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番外編&後日談
注文の多い贈り物(前編)
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**「新しくて古い庭」の直前の頃のエピソード**
アラームの音で眼をさましたつもりだった。
それなのにいつの間にか音は止んで、背中にくっついた温かいものが俺の体を支えている。ふわっと漂うような感覚にとらわれたまま、俺はぼんやりした頭で夢ともうつつともつかない状態で、まぶたの裏にきらきらした色を感じている。吐息が俺のうなじに触れ、耳のうしろをくすぐる。なじんだ匂いが俺の全身を包み、心の深いところから甘い安堵がわきあがる。
背後から俺を抱きよせる腕に身をまかせるうち、また眠くなってくる。Tシャツの上から胸や腹を撫でる手のひらが心地よい。その手が股間まで下がって、太腿に触れ、朝の自然な緊張で盛り上がった下着を上から覆う。俺がため息のような声をもらすと、耳元で「サエ」と囁かれる。
「ん……天……」
ぼうっとしたまま名前を呼んだものの、俺はまだ夢うつつだった。ゆるく前を押さえられたまま、別の指が布の上から俺の胸をこすっていく。腰に半分堅くなった熱が当たるのを感じながらゆるやかな快感に体をふるわせたとき、うなじに軽く歯を立てられて体が跳ねた。
「あ……天」
「おはよう、サエ」
藤野谷の吐息が耳の裏をくすぐる。俺は完全に眼をさまし――そしてアラームの理由を思い出した。慌てて時計を探す。
「今何時?」
「六時五分。まだ大丈夫――」
「しまった。急がないと」
俺はタオルケットをはねのけて起き上がる。藤野谷が横になったまま怪訝な表情で俺をみた。
「天はまだ寝てろよ。クライアントとネットで打ち合わせなんだ」
「こんな時間に?」
「時差のせいだ」
俺はTシャツを脱いで適当なシャツのボタンをとめ、髪を手でならす。
「なかなか本人たちと打ち合わせできなくてさ。俺の方が暇だから合わせるといった」
機材一式を入れた部屋は、俺がここで同居をはじめるまで物置代わりになっていたということで、窓もなかった。扉を開けっぱなしにしたままデスクに座ってヘッドホンをかけ、ネットにつなぐとAIエージェントが待ちかまえていて、すぐ相手につないでくれる。
藤野谷藍閃――現在は「ランセン」――が三十年ぶりに姿をあらわし、俺が藤野谷とつがいになってから、彼のマンションでの同居生活は急速に落ち着いた。俺はあいかわらずゆっくりしたペースで社会復帰に取り掛かっていたが、受ける依頼は個人的な頼まれものに限定していたから、毎日のスケジュールには余裕があった。
この案件もそうで、以前俺に好意的なインタビューをしてくれたライターに紹介してもらったのだ。地球の裏側にいるクライアントの顔をみながら話ができるのはこの時代のありがたさでもある。たいていのことはメールですませられるとはいえ、直に打ち合わせをするとなれば、たがいに絵を描いたり、身振り手振りで伝わる事柄も多く、繊細な案件ならこの方がいい。
画面越しに夢中でやりとりしていると横からコーヒーの香りがして、デスクにカップがそろりと置かれた。俺は眼だけで礼をいおうとしたが、藤野谷は無表情に俺を見て軽く首をすくめ、すぐにリビングへ行ってしまう。いささかおかんむりな様子だとは思ったが俺はすぐにクライアントへ意識を切り替えた。コーヒーは美味しかった。
打ち合わせを終えてリビングに戻ると藤野谷はもうスーツに着替えていた。カウンターに置いたタブレットでチェックしているのは朝のニュースだ。空になった皿があるからトーストと卵くらいは食べたのだろうか。
ネクタイを締めながら俺を横目でみて「朝早くから忙しいな」といった口調は若干うらめしげだった。
「ごめん。内容が内容だから、すれ違いがあると嫌だからさ」
藤野谷はタブレットを鞄に押しこむ。
「何の依頼?」
「結婚式の紙ものデザイン。帰国直後に式を挙げるんだそうだ。引き出物カードとか、テーブルのペーパークロスとか、一式」
藤野谷はかすかに眉をあげて「結婚式ね」といった。俺の仕事に藤野谷は口出ししないが、今朝のことは事前にいっておくべきだっただろう。
