まばゆいほどに深い闇(アルファポリス版・完結済)

おにぎり1000米

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番外編&後日談

像をめぐる回廊

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 *1*

 半年以上通った校舎だから、たいていの場所は知っていると思っていた。でもいま初めて足を踏み入れた倉庫には、長年積もった埃と湿った紙と青くさい黴の馴染まない匂いが漂っている。マスクをしているにもかかわらず、わずかな動作でも窓からさしこむ光の中で埃が踊る。気を抜くとくしゃみがでそうだ。
 すぐ後ろに藤野谷がついて歩いているから、俺は少し緊張している。こいつが近くにいると何だか――変なのだ。体が落ち着かない様子でむずむずしたり、奇妙に動悸が早くなったりする。すこし前まではこんなことはなかった。中学のアートキャンプで出会った藤野谷天藍と高校に入った春に彼と再会したあと、最初にこの違和感に気づいたのは夏休みの直前だったか。そして秋が深くなったいま、このむずむずした感じはますます強くなっている。

「天、この辺?」
「ああ、ここだ。文化祭って書いてある」
 薄暗い蛍光灯の下で、俺たちは乱雑に置かれた箱や袋、パネルのたぐいをひっくり返した。垂れ幕や案内板、展示物……高一の文化祭はつい先月のことだったのに、出てくるものはすでに大昔の発掘品のようだ。俺はしゃがみこんで「展示」と書かれた箱をひとつひとつみていくが、探しているものはみつからない。

「あったか?」
 藤野谷が聞く。
「ない。どこへ行ったんだろう」
 俺はぼやいた。
「俺の描いた絵がどうしてなくなるんだよ? 面白い絵ならわかるけど――ただの自画像だぜ?」
「もう少し探そう」

 俺たちはしばらく埃っぽい倉庫をあさる。藤野谷は俺のすぐ横で同じようにしゃがんでは、箱の底に手をのばす。彼が動くたびに俺のうなじや背中に妙な感覚が生まれて気が散るし、たかが授業で描いたにすぎない俺の絵をこんなに必死に探してもらうのも気が引ける。
 けれど藤野谷に俺の横からいなくなってほしいわけではない。方向のちがう気持ちが絡みあうと、どういうわけか息が苦しくなる。

「サエ?」
 気がつくと藤野谷が箱の中に手をつっこんだまま俺を心配そうにみている。
「大丈夫?」
「なんでもない」

 結局絵は出てこない。どういうことだろう。たしかに文化祭で俺たちのクラス展示(俺が下絵を描いたお化け屋敷)は話題になったが、自画像を持って帰りたいやつなんているんだろうか?
 ついに俺はあきらめて首を振る。でも藤野谷はまだあきらめていない。箱をひっくり返す彼の背中を眺めながら俺は「もういいよ、天」という。
「ほんとに? サエ」
「どこかにあるはずだからいいんだ。俺はあれを描いたんだし、そのことは変わらないから」
「サエがそういうなら……いいけど」

 藤野谷は未練のある眼つきで倉庫を眺めてくしゃみをした。マスクがずれて、彼の整った鼻筋がみえている。
「ひどい埃だな」
 俺は衝動的に藤野谷の腕を引く。
「天、いいよ。もう行こう」




 *2*

「この家は屋上でビールが似合いますから」
 その日三波はやってくるなりそう宣言すると、ビール缶を片手に勝手知ったる足どりで階段を上った。唐突な行動に俺はあっけにとられたが、夏に引っ越したときも三波は引越祝いだとビールを持って現れ、階下に荷物が運び込まれている最中に俺たちは屋上で飲んだのだった。

 そういえば、あの日三波は叔父の峡の車であらわれて、その時の様子で俺はなんとなく二人の関係を察したのだった。その後も何やら進展があったらしいと踏んでいるが、三波と峡がそろっているところにはまだ出くわしていない。
 二人とも俺の大事な友人なのだし、つきあっているのならそう教えてくれてもいいんじゃないか、とも思うが――特に叔父の峡には――彼は他人の世話を焼く一方で自分のことはあまり話さないし、三波はこの件に関しては強烈な照れ屋と化すから聞きづらかった。

