上 下
19 / 56
第3章 八十八夜

1.初夏の流星

しおりを挟む
「へえ、ニュージーランド行ったんですか。いいですねえ。どうでした?」
「楽しかったですよ。気候もよくて気持ちよかったです」
「ですよねえ。いいなあ、俺もこの足さえどうにかなれば」
 ユーヤのカフェの片隅でマツがうらめしそうな声をあげ、向かいに座ったアーティストが笑った。七星はテーブルにコーヒーの紙コップを置き、テーブルに立てかけられたマツの杖を倒れないようにずらした。
「マツさん、無茶しちゃだめですよ」
「うん、コーヒーありがとう」

 ふたりは夏の企画の打ち合わせをしているところだ。骨折で入院したマツがユーヤに復帰したのはゴールデンウイークの最中である。もちろん完治はまだまだ先だ。
「南半球は秋ですよね?」
「昼間はちょうどいいくらいでしたね。夜はかなり寒かったので、日本に帰ったら暑くて。そうそう、流れ星たくさんみましたよ。なんとか流星群……みずがめ座だったかな」
「流星群って夏か冬に来るものだと思ってましたよ」
「あ、南半球じゃないと見られないってやつかも」

 七星はカウンターにトレイを戻した。五月からアルバイトを増やし、七星がカフェ当番に立つことはなくなったから、これは杖をついているマツへのフォローである。残念ながら〈ユーヤ〉はバリアフリーからほど遠い。エレベーターもないし階段も急なのだ。

 五月八日、月曜日の午後四時。ゴールデンウイークがおわって街はいつもの平日になり、連休のあいだ演劇公演やイベントでにぎわっていた〈ユーヤ〉も今日は平常運転に戻った。
 しかしひとの心は機械のように簡単に切り替えられるとはかぎらない。そしてゴールデンウイークのあいだに心が乱れる出来事が起きたのは、七星ひとりにかぎらないらしい。

 事務所のドアを開けたとたん「私は納得してないからね!」と非難する声がきこえた。壁の前で魚居と祥子が睨みあっている。
「どうしてそんな大事なこと、勝手に決めようとするわけ?」
「私は勝手に決めてない。何年も前から話していたし、一緒に検査も受けたじゃない。むしろ祥子がこれまで本気で考えてなかった理由がわからない」

 七星は中に入らずにドアを閉めた。どうやら五月のはじめにユーヤ主宰の魚居とパートナーの祥子のあいだで何かあったらしい。昨日は観客が大勢いたせいかこんな口論はおきなかったが、そもそも七星はこれまで、このカップルが争うところを見たことがなかった。いったい何が起きたのだろう?

 数呼吸おいてドアがひらいた。申し訳なさそうな表情の祥子が「七星くん、入って」といった。魚居はジャケットを羽織っている。
「頭を冷やしてくる」
 きっぱりと歩いて行ったアルファの背中をみつめながら、祥子がぱたんとドアを閉めた。
「ごめんね、嫌なものみせちゃって。こんなこと二度しないから」
「あ、いえ……」
 七星はあやふやにこたえたが、祥子はすっと背筋をのばした。
「連休も終わったし、切り替えないとね。七星くんも元気出して」
「僕ですか?」
「五月になってからしょんぼりしてたじゃない。三城さん来なかったしね」
「は? 何いってるんですか?」

 思わず声が大きくなったが、祥子はしてやったりというような笑みを浮かべただけだ。
「だって七星くんに新しい友だちができたの久しぶりでしょう?」
「三城さんは単なるお客さんですよ」
「でも七星くんが楽しそうにしてるのひさしぶりに見たし、五月になったとたん元気なくなったでしょ? あ、変な誤解してないわよ? 連休も明けたし、きっと今週は会えるわよ」

 どきっとした。人間は顔に出さなくても匂いであたりに気分をふりまいている。七星も祥子もオメガだからそんな匂いには敏感だ。
「ぼ、僕、下の様子見てきます!」
 七星そのままきびすを返し、急な階段を駆け下りた。

