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第3章 八十八夜
1.初夏の流星
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「へえ、ニュージーランド行ったんですか。いいですねえ。どうでした?」
「楽しかったですよ。気候もよくて気持ちよかったです」
「ですよねえ。いいなあ、俺もこの足さえどうにかなれば」
ユーヤのカフェの片隅でマツがうらめしそうな声をあげ、向かいに座ったアーティストが笑った。七星はテーブルにコーヒーの紙コップを置き、テーブルに立てかけられたマツの杖を倒れないようにずらした。
「マツさん、無茶しちゃだめですよ」
「うん、コーヒーありがとう」
ふたりは夏の企画の打ち合わせをしているところだ。骨折で入院したマツがユーヤに復帰したのはゴールデンウイークの最中である。もちろん完治はまだまだ先だ。
「南半球は秋ですよね?」
「昼間はちょうどいいくらいでしたね。夜はかなり寒かったので、日本に帰ったら暑くて。そうそう、流れ星たくさんみましたよ。なんとか流星群……みずがめ座だったかな」
「流星群って夏か冬に来るものだと思ってましたよ」
「あ、南半球じゃないと見られないってやつかも」
七星はカウンターにトレイを戻した。五月からアルバイトを増やし、七星がカフェ当番に立つことはなくなったから、これは杖をついているマツへのフォローである。残念ながら〈ユーヤ〉はバリアフリーからほど遠い。エレベーターもないし階段も急なのだ。
五月八日、月曜日の午後四時。ゴールデンウイークがおわって街はいつもの平日になり、連休のあいだ演劇公演やイベントでにぎわっていた〈ユーヤ〉も今日は平常運転に戻った。
しかしひとの心は機械のように簡単に切り替えられるとはかぎらない。そしてゴールデンウイークのあいだに心が乱れる出来事が起きたのは、七星ひとりにかぎらないらしい。
事務所のドアを開けたとたん「私は納得してないからね!」と非難する声がきこえた。壁の前で魚居と祥子が睨みあっている。
「どうしてそんな大事なこと、勝手に決めようとするわけ?」
「私は勝手に決めてない。何年も前から話していたし、一緒に検査も受けたじゃない。むしろ祥子がこれまで本気で考えてなかった理由がわからない」
七星は中に入らずにドアを閉めた。どうやら五月のはじめにユーヤ主宰の魚居とパートナーの祥子のあいだで何かあったらしい。昨日は観客が大勢いたせいかこんな口論はおきなかったが、そもそも七星はこれまで、このカップルが争うところを見たことがなかった。いったい何が起きたのだろう?
数呼吸おいてドアがひらいた。申し訳なさそうな表情の祥子が「七星くん、入って」といった。魚居はジャケットを羽織っている。
「頭を冷やしてくる」
きっぱりと歩いて行ったアルファの背中をみつめながら、祥子がぱたんとドアを閉めた。
「ごめんね、嫌なものみせちゃって。こんなこと二度しないから」
「あ、いえ……」
七星はあやふやにこたえたが、祥子はすっと背筋をのばした。
「連休も終わったし、切り替えないとね。七星くんも元気出して」
「僕ですか?」
「五月になってからしょんぼりしてたじゃない。三城さん来なかったしね」
「は? 何いってるんですか?」
思わず声が大きくなったが、祥子はしてやったりというような笑みを浮かべただけだ。
「だって七星くんに新しい友だちができたの久しぶりでしょう?」
「三城さんは単なるお客さんですよ」
「でも七星くんが楽しそうにしてるのひさしぶりに見たし、五月になったとたん元気なくなったでしょ? あ、変な誤解してないわよ? 連休も明けたし、きっと今週は会えるわよ」
どきっとした。人間は顔に出さなくても匂いであたりに気分をふりまいている。七星も祥子もオメガだからそんな匂いには敏感だ。
「ぼ、僕、下の様子見てきます!」
七星そのままきびすを返し、急な階段を駆け下りた。
四月末、伊吹が七星の家を出て行ったあと、新しいことは何も起きなかった。アフターピルもすぐに届き、七星の体調にも変わったことはない。伊吹からは何の連絡もなかった。
それでいいのだと七星にはわかっていた。つまり、最悪のことは起きなかったというわけだ。七星は妊娠していないし、伊吹は七星を噛んでいない。仮に伊吹から連絡がきても七星は返事に困っただろう。
あのあとでひとつだけ迷ったことがあった。伊吹の服をどうすればいいか、である。スーツとワイシャツはクリーニングに出して、他のものは洗濯した。メールアドレスも電話番号も教えてもらっていたし、送り先を聞いて返すこともできたが、結局七星は何もしなかった。
