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第2章 獣交む
2.暗い連星
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「それでは、3、2、1の掛け声と共にテープカットを致します。一斉にテープにハサミをいれてください。……参ります。新創造アート・シティ、アートコンプレックス〈プラウ〉オープンです。3、2、1、どうぞ!」
金色のポールに渡された紅白のリボンの前で、蓮と他の来賓たちがハサミをひらめかせる。報道陣や記録係がひとしきりシャッター音を鳴らすと同時に拍手が湧きおこった。
「ありがとうございました。それでは以上をもちまして、式典を終了いたします。どうもありがとうございました」
また拍手が起きる。赤いカーペットの上で蓮は余裕の微笑みをうかべ、他の来賓と話している。伊吹はすこし離れたところからその様子を眺めていた。蓮をみつめているのは伊吹だけではなかった。そこだけ光が当たったように、妻の細い肢体と美貌は周囲から浮き上がってみえる。
「三城君、私はここで帰らせてもらうよ」
上司の高橋が伊吹に目を向けていった。
「本社に戻られますか?」
「いや、私用がある。奥方には始まる前にご挨拶したからこれで失礼する。あとはよろしく頼む」
「ご足労ありがとうございました。お疲れさまでした」
伊吹は礼をして高橋を見送った。土曜日というのもあっていつもよりゆったり過ごすつもりで出勤したのに、会場に直行すると聞いていた高橋の予定が変わった結果、意外に気ぜわしい一日になってしまった。ユーヤに立ち寄る時間はやはりなかった。
〈プラウ〉の正面をふりむくとエントランスに人々が吸いこまれていく。中庭に面したレストランでこのあと懇親会がはじまるのだ。ビジネススーツやドレッシーなワンピースの中にカジュアルな服装の男女がちらほら混じっている。招待状は財団関係者だけでなく、地元の商店街組合や学生、アーティストにも送られたという話だった。
伊吹は蓮に追いつこうと大股になった。横に並ぶと蓮は伊吹を横目でみた。
「遅いよ」
伊吹は軽くうなずいただけだ。蓮の指には伊吹と揃いの指輪が光っている。エントランスロビーの中央には銀色の彫刻が飾ってあり、人々はその周囲をぐるりとまわるように歩いて会場のレストランへ入っていく。
〈プラウ〉の大ホールはミザール、小ホールはアルコルと名付けられていた。ミザールは北斗七星の六番目の星で、アルコルはその連星だという。ミザールの横にアルコルが見えるか、というのが視力の判定に使われていた、という解説がパンフレットに書かれていた。
この施設は北斗七星をコンセプトに設計されていて、ホール以外のスタジオやギャラリーにも星の名前がつけられているらしい。大ホールのこけら落としは五月中旬にはじまるミュージカル公演だが、ギャラリーでは明日からグラフィックアーティスト、佐枝零の展覧会が一般公開される。
蓮は胸に来賓のリボンをつけたままだった。ふわりと馴染んだ香りが立つ。蓮の香水「パドマ」だ。伊吹も同じものを持っているが、蓮に追いついたとたん、今日はつけるのを忘れていたと思い出した。
かしこまった案内係が二人をレストランに導く。受付を待つ人の列の横をすました顔で通りすぎた蓮は、特別扱いに慣れていて眉も動かさない。バーコーナーとボックス席の先が立食スタイルのパーティ会場にしつらえられ、中庭に面したテラスにもクロスのかかったテーブルが並んでいる。
給仕がグラスの載った盆を差し出した。淡い金色に輝く液体に細かな気泡があがっている。蓮は躊躇せずグラスをとったが、伊吹は給仕に小声でたずねた。
「ノンアルコールは?」
「お待ちください」
給仕が別の盆を持って来るのを待っていると、蓮の視線がちらりと伊吹に流れた。
「乾杯のときくらいつきあえばいいのに」
「駐車場に車を停めてある」
分室から上司を乗せてここまで来たので、伊吹にしてみれば当然の答えだった。だが蓮はお気に召さなかったようだ。