「もう時間?」と俺は聞く。
「ああ」
「今日の帰りは?」
「いつもと同じくらい」
「俺は夕方アポがある。夜は帰ってるはずだけど」
玄関まで見送りにいくと藤野谷は靴を履いて俺の方に向き直った。俺はいつものキス――一緒に暮らしはじめて習慣のようになっているキス――を待ちかまえたが、今朝はすこしちがった。俺の背中に腕をまわして抱きしめてくるまでは同じだが、藤野谷は俺のひたいに顎をくっつけただけで、かすかにため息をついたようだった。
「天?」
「サエ――俺たちも……」
「なに?」
「いや……」
藤野谷は言葉を切り、俺のひたいに唇を押しあてた。
「行ってくる」
つがいになって同居しているとはいえ、俺たちはまだ何も正式なことをしていない。正式なこと、つまり他人に俺たちの関係を公にするための儀式的なあれこれだ。少し前までは早めに親族へのお披露目をしなければとうるさかった藤野谷の母が、藍閃の電撃帰還と再度の出国という出来事のあと、一転してその話をしなくなったせいでもある。
しかしいずれは籍を入れて披露宴をひらくとか、何かイベントをすることになるだろう。今の俺にはそれは自明なことだったが、いつのまに俺はそう考えるようになったのだろう。これもつがいになった安心感からきているのだろうか。
もっとも急ぐ必要は感じなかった。藤野谷がそこに――俺のすぐそばにいるだけで嬉しかったし、気持ちが落ち着いたからだ。とはいえ藤野谷にはっきりたずねたことはない。他人の結婚式の準備について俺があれこれ考えているのは彼にしてみると複雑な気持ちだったのかもしれない。
そう思い至ったのは夕方マンションを出たあとだった。CAFE NUITで鷹尾と待ち合わせるために出かけたのだ。
彼女はTEN‐ZEROで俺の作品を扱ったプロジェクトの際、チームの渉外役を務めていた。今回はすこし改まった調子で「相談したいことがあるんです」と連絡が来たから、俺はすこし緊張していた。話しぶりからすると三波のことのようだった。彼女と三波は何年も友人同士らしく、その気安い間柄は俺から見ても羨ましいというか、仲良きことは美しきかなといった調子の気持ちのいいものだったが、改まってとはなんだろう。
そんなことを思いながらカフェの前に立ったのだが、格子の嵌ったガラス扉の向こうは暗かった。俺は開けるのをためらった。まさか閉まっているわけではないだろう。併設されたギャラリー・ルクスは開いている。今日の話を持ち出したのも場所を決めたのも鷹尾だし、彼女が定休日に呼ぶなんてミスをするとは考えにくい。扉の前は橙色の門灯で照らされている。
もう一度扉に手をかけた時、脛のあたりを温かくふわふわした感触がかすった。俺はギョッとして下を見た。なめらかな黒い毛皮の中に光るような黄緑色のひとみ。猫だ。前足を扉にかけてカリカリ鳴らす。
「おまえも中に入りたいの?」
俺は思わず笑った。
「カフェだからな。猫が入っていいのか知らないけど……」
「サエ?」
ふいに俺の背中になじんだ声が掛けられた。
「天?」
「こんなところで何してる?」
藤野谷は朝出勤した時と全く同じ服装だ。俺を見て驚いている様子だが、それはこちらも同じだ。
「鷹尾と待ち合わせだよ。相談があるって……」
「おかしいな。俺もだ」
なんだって? そう思った時、いきなり猫が大きく鳴いた。
「え?……っと!」
向こう側から扉が開き、把手を持つ俺の腕が引っ張られる。暗幕がぱっとひらいて眼の前がまぶしいほどに明るくなった。複数の声の合唱が降ってくる。
「ボス! 佐枝さん! おめでとうございます」
俺は面食らってまぶたをパチパチさせたが、隣にいる藤野谷もまったく同じリアクションだ。カフェの中はみたことのないスポットライトのような照明に照らされている。扉からみえる中央のスペースが広くあけられて、見覚えのあるTEN‐ZEROの社員たちが並んでいた。真ん中でスーツ姿の鷹尾が大きな花束を抱え、三波が彼女の横に立つ。
「TEN‐ZEROの社員有志からおふたりにサプライズです。佐枝さんには我々からの感謝をこめて、さらにオマケで藤野谷社長にもお祝いを」
とたんに音楽がはじまった。お馴染みのクラシックだ――結婚式とか、そういうときの。俺は思わず藤野谷の顔をみた。