あの日起きたことはいわば間違いなのだから、なかったことにして忘れてしまうのが一番いい――そう七星は思いこもうとしたのだ。「間違い」がなぜ起きたのかは考えない。適合チェックの試験紙もゴミに出して捨てた。捨てる前にこわごわもう一度中をみたが、時間が経っても中央の線は消えておらず、くすんだ朱色になっていた。
いろいろ、埒もない想像もした。もし伊吹が独身のアルファだったら〈ハウス〉で会って、一夜だけ過ごすこともありえたとか。誰ともつがいにならず、ヒートの時だけハウスへ行くオメガはけっこういるというし、出会ったアルファと何をしようが非難はされない。十代で彰とつがいになった七星はこういう出会いに縁がながったが、彰がいない今は七星もヒートのやり過ごし方を考え直すべきかもしれない。
とはいっても、こうやってあれこれ考えたところで起きてしまったことは変えられなかった。
祥子はああいったが、七星は伊吹が二度と〈ユーヤ〉にあらわれないと思っていた。メンバーズの会費やコーヒーチケット代を惜しむ人には見えない。だいたいあんなことがなかったとしても、ゴールデンウイークに家族のいる人が職場近くのカフェに来る理由はない。伊吹が〈ユーヤ〉をみつけたのは会社の近くに喫茶店がないからだといっていた。
ところが頭ではそう思っていても、この一週間というもの、七星はともすると客の中に伊吹の顔を探してしまっていた。きっとこれが祥子にバレていたのだろう。
でもこれだって変な話なのだ。伊吹が近くにいれば、七星は顔を見る前にそれとわかるのだから。
今思うと最初からそうだった。あの香りは香水ではなかった。
七星は〈運命のつがい〉という言葉をできるだけ頭に浮かべないようにしていた。クリーニングに出したにもかかわらず、戻って来たスーツに伊吹の香りを嗅いでしまうとか、洗濯した下着を捨てられなかったとか、そういうこともだ。他には? あの日の経験が特別だったとか? 彰と一緒にいたときも、ヒートの時にあんな風に……気持ちよかったことは一度もないとか?
祥子は伊吹のことを「友だち」といった。伊吹が独身だったらこんなことはいわなかっただろう。彼女くらいの年齢のオメガは、七星の年頃よりもつがいのいるアルファがはっきりわかるという。母親の未来も同じようなことをいっていた。何年も交渉がなく、つがいを解消したカップルも何となくわかるらしい。祥子が「誤解はしていない」といったのもそのせいだ。それなのに祥子は伊吹の香り――七星にとって唯一の香りにはちっとも気づいていない。
今日の〈ユーヤ〉は静かだった。今週は展示もイベントも入っていない。七星は終了した企画のフライヤーを片づけ、一階のギャラリーのドアをあけた。ここも今日は搬出日である。鮮やかなオレンジ色が印象的な大きめの抽象画に、黄緑と水色にぬりわけられた彫刻作品が保護シートの上に並べられている。
作家はもう七十を越えていて、二十年ちかく定期的にここで個展をひらいていた。『流れ星をひろう』と題されたシリーズ、金平糖か星のかけらを連想させる小さな彫刻作品にはみな売約済みの印がついている。
「これ人気あるんだよねえ」作家はのんびりした口調でいった。「ロマンチックなのは若い人も好きだね」
梱包を手伝いながら、七星はふと、秋にユーヤが移転したら――まだ行先は決まっていないにしても――このギャラリーの常連はどうするのだろうかと思った。無事移転できたとしても、同じようなギャラリーを運営できるとはかぎらない。〈プラウ〉には貸ギャラリーがあっただろうか。
「今年も世話になったね。どうもありがとう」
「いえ。車まで運びますよ」
まだ五月だというのに、晴れた昼間は簡単に夏日の気温になってしまう。それでも夕方は涼しく、ジャケットなしでいるのも心もとない気温だ。七星はシャツの袖をひっぱった。この何日か、手持ち無沙汰になるとすぐ伊吹のことを考えてしまうのが嫌だった。これ以上何もないとわかっているのに――そう決めているのに、どうして思いきれないのだろう。
あの人に何かしてほしいわけじゃない。このまえ起きたことについて話し合いたいとも思わない。ただ目の前にあの人がいて、どうでもいい話、他愛もない話をしたい。
たったそれだけだったのに、四月はずっと寂しくなかった。
スマホをたしかめると五時半をすぎていた。七星はユーヤの表口にもどり、風で斜めになった看板を元に戻した。重いドアを押し開けたとき、ふと甘い香りを嗅いだような気がした。ぎくりとしてふりむく。歩道には誰もいなかった。
幻聴みたいに幻の匂いを感じることもあるんだろうか?