「伊吹は乱れるって言葉を知らないからな」
小馬鹿にしたような口調だった。
「おかげで僕は肩がこる。車なんてどうにでもなるのに。ま、一般人の感覚が抜けないのは仕方ないか」
たしかにその通り。蓮を乗せてきた運転手は名族のスタッフ専用の控室に待機しているのだろうし、呼べば代行スタッフもすぐにあらわれるにちがいない。蓮と結婚してからというもの、伊吹はこれまで知らなかった「名族専用のきめ細やかなサービス」なるものにいたるところで接している。
伊吹はけっしてアルコールに弱いわけではない。だが外で飲むことはめったになかったし、どこだろうと蓮の前で酔ったことは一度もなく、蓮はそれが気に入らないのだった。
それに、移動をひとまかせにしないこと――いつでも自分の意思で動けるようにしておくことは、名族に婿入りした庶民のアルファである伊吹のひそかな矜持だったが、蓮にその意味はわからないにちがいない。
テラスの近くに固まっていた人々が蓮に目を向ける。いまの伊吹は名族に連なる人々をすぐに見分けることができた。たとえベータであっても、金のかかった服装や物腰に特有の雰囲気があるのが名族である。もちろん伊吹もいまや名族の一員だ。しかしいまだに自分が彼らの中に溶けこんでいるとは思えなかった。
蓮と結婚するまで、伊吹は学校や就職先で周囲の人々よりも抜きんでていた自覚がある。ところが宮久保家の一員となったとたん、伊吹は蓮という輝く星のすぐそばにいるだけの目立たない存在になった。
もろもろの事情があったとはいえみずから選んだことだ。ときおり虚しさを感じることはあっても、伊吹は後悔はしていなかった。第一、虚しいとは何事だと大学時代の旧友なら文句をいうかもしれなかった。なにしろこの場には蓮に触れることのできる伊吹を羨ましく思う人間も――名族であるかないかにかかわらず――何人もいておかしくないのだ。蓮は少年のころから崇拝者を何人も従えているタイプのオメガだった。
それでも蓮と伊吹がつがいであることはベータ以外の性には匂いでわかる。そしてベータであっても、伊吹を気にせず蓮に気安く近づく男は親族くらいである。
「間違わずにテープカットできたみたいだな」
その数少ない例外のひとり、蓮の従兄がいま人々のあいだをするりと抜けてやってきた。蓮の表情がぱっと明るくなった。
「ひどいよ武流。除幕式に間に合わなかったくせにそんなこというなんて」
姉たちには来なくていいといったのにベータの従兄はちがったらしい。だが唇を尖らせていても非難しているわけではなかった。
「パーティは間に合ったんだからいいだろう。これから始まるんだよな?」
武流は伊吹に目をやり、ライムソーダのグラスをみて眉をあげる。
「あいかわらず存在が希薄だぞ、伊吹。大丈夫か?」
「主役は蓮だからな」
「先に乾杯しようぜ。蓮、ほら」
武流がグラスをあげ、そのとたんふわりと漂った香水はまたも伊吹とおなじ香りだった。
『みなさま、おそろいになりましたでしょうか』
マイクのアナウンスが響き、この場にいる全員の注意が声の方向を探した。蓮が武流の横に並んだので伊吹はそっと後ろへ下がった。
いつのまにか会場は人でいっぱいになっていて、盆をさげた黒服の給仕がそのあいだを縫うように飲み物を配っていた。伊吹はなんとなくあたりを見回す。司会者が部屋の隅でマイクを握り、パーティ会場にはさまざまな服装をしたさまざまな顔があふれていたが、強い印象を与えるものはなにひとつなかった。名族のアルファたちや蓮の美しく整った顔でさえ、積みあげられたレンガのように他の顔の中に埋没して感じられる。みな、この社会をつくるパーツのひとつにすぎないのだ。
そんな虚しくなるだけの思考から意識を無理やり引き剥がそうとしたとき、甘い香りが伊吹の鼻をくすぐった。
――七星?
まさか。きっとただの錯覚だ。わずかな香りの気配はすぐに消え失せ、伊吹は勘違いをしたにちがいないと思った。だがそれも一瞬だった。またかすかに蜜が香った。
いったいどこから?