 四月末、伊吹が七星の家を出て行ったあと、新しいことは何も起きなかった。アフターピルもすぐに届き、七星の体調にも変わったことはない。伊吹からは何の連絡もなかった。
 それでいいのだと七星にはわかっていた。つまり、最悪のことは起きなかったというわけだ。七星は妊娠していないし、伊吹は七星を噛んでいない。仮に伊吹から連絡がきても七星は返事に困っただろう。

 あのあとでひとつだけ迷ったことがあった。伊吹の服をどうすればいいか、である。スーツとワイシャツはクリーニングに出して、他のものは洗濯した。メールアドレスも電話番号も教えてもらっていたし、送り先を聞いて返すこともできたが、結局七星は何もしなかった。

 あの日起きたことはいわば間違いなのだから、なかったことにして忘れてしまうのが一番いい――そう七星は思いこもうとしたのだ。「間違い」がなぜ起きたのかは考えない。適合チェックの試験紙もゴミに出して捨てた。捨てる前にこわごわもう一度中をみたが、時間が経っても中央の線は消えておらず、くすんだ朱色になっていた。

 いろいろ、埒もない想像もした。もし伊吹が独身のアルファだったら〈ハウス〉で会って、一夜だけ過ごすこともありえたとか。誰ともつがいにならず、ヒートの時だけハウスへ行くオメガはけっこういるというし、出会ったアルファと何をしようが非難はされない。十代で彰とつがいになった七星はこういう出会いに縁がながったが、彰がいない今は七星もヒートのやり過ごし方を考え直すべきかもしれない。
 とはいっても、こうやってあれこれ考えたところで起きてしまったことは変えられなかった。

 祥子はああいったが、七星は伊吹が二度と〈ユーヤ〉にあらわれないと思っていた。メンバーズの会費やコーヒーチケット代を惜しむ人には見えない。だいたいあんなことがなかったとしても、ゴールデンウイークに家族のいる人が職場近くのカフェに来る理由はない。伊吹が〈ユーヤ〉をみつけたのは会社の近くに喫茶店がないからだといっていた。

 ところが頭ではそう思っていても、この一週間というもの、七星はともすると客の中に伊吹の顔を探してしまっていた。きっとこれが祥子にバレていたのだろう。

 でもこれだって変な話なのだ。伊吹が近くにいれば、七星は顔を見る前にそれとわかるのだから。
 今思うと最初からそうだった。あの香りは香水ではなかった。

 七星は〈運命のつがい〉という言葉をできるだけ頭に浮かべないようにしていた。クリーニングに出したにもかかわらず、戻って来たスーツに伊吹の香りを嗅いでしまうとか、洗濯した下着を捨てられなかったとか、そういうこともだ。他には? あの日の経験が特別だったとか? 彰と一緒にいたときも、ヒートの時にあんな風に……気持ちよかったことは一度もないとか?

 祥子は伊吹のことを「友だち」といった。伊吹が独身だったらこんなことはいわなかっただろう。彼女くらいの年齢のオメガは、七星の年頃よりもつがいのいるアルファがはっきりわかるという。母親の未来も同じようなことをいっていた。何年も交渉がなく、つがいを解消したカップルも何となくわかるらしい。祥子が「誤解はしていない」といったのもそのせいだ。それなのに祥子は伊吹の香り――七星にとって唯一の香りにはちっとも気づいていない。

 今日の〈ユーヤ〉は静かだった。今週は展示もイベントも入っていない。七星は終了した企画のフライヤーを片づけ、一階のギャラリーのドアをあけた。ここも今日は搬出日である。鮮やかなオレンジ色が印象的な大きめの抽象画に、黄緑と水色にぬりわけられた彫刻作品が保護シートの上に並べられている。
 作家はもう七十を越えていて、二十年ちかく定期的にここで個展をひらいていた。『流れ星をひろう』と題されたシリーズ、金平糖か星のかけらを連想させる小さな彫刻作品にはみな売約済みの印がついている。
「これ人気あるんだよねえ」作家はのんびりした口調でいった。「ロマンチックなのは若い人も好きだね」