「俺はオマケか?」と藤野谷がつぶやく。
こちらへ歩いてきた三波がすかさず「気持ちが大切ですからね」といった。なめらかな動作でかがみこみ、黒猫をひょいと抱き上げる。俺の足元をすりぬけて中へ入ろうとしていたのだ。
「おふたりともどうぞご入場を」
三波の腕の中で黒猫が黄色い眼をみひらく。
「パーティの時間です」
高い壁にかけられた液晶画面に俺がTEN‐ZEROのチームと一緒に完成させたプロモーション映像が流れていた。花で飾られたテーブルに料理がならぶ。仰々しいクラシックは最初だけで、花束を片手に写真をたくさん撮られたあと、BGMは陽気な雰囲気のポップスに変わった。俺は見覚えのある社員にもない社員にも次々に礼と祝いの言葉をかけられ、途惑いながらもありがたく受け取った。祝われるのはわかるとして、礼をいわれるのは意味がわからない。
途中でまた外から黒猫が乱入する騒動があって、その後カフェのマスターとギャラリー・ルクスの黒崎さんもあらわれた。俺としてはすこし前にこの二人にかけた迷惑を思い返すと嬉しいと同時に恥ずかしい気持ちにもなる。けれど彼らはそんなことはとうに忘れたとでもいいたげだ。
ここに居るひとたちが祝福してくれるのは嬉しかった。何か月間か大なり小なり関わったチームの人たちと再会できたおかげで、あのときの喜びと達成感、それに俺が藤野谷のプロジェクトで重要な役目を果たせたという記憶も蘇ってきたからだ。
「佐枝さん、気に入ってくれました?」
藤野谷がマスターにあれやこれや聞かれているのをワイングラスを片手に眺めていると、三波が俺の袖をひいてそっとささやく。
「ああ。びっくりしたけど」
「佐枝さんへの僕らの感謝は本当なんですよ。何しろボスがすっかり――」と藤野谷を横目でみる。
「あれですからね」
あれとはなんだ。
「あいつ、何か変わった? 会社で?」
俺がそういうと三波は驚いたような顔をした。
「気づいてないんですか?」
「何が?」
いつみてもはっとさせる美貌がにっこり微笑んだ。
「ボスの雰囲気が丸くなったから、僕らみんな感謝してるんですよ。これも佐枝さんのおかげだって」
「俺は何もしてないよ」
「無意識ならいいです。TEN‐ZEROで働く僕らの未来と福利厚生のためにずっとこのままでいてください」
「愛社精神旺盛だな」
思わず茶化してしまった俺に三波はまたにこりと笑顔を返し、手首の時計をたしかめた。袖をまくったときに薔薇を連想させる凝った留め金がちらりとみえた。すっきりしたデザインの文字盤と対照的だ。
「そろそろケーキと……お楽しみの時間ですね」
「お楽しみって?」
俺は聞き返したが、今度の三波はたくらみのありそうな笑顔を見せただけで、無言で俺から離れていく。次にあらわれたときはマスターとふたりでケーキのワゴンを押していた。
「はい、それではケーキタイムの前に――おふたりに誓いのキスをしていただきましょう」
マイクを持って上品な声でそんなことをアナウンスしたのは鷹尾だ。いつのまにか俺と藤野谷は部屋の中央に並ばせられている。音楽がまた変わる。周囲の照明が落ちて俺たちのまわりだけ光がある。なんだこの恥ずかしい演出は。
そう思いながら隣に立つ藤野谷をみると、彼は彼でみるからに困惑している。そこに浮かんでいたのは見たことのない表情だった。困惑と驚きと――俺には計りしれないような複雑な思いが混ざりあった顔だった。
俺のとまどいに藤野谷は気づいたのだろうか。その目尻がふっと細められて、優しくなった。
「サエ」
小さなささやきの後で唇が降りてくる。
周囲でヒューッと口笛が鳴った。すぐに離れると思ったのに藤野谷は俺を抱きしめたまま、唇を重ねて離してくれない。彼の匂いとアルコールの相乗効果で頭がぼうっとする。俺は無意識にキスを返し、周囲で響いた大きな拍手に我にかえった。
「さあ、キスはこれまで! 末永くお幸せに!」
その場にいる全員が笑顔だった。いまマイクを持っているのは三波だ。
「最後に僕たちからおふたりにプレゼントです」
開発部の主任が大きめの平たい箱を両手に持ってあらわれる。俺は代表して箱を受け取った。きれいな包装紙にくるまれて中身はわからない。軽くはないが重くもない。
「ありがとう」
まだ三波はマイクを持っている。
