど耳に入らなかったのも香りのせいだ。

 間違えようがなかったし、幻でもなかった。七星を縛りつけて離さない蜜の香りが――その元凶が蓮の前に立っている。



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