伊吹はライムソーダのグラスを握りしめ、香りの源を求めて目を泳がせた。
金色のポールに渡された紅白のリボンの前で、蓮と他の来賓たちがハサミをひらめかせる。報道陣や記録係がひとしきりシャッター音を鳴らすと同時に拍手が湧きおこった。
「ありがとうございました。それでは以上をもちまして、式典を終了いたします。どうもありがとうございました」
また拍手が起きる。赤いカーペットの上で蓮は余裕の微笑みをうかべ、他の来賓と話している。伊吹はすこし離れたところからその様子を眺めていた。蓮をみつめているのは伊吹だけではなかった。そこだけ光が当たったように、妻の細い肢体と美貌は周囲から浮き上がってみえる。
「三城君、私はここで帰らせてもらうよ」
上司の高橋が伊吹に目を向けていった。
「本社に戻られますか?」
「いや、私用がある。奥方には始まる前にご挨拶したからこれで失礼する。あとはよろしく頼む」
「ご足労ありがとうございました。お疲れさまでした」
伊吹は礼をして高橋を見送った。土曜日というのもあっていつもよりゆったり過ごすつもりで出勤したのに、会場に直行すると聞いていた高橋の予定が変わった結果、意外に気ぜわしい一日になってしまった。ユーヤに立ち寄る時間はやはりなかった。
〈プラウ〉の正面をふりむくとエントランスに人々が吸いこまれていく。中庭に面したレストランでこのあと懇親会がはじまるのだ。ビジネススーツやドレッシーなワンピースの中にカジュアルな服装の男女がちらほら混じっている。招待状は財団関係者だけでなく、地元の商店街組合や学生、アーティストにも送られたという話だった。
伊吹は蓮に追いつこうと大股になった。横に並ぶと蓮は伊吹を横目でみた。
「遅いよ」
伊吹は軽くうなずいただけだ。蓮の指には伊吹と揃いの指輪が光っている。エントランスロビーの中央には銀色の彫刻が飾ってあり、人々はその周囲をぐるりとまわるように歩いて会場のレストランへ入っていく。
〈プラウ〉の大ホールはミザール、小ホールはアルコルと名付けられていた。ミザールは北斗七星の六番目の星で、アルコルはその連星だという。ミザールの横にアルコルが見えるか、というのが視力の判定に使われていた、という解説がパンフレットに書かれていた。
この施設は北斗七星をコンセプトに設計されていて、ホール以外のスタジオやギャラリーにも星の名前がつけられているらしい。大ホールのこけら落としは五月中旬にはじまるミュージカル公演だが、ギャラリーでは明日からグラフィックアーティスト、佐枝零の展覧会が一般公開される。
蓮は胸に来賓のリボンをつけたままだった。ふわりと馴染んだ香りが立つ。蓮の香水「パドマ」だ。伊吹も同じものを持っているが、蓮に追いついたとたん、今日はつけるのを忘れていたと思い出した。
かしこまった案内係が二人をレストランに導く。受付を待つ人の列の横をすました顔で通りすぎた蓮は、特別扱いに慣れていて眉も動かさない。バーコーナーとボックス席の先が立食スタイルのパーティ会場にしつらえられ、中庭に面したテラスにもクロスのかかったテーブルが並んでいる。
給仕がグラスの載った盆を差し出した。淡い金色に輝く液体に細かな気泡があがっている。蓮は躊躇せずグラスをとったが、伊吹は給仕に小声でたずねた。
「ノンアルコールは?」
「お待ちください」
給仕が別の盆を持って来るのを待っていると、蓮の視線がちらりと伊吹に流れた。
「乾杯のときくらいつきあえばいいのに」
「駐車場に車を停めてある」
分室から上司を乗せてここまで来たので、伊吹にしてみれば当然の答えだった。だが蓮はお気に召さなかったようだ。
「伊吹は乱れるって言葉を知らないからな」
小馬鹿にしたような口調だった。
「おかげで僕は肩がこる。車なんてどうにでもなるのに。ま、一般人の感覚が抜けないのは仕方ないか」