 梱包を手伝いながら、七星はふと、秋にユーヤが移転したら――まだ行先は決まっていないにしても――このギャラリーの常連はどうするのだろうかと思った。無事移転できたとしても、同じようなギャラリーを運営できるとはかぎらない。〈プラウ〉には貸ギャラリーがあっただろうか。
「今年も世話になったね。どうもありがとう」
「いえ。車まで運びますよ」

 まだ五月だというのに、晴れた昼間は簡単に夏日の気温になってしまう。それでも夕方は涼しく、ジャケットなしでいるのも心もとない気温だ。七星はシャツの袖をひっぱった。この何日か、手持ち無沙汰になるとすぐ伊吹のことを考えてしまうのが嫌だった。これ以上何もないとわかっているのに――そう決めているのに、どうして思いきれないのだろう。

 あの人に何かしてほしいわけじゃない。このまえ起きたことについて話し合いたいとも思わない。ただ目の前にあの人がいて、どうでもいい話、他愛もない話をしたい。
 たったそれだけだったのに、四月はずっと寂しくなかった。

 スマホをたしかめると五時半をすぎていた。七星はユーヤの表口にもどり、風で斜めになった看板を元に戻した。重いドアを押し開けたとき、ふと甘い香りを嗅いだような気がした。ぎくりとしてふりむく。歩道には誰もいなかった。

 幻聴みたいに幻の匂いを感じることもあるんだろうか?
 七星は首をすくめてユーヤの中にすべりこみ、階段を駆け上がった。



しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

幸せな復讐

志生帆 海
BL
お前の結婚式前夜……僕たちは最後の儀式のように身体を重ねた。 明日から別々の人生を歩むことを受け入れたのは、僕の方だった。 だから最後に一生忘れない程、激しく深く抱き合ったことを後悔していない。 でも僕はこれからどうやって生きて行けばいい。 君に捨てられた僕の恋の行方は…… それぞれの新生活を意識して書きました。 よろしくお願いします。 fujossyさんの新生活コンテスト応募作品の転載です。

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版)

【完結】あなたの恋人(Ω)になれますか?〜後天性オメガの僕〜

MEIKO
BL
この世界には3つの性がある。アルファ、ベータ、オメガ。その中でもオメガは希少な存在で。そのオメガで更に希少なのは┉僕、後天性オメガだ。ある瞬間、僕は恋をした!その人はアルファでオメガに対して強い拒否感を抱いている┉そんな人だった。もちろん僕をあなたの恋人(Ω)になんてしてくれませんよね? 前作「あなたの妻(Ω)辞めます!」スピンオフ作品です。こちら単独でも内容的には大丈夫です。でも両方読む方がより楽しんでいただけると思いますので、未読の方はそちらも読んでいただけると嬉しいです! 後天性オメガの平凡受け✕心に傷ありアルファの恋愛 ※独自のオメガバース設定有り

オメガバース 悲しい運命なら僕はいらない

潮 雨花
BL
魂の番に捨てられたオメガの氷見華月は、魂の番と死別した幼馴染でアルファの如月帝一と共に暮らしている。 いずれはこの人の番になるのだろう……華月はそう思っていた。 そんなある日、帝一の弟であり華月を捨てたアルファ・如月皇司の婚約が知らされる。 一度は想い合っていた皇司の婚約に、華月は――。 たとえ想い合っていても、魂の番であったとしても、それは悲しい運命の始まりかもしれない。 アルファで茶道の家元の次期当主と、オメガで華道の家元で蔑まれてきた青年の、切ないブルジョア・ラブ・ストーリー

ふしだらオメガ王子の嫁入り

金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか? お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

初心者オメガは執着アルファの腕のなか

深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。 オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。 オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。 穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

処理中です...