七星は首をすくめてユーヤの中にすべりこみ、階段を駆け上がった。
「楽しかったですよ。気候もよくて気持ちよかったです」
「ですよねえ。いいなあ、俺もこの足さえどうにかなれば」
ユーヤのカフェの片隅でマツがうらめしそうな声をあげ、向かいに座ったアーティストが笑った。七星はテーブルにコーヒーの紙コップを置き、テーブルに立てかけられたマツの杖を倒れないようにずらした。
「マツさん、無茶しちゃだめですよ」
「うん、コーヒーありがとう」
ふたりは夏の企画の打ち合わせをしているところだ。骨折で入院したマツがユーヤに復帰したのはゴールデンウイークの最中である。もちろん完治はまだまだ先だ。
「南半球は秋ですよね?」
「昼間はちょうどいいくらいでしたね。夜はかなり寒かったので、日本に帰ったら暑くて。そうそう、流れ星たくさんみましたよ。なんとか流星群……みずがめ座だったかな」
「流星群って夏か冬に来るものだと思ってましたよ」
「あ、南半球じゃないと見られないってやつかも」
七星はカウンターにトレイを戻した。五月からアルバイトを増やし、七星がカフェ当番に立つことはなくなったから、これは杖をついているマツへのフォローである。残念ながら〈ユーヤ〉はバリアフリーからほど遠い。エレベーターもないし階段も急なのだ。
五月八日、月曜日の午後四時。ゴールデンウイークがおわって街はいつもの平日になり、連休のあいだ演劇公演やイベントでにぎわっていた〈ユーヤ〉も今日は平常運転に戻った。
しかしひとの心は機械のように簡単に切り替えられるとはかぎらない。そしてゴールデンウイークのあいだに心が乱れる出来事が起きたのは、七星ひとりにかぎらないらしい。
事務所のドアを開けたとたん「私は納得してないからね!」と非難する声がきこえた。壁の前で魚居と祥子が睨みあっている。
「どうしてそんな大事なこと、勝手に決めようとするわけ?」
「私は勝手に決めてない。何年も前から話していたし、一緒に検査も受けたじゃない。むしろ祥子がこれまで本気で考えてなかった理由がわからない」
七星は中に入らずにドアを閉めた。どうやら五月のはじめにユーヤ主宰の魚居とパートナーの祥子のあいだで何かあったらしい。昨日は観客が大勢いたせいかこんな口論はおきなかったが、そもそも七星はこれまで、このカップルが争うところを見たことがなかった。いったい何が起きたのだろう?
数呼吸おいてドアがひらいた。申し訳なさそうな表情の祥子が「七星くん、入って」といった。魚居はジャケットを羽織っている。
「頭を冷やしてくる」
きっぱりと歩いて行ったアルファの背中をみつめながら、祥子がぱたんとドアを閉めた。
「ごめんね、嫌なものみせちゃって。こんなこと二度しないから」
「あ、いえ……」
七星はあやふやにこたえたが、祥子はすっと背筋をのばした。
「連休も終わったし、切り替えないとね。七星くんも元気出して」
「僕ですか?」
「五月になってからしょんぼりしてたじゃない。三城さん来なかったしね」
「は? 何いってるんですか?」
思わず声が大きくなったが、祥子はしてやったりというような笑みを浮かべただけだ。
「だって七星くんに新しい友だちができたの久しぶりでしょう?」
「三城さんは単なるお客さんですよ」
「でも七星くんが楽しそうにしてるのひさしぶりに見たし、五月になったとたん元気なくなったでしょ? あ、変な誤解してないわよ? 連休も明けたし、きっと今週は会えるわよ」
どきっとした。人間は顔に出さなくても匂いであたりに気分をふりまいている。七星も祥子もオメガだからそんな匂いには敏感だ。
「ぼ、僕、下の様子見てきます!」
七星そのままきびすを返し、急な階段を駆け下りた。
四月末、伊吹が七星の家を出て行ったあと、新しいことは何も起きなかった。アフターピルもすぐに届き、七星の体調にも変わったことはない。伊吹からは何の連絡もなかった。
それでいいのだと七星にはわかっていた。つまり、最悪のことは起きなかったというわけだ。七星は妊娠していないし、伊吹は七星を噛んでいない。仮に伊吹から連絡がきても七星は返事に困っただろう。
あのあとでひとつだけ迷ったことがあった。伊吹の服をどうすればいいか、である。スーツとワイシャツはクリーニングに出して、他のものは洗濯した。メールアドレスも電話番号も教えてもらっていたし、送り先を聞いて返すこともできたが、結局七星は何もしなかった。