「これは注文の多い贈り物なんです」そういった彼の目はきらきらといたずらっぽく光っていた。
「どうぞ、帰ってからふたりで開けてくださいね」
アラームの音で眼をさましたつもりだった。
それなのにいつの間にか音は止んで、背中にくっついた温かいものが俺の体を支えている。ふわっと漂うような感覚にとらわれたまま、俺はぼんやりした頭で夢ともうつつともつかない状態で、まぶたの裏にきらきらした色を感じている。吐息が俺のうなじに触れ、耳のうしろをくすぐる。なじんだ匂いが俺の全身を包み、心の深いところから甘い安堵がわきあがる。
背後から俺を抱きよせる腕に身をまかせるうち、また眠くなってくる。Tシャツの上から胸や腹を撫でる手のひらが心地よい。その手が股間まで下がって、太腿に触れ、朝の自然な緊張で盛り上がった下着を上から覆う。俺がため息のような声をもらすと、耳元で「サエ」と囁かれる。
「ん……天……」
ぼうっとしたまま名前を呼んだものの、俺はまだ夢うつつだった。ゆるく前を押さえられたまま、別の指が布の上から俺の胸をこすっていく。腰に半分堅くなった熱が当たるのを感じながらゆるやかな快感に体をふるわせたとき、うなじに軽く歯を立てられて体が跳ねた。
「あ……天」
「おはよう、サエ」
藤野谷の吐息が耳の裏をくすぐる。俺は完全に眼をさまし――そしてアラームの理由を思い出した。慌てて時計を探す。
「今何時?」
「六時五分。まだ大丈夫――」
「しまった。急がないと」
俺はタオルケットをはねのけて起き上がる。藤野谷が横になったまま怪訝な表情で俺をみた。
「天はまだ寝てろよ。クライアントとネットで打ち合わせなんだ」
「こんな時間に?」
「時差のせいだ」
俺はTシャツを脱いで適当なシャツのボタンをとめ、髪を手でならす。
「なかなか本人たちと打ち合わせできなくてさ。俺の方が暇だから合わせるといった」
機材一式を入れた部屋は、俺がここで同居をはじめるまで物置代わりになっていたということで、窓もなかった。扉を開けっぱなしにしたままデスクに座ってヘッドホンをかけ、ネットにつなぐとAIエージェントが待ちかまえていて、すぐ相手につないでくれる。
藤野谷藍閃――現在は「ランセン」――が三十年ぶりに姿をあらわし、俺が藤野谷とつがいになってから、彼のマンションでの同居生活は急速に落ち着いた。俺はあいかわらずゆっくりしたペースで社会復帰に取り掛かっていたが、受ける依頼は個人的な頼まれものに限定していたから、毎日のスケジュールには余裕があった。
この案件もそうで、以前俺に好意的なインタビューをしてくれたライターに紹介してもらったのだ。地球の裏側にいるクライアントの顔をみながら話ができるのはこの時代のありがたさでもある。たいていのことはメールですませられるとはいえ、直に打ち合わせをするとなれば、たがいに絵を描いたり、身振り手振りで伝わる事柄も多く、繊細な案件ならこの方がいい。
画面越しに夢中でやりとりしていると横からコーヒーの香りがして、デスクにカップがそろりと置かれた。俺は眼だけで礼をいおうとしたが、藤野谷は無表情に俺を見て軽く首をすくめ、すぐにリビングへ行ってしまう。いささかおかんむりな様子だとは思ったが俺はすぐにクライアントへ意識を切り替えた。コーヒーは美味しかった。
打ち合わせを終えてリビングに戻ると藤野谷はもうスーツに着替えていた。カウンターに置いたタブレットでチェックしているのは朝のニュースだ。空になった皿があるからトーストと卵くらいは食べたのだろうか。
ネクタイを締めながら俺を横目でみて「朝早くから忙しいな」といった口調は若干うらめしげだった。
「ごめん。内容が内容だから、すれ違いがあると嫌だからさ」
藤野谷はタブレットを鞄に押しこむ。
「何の依頼?」
「結婚式の紙ものデザイン。帰国直後に式を挙げるんだそうだ。引き出物カードとか、テーブルのペーパークロスとか、一式」
藤野谷はかすかに眉をあげて「結婚式ね」といった。俺の仕事に藤野谷は口出ししないが、今朝のことは事前にいっておくべきだっただろう。
「もう時間?」と俺は聞く。
「ああ」
「今日の帰りは?」
「いつもと同じくらい」
「俺は夕方アポがある。夜は帰ってるはずだけど」