たしかにその通り。蓮を乗せてきた運転手は名族のスタッフ専用の控室に待機しているのだろうし、呼べば代行スタッフもすぐにあらわれるにちがいない。蓮と結婚してからというもの、伊吹はこれまで知らなかった「名族専用のきめ細やかなサービス」なるものにいたるところで接している。
伊吹はけっしてアルコールに弱いわけではない。だが外で飲むことはめったになかったし、どこだろうと蓮の前で酔ったことは一度もなく、蓮はそれが気に入らないのだった。
それに、移動をひとまかせにしないこと――いつでも自分の意思で動けるようにしておくことは、名族に婿入りした庶民のアルファである伊吹のひそかな矜持だったが、蓮にその意味はわからないにちがいない。
テラスの近くに固まっていた人々が蓮に目を向ける。いまの伊吹は名族に連なる人々をすぐに見分けることができた。たとえベータであっても、金のかかった服装や物腰に特有の雰囲気があるのが名族である。もちろん伊吹もいまや名族の一員だ。しかしいまだに自分が彼らの中に溶けこんでいるとは思えなかった。
蓮と結婚するまで、伊吹は学校や就職先で周囲の人々よりも抜きんでていた自覚がある。ところが宮久保家の一員となったとたん、伊吹は蓮という輝く星のすぐそばにいるだけの目立たない存在になった。
もろもろの事情があったとはいえみずから選んだことだ。ときおり虚しさを感じることはあっても、伊吹は後悔はしていなかった。第一、虚しいとは何事だと大学時代の旧友なら文句をいうかもしれなかった。なにしろこの場には蓮に触れることのできる伊吹を羨ましく思う人間も――名族であるかないかにかかわらず――何人もいておかしくないのだ。蓮は少年のころから崇拝者を何人も従えているタイプのオメガだった。
それでも蓮と伊吹がつがいであることはベータ以外の性には匂いでわかる。そしてベータであっても、伊吹を気にせず蓮に気安く近づく男は親族くらいである。
「間違わずにテープカットできたみたいだな」
その数少ない例外のひとり、蓮の従兄がいま人々のあいだをするりと抜けてやってきた。蓮の表情がぱっと明るくなった。
「ひどいよ武流。除幕式に間に合わなかったくせにそんなこというなんて」
姉たちには来なくていいといったのにベータの従兄はちがったらしい。だが唇を尖らせていても非難しているわけではなかった。
「パーティは間に合ったんだからいいだろう。これから始まるんだよな?」
武流は伊吹に目をやり、ライムソーダのグラスをみて眉をあげる。
「あいかわらず存在が希薄だぞ、伊吹。大丈夫か?」
「主役は蓮だからな」
「先に乾杯しようぜ。蓮、ほら」
武流がグラスをあげ、そのとたんふわりと漂った香水はまたも伊吹とおなじ香りだった。
『みなさま、おそろいになりましたでしょうか』
マイクのアナウンスが響き、この場にいる全員の注意が声の方向を探した。蓮が武流の横に並んだので伊吹はそっと後ろへ下がった。
いつのまにか会場は人でいっぱいになっていて、盆をさげた黒服の給仕がそのあいだを縫うように飲み物を配っていた。伊吹はなんとなくあたりを見回す。司会者が部屋の隅でマイクを握り、パーティ会場にはさまざまな服装をしたさまざまな顔があふれていたが、強い印象を与えるものはなにひとつなかった。名族のアルファたちや蓮の美しく整った顔でさえ、積みあげられたレンガのように他の顔の中に埋没して感じられる。みな、この社会をつくるパーツのひとつにすぎないのだ。
そんな虚しくなるだけの思考から意識を無理やり引き剥がそうとしたとき、甘い香りが伊吹の鼻をくすぐった。
――七星?
まさか。きっとただの錯覚だ。わずかな香りの気配はすぐに消え失せ、伊吹は勘違いをしたにちがいないと思った。だがそれも一瞬だった。またかすかに蜜が香った。
いったいどこから?
伊吹はライムソーダのグラスを握りしめ、香りの源を求めて目を泳がせた。
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