あの日起きたことはいわば間違いなのだから、なかったことにして忘れてしまうのが一番いい――そう七星は思いこもうとしたのだ。「間違い」がなぜ起きたのかは考えない。適合チェックの試験紙もゴミに出して捨てた。捨てる前にこわごわもう一度中をみたが、時間が経っても中央の線は消えておらず、くすんだ朱色になっていた。
いろいろ、埒もない想像もした。もし伊吹が独身のアルファだったら〈ハウス〉で会って、一夜だけ過ごすこともありえたとか。誰ともつがいにならず、ヒートの時だけハウスへ行くオメガはけっこういるというし、出会ったアルファと何をしようが非難はされない。十代で彰とつがいになった七星はこういう出会いに縁がながったが、彰がいない今は七星もヒートのやり過ごし方を考え直すべきかもしれない。
とはいっても、こうやってあれこれ考えたところで起きてしまったことは変えられなかった。
祥子はああいったが、七星は伊吹が二度と〈ユーヤ〉にあらわれないと思っていた。メンバーズの会費やコーヒーチケット代を惜しむ人には見えない。だいたいあんなことがなかったとしても、ゴールデンウイークに家族のいる人が職場近くのカフェに来る理由はない。伊吹が〈ユーヤ〉をみつけたのは会社の近くに喫茶店がないからだといっていた。
ところが頭ではそう思っていても、この一週間というもの、七星はともすると客の中に伊吹の顔を探してしまっていた。きっとこれが祥子にバレていたのだろう。
でもこれだって変な話なのだ。伊吹が近くにいれば、七星は顔を見る前にそれとわかるのだから。
今思うと最初からそうだった。あの香りは香水ではなかった。
七星は〈運命のつがい〉という言葉をできるだけ頭に浮かべないようにしていた。クリーニングに出したにもかかわらず、戻って来たスーツに伊吹の香りを嗅いでしまうとか、洗濯した下着を捨てられなかったとか、そういうこともだ。他には? あの日の経験が特別だったとか? 彰と一緒にいたときも、ヒートの時にあんな風に……気持ちよかったことは一度もないとか?
祥子は伊吹のことを「友だち」といった。伊吹が独身だったらこんなことはいわなかっただろう。彼女くらいの年齢のオメガは、七星の年頃よりもつがいのいるアルファがはっきりわかるという。母親の未来も同じようなことをいっていた。何年も交渉がなく、つがいを解消したカップルも何となくわかるらしい。祥子が「誤解はしていない」といったのもそのせいだ。それなのに祥子は伊吹の香り――七星にとって唯一の香りにはちっとも気づいていない。
今日の〈ユーヤ〉は静かだった。今週は展示もイベントも入っていない。七星は終了した企画のフライヤーを片づけ、一階のギャラリーのドアをあけた。ここも今日は搬出日である。鮮やかなオレンジ色が印象的な大きめの抽象画に、黄緑と水色にぬりわけられた彫刻作品が保護シートの上に並べられている。
作家はもう七十を越えていて、二十年ちかく定期的にここで個展をひらいていた。『流れ星をひろう』と題されたシリーズ、金平糖か星のかけらを連想させる小さな彫刻作品にはみな売約済みの印がついている。
「これ人気あるんだよねえ」作家はのんびりした口調でいった。「ロマンチックなのは若い人も好きだね」
梱包を手伝いながら、七星はふと、秋にユーヤが移転したら――まだ行先は決まっていないにしても――このギャラリーの常連はどうするのだろうかと思った。無事移転できたとしても、同じようなギャラリーを運営できるとはかぎらない。〈プラウ〉には貸ギャラリーがあっただろうか。
「今年も世話になったね。どうもありがとう」
「いえ。車まで運びますよ」
まだ五月だというのに、晴れた昼間は簡単に夏日の気温になってしまう。それでも夕方は涼しく、ジャケットなしでいるのも心もとない気温だ。七星はシャツの袖をひっぱった。この何日か、手持ち無沙汰になるとすぐ伊吹のことを考えてしまうのが嫌だった。これ以上何もないとわかっているのに――そう決めているのに、どうして思いきれないのだろう。
あの人に何かしてほしいわけじゃない。このまえ起きたことについて話し合いたいとも思わない。ただ目の前にあの人がいて、どうでもいい話、他愛もない話をしたい。
たったそれだけだったのに、四月はずっと寂しくなかった。
スマホをたしかめると五時半をすぎていた。七星はユーヤの表口にもどり、風で斜めになった看板を元に戻した。重いドアを押し開けたとき、ふと甘い香りを嗅いだような気がした。ぎくりとしてふりむく。歩道には誰もいなかった。
幻聴みたいに幻の匂いを感じることもあるんだろうか?
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