玄関まで見送りにいくと藤野谷は靴を履いて俺の方に向き直った。俺はいつものキス――一緒に暮らしはじめて習慣のようになっているキス――を待ちかまえたが、今朝はすこしちがった。俺の背中に腕をまわして抱きしめてくるまでは同じだが、藤野谷は俺のひたいに顎をくっつけただけで、かすかにため息をついたようだった。
「天?」
「サエ――俺たちも……」
「なに?」
「いや……」
藤野谷は言葉を切り、俺のひたいに唇を押しあてた。
「行ってくる」
つがいになって同居しているとはいえ、俺たちはまだ何も正式なことをしていない。正式なこと、つまり他人に俺たちの関係を公にするための儀式的なあれこれだ。少し前までは早めに親族へのお披露目をしなければとうるさかった藤野谷の母が、藍閃の電撃帰還と再度の出国という出来事のあと、一転してその話をしなくなったせいでもある。
しかしいずれは籍を入れて披露宴をひらくとか、何かイベントをすることになるだろう。今の俺にはそれは自明なことだったが、いつのまに俺はそう考えるようになったのだろう。これもつがいになった安心感からきているのだろうか。
もっとも急ぐ必要は感じなかった。藤野谷がそこに――俺のすぐそばにいるだけで嬉しかったし、気持ちが落ち着いたからだ。とはいえ藤野谷にはっきりたずねたことはない。他人の結婚式の準備について俺があれこれ考えているのは彼にしてみると複雑な気持ちだったのかもしれない。
そう思い至ったのは夕方マンションを出たあとだった。CAFE NUITで鷹尾と待ち合わせるために出かけたのだ。
彼女はTEN‐ZEROで俺の作品を扱ったプロジェクトの際、チームの渉外役を務めていた。今回はすこし改まった調子で「相談したいことがあるんです」と連絡が来たから、俺はすこし緊張していた。話しぶりからすると三波のことのようだった。彼女と三波は何年も友人同士らしく、その気安い間柄は俺から見ても羨ましいというか、仲良きことは美しきかなといった調子の気持ちのいいものだったが、改まってとはなんだろう。
そんなことを思いながらカフェの前に立ったのだが、格子の嵌ったガラス扉の向こうは暗かった。俺は開けるのをためらった。まさか閉まっているわけではないだろう。併設されたギャラリー・ルクスは開いている。今日の話を持ち出したのも場所を決めたのも鷹尾だし、彼女が定休日に呼ぶなんてミスをするとは考えにくい。扉の前は橙色の門灯で照らされている。
もう一度扉に手をかけた時、脛のあたりを温かくふわふわした感触がかすった。俺はギョッとして下を見た。なめらかな黒い毛皮の中に光るような黄緑色のひとみ。猫だ。前足を扉にかけてカリカリ鳴らす。
「おまえも中に入りたいの?」
俺は思わず笑った。
「カフェだからな。猫が入っていいのか知らないけど……」
「サエ?」
ふいに俺の背中になじんだ声が掛けられた。
「天?」
「こんなところで何してる?」
藤野谷は朝出勤した時と全く同じ服装だ。俺を見て驚いている様子だが、それはこちらも同じだ。
「鷹尾と待ち合わせだよ。相談があるって……」
「おかしいな。俺もだ」
なんだって? そう思った時、いきなり猫が大きく鳴いた。
「え?……っと!」
向こう側から扉が開き、把手を持つ俺の腕が引っ張られる。暗幕がぱっとひらいて眼の前がまぶしいほどに明るくなった。複数の声の合唱が降ってくる。
「ボス! 佐枝さん! おめでとうございます」
俺は面食らってまぶたをパチパチさせたが、隣にいる藤野谷もまったく同じリアクションだ。カフェの中はみたことのないスポットライトのような照明に照らされている。扉からみえる中央のスペースが広くあけられて、見覚えのあるTEN‐ZEROの社員たちが並んでいた。真ん中でスーツ姿の鷹尾が大きな花束を抱え、三波が彼女の横に立つ。
「TEN‐ZEROの社員有志からおふたりにサプライズです。佐枝さんには我々からの感謝をこめて、さらにオマケで藤野谷社長にもお祝いを」
とたんに音楽がはじまった。お馴染みのクラシックだ――結婚式とか、そういうときの。俺は思わず藤野谷の顔をみた。
「俺はオマケか?」と藤野谷がつぶやく。
こちらへ歩いてきた三波がすかさず「気持ちが大切ですからね」といった。なめらかな動作でかがみこみ、黒猫をひょいと抱き上げる。俺の足元をすりぬけて中へ入ろうとしていたのだ。
「おふたりともどうぞご入場を」
三波の腕の中で黒猫が黄色い眼をみひらく。
「パーティの時間です」
高い壁にかけられた液晶画面に俺がTEN‐ZEROのチームと一緒に完成させたプロモーション映像が流れていた。花で飾られたテーブルに料理がならぶ。仰々しいクラシックは最初だけで、花束を片手に写真をたくさん撮られたあと、BGMは陽気な雰囲気のポップスに変わった。俺は見覚えのある社員にもない社員にも次々に礼と祝いの言葉をかけられ、途惑いながらもありがたく受け取った。祝われるのはわかるとして、礼をいわれるのは意味がわからない。
途中でまた外から黒猫が乱入する騒動があって、その後カフェのマスターとギャラリー・ルクスの黒崎さんもあらわれた。俺としてはすこし前にこの二人にかけた迷惑を思い返すと嬉しいと同時に恥ずかしい気持ちにもなる。けれど彼らはそんなことはとうに忘れたとでもいいたげだ。
ここに居るひとたちが祝福してくれるのは嬉しかった。何か月間か大なり小なり関わったチームの人たちと再会できたおかげで、あのときの喜びと達成感、それに俺が藤野谷のプロジェクトで重要な役目を果たせたという記憶も蘇ってきたからだ。
「佐枝さん、気に入ってくれました?」
藤野谷がマスターにあれやこれや聞かれているのをワイングラスを片手に眺めていると、三波が俺の袖をひいてそっとささやく。
「ああ。びっくりしたけど」
「佐枝さんへの僕らの感謝は本当なんですよ。何しろボスがすっかり――」と藤野谷を横目でみる。
「あれですからね」
あれとはなんだ。
「あいつ、何か変わった? 会社で?」
俺がそういうと三波は驚いたような顔をした。
「気づいてないんですか?」
「何が?」
いつみてもはっとさせる美貌がにっこり微笑んだ。
「ボスの雰囲気が丸くなったから、僕らみんな感謝してるんですよ。これも佐枝さんのおかげだって」
「俺は何もしてないよ」
「無意識ならいいです。TEN‐ZEROで働く僕らの未来と福利厚生のためにずっとこのままでいてください」
「愛社精神旺盛だな」
思わず茶化してしまった俺に三波はまたにこりと笑顔を返し、手首の時計をたしかめた。袖をまくったときに薔薇を連想させる凝った留め金がちらりとみえた。すっきりしたデザインの文字盤と対照的だ。
「そろそろケーキと……お楽しみの時間ですね」
「お楽しみって?」
俺は聞き返したが、今度の三波はたくらみのありそうな笑顔を見せただけで、無言で俺から離れていく。次にあらわれたときはマスターとふたりでケーキのワゴンを押していた。
「はい、それではケーキタイムの前に――おふたりに誓いのキスをしていただきましょう」
マイクを持って上品な声でそんなことをアナウンスしたのは鷹尾だ。いつのまにか俺と藤野谷は部屋の中央に並ばせられている。音楽がまた変わる。周囲の照明が落ちて俺たちのまわりだけ光がある。なんだこの恥ずかしい演出は。
そう思いながら隣に立つ藤野谷をみると、彼は彼でみるからに困惑している。そこに浮かんでいたのは見たことのない表情だった。困惑と驚きと――俺には計りしれないような複雑な思いが混ざりあった顔だった。
俺のとまどいに藤野谷は気づいたのだろうか。その目尻がふっと細められて、優しくなった。
「サエ」
小さなささやきの後で唇が降りてくる。
周囲でヒューッと口笛が鳴った。すぐに離れると思ったのに藤野谷は俺を抱きしめたまま、唇を重ねて離してくれない。彼の匂いとアルコールの相乗効果で頭がぼうっとする。俺は無意識にキスを返し、周囲で響いた大きな拍手に我にかえった。
「さあ、キスはこれまで! 末永くお幸せに!」
その場にいる全員が笑顔だった。いまマイクを持っているのは三波だ。
「最後に僕たちからおふたりにプレゼントです」
開発部の主任が大きめの平たい箱を両手に持ってあらわれる。俺は代表して箱を受け取った。きれいな包装紙にくるまれて中身はわからない。軽くはないが重くもない。
「ありがとう」
まだ三波はマイクを持っている。
「これは注文の多い贈り物なんです」そういった彼の目はきらきらといたずらっぽく光っていた。
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