 そんな三波がビールを持って登場したというのは、ひょっとするとまた峡と何やらあったのかもしれないが、口の立つ彼をうかつにつつくと反撃がこないとも限らない。というわけで、俺はビールを持って三波の後を追うだけにする。
 今日の三波もいつもと同様に洒落た服装で決めている。すばやく階段をのぼる背中もすらりとしてしなやかだ。俺はその動きに少しみとれ、おかげで彼の足が踊り場で急に止まったとき、前につんのめりそうになった。

「三波? 何見てるんだ?」
「佐枝さん。これ、佐枝さんですか?」
 三波は踊り場の壁の高い位置に掛けられた絵をみあげている。窓ガラスに映った俺の顔と背景に映りこむ人々が描かれたものだ。昔、高校の授業で描いた水彩の自画像で、こちらを向く俺のまなざしは映りこんだ影のひとつをじっとみつめている。
 俺は顔をしかめた。天のやつ。またか。

「俺が高校生のときに描いた絵だよ。その――あまりじろじろ見ないでくれ」
「どうして?」
「どうしてって……」俺は口ごもった。
「下手だからさ。昔のだし、自画像だし……」
「そうかな、いい絵なのに。僕は好きですよ」

 三波はさらっと褒めた。彼はいつも俺のファンだと公言し、きれいな顔でまっすぐみつめながら俺の作品を褒めてくれるので、なんだか照れてしまう。しかし次に続いたセリフには焦った。
「どうしてあんなに高いところに掛けてあるんですか? もっと近くで見たいな」
「ダメ!」
 俺はあわてていった。
「あれは……藤野谷が勝手に掛けたんだ」
「へえ。いいなあ、ボスは」
 俺は肩をすくめた。
「三波、屋上で飲むんだろう?」

 三波は眉をすこしあげて怪訝な表情をしたが、俺の勢いに押されたのか、階段をのぼりはじめた。俺は一応壁に手をのばしてみる。予想通り届かなかった。

「あの絵、何かいわくでもあるんですか?」
 屋上に行くと案の定三波はスルーしてくれなかった。缶ビールのプルタブを起こしながら興味津々の顔つきでたずねてくる。
「べつにないよ。ただその……高校の文化祭で展示したあと行方不明になって、最近になって藤野谷が持っていたことがわかったんだ」
 三波の眉がすっとあがる。
「何ですかそれ。まさかぬす――」
「いや、ちがうちがう」
 俺はまたあわてて三波をさえぎった。

「俺が一年で転校した後でみつかって、天が預かっていたんだ。それであいつのマンションにあったから、やるよっていったんだけど……」
「まあ、ものはいいようですからね」
 三波は疑わしそうな眼つきをした。
「だったらボスもきちんと飾ればいいのに。あんな高いところに掛けてないで」
「たぶん俺が飾るのを反対したからだと思う」
「どうして?」
「だから、高校生のときの自画像をいまさらっていうのはさ」

 三波はたちまちビールを飲み干した。アルコールが好きなのは知っているが、ペースが早すぎる。
「でも佐枝さん、アトリエや玄関に自分で描いた絵を飾ってますよね? 中には子供の頃に描いた作品もあるって前にいっていたんだし、だからやっぱり何かあるんでしょ?」
「ないよ。ないの。ただ自画像ってさ……今になって見るといろいろわかるから恥ずかしいんだ。その――何を描きたかったとか、自分が求めている理想像とか、いろいろ」
 そうなのだ。あの自画像には人に見られたいと願っていた俺自身の像や、俺がいつも見ていたかった影が映りこんでいる。描いているときは気づかなかったものも、今はわかる。だから無性に恥ずかしいのだろう。

「なるほど」
「それに天のやつ、あれをずっとマンションの寝室に掛けてたらしいから」
「へ?」
 突然三波はビールを吹き出した。
「すみません、汚くて。なるほどそれは……恥ずかしいですね」
「そうだろう?」
「きっとボスのことだから佐枝さんに再会するまで毎夜その絵を見てはあらぬ妄想を――」
 ぱっと頬に熱がのぼった。

「三波! 俺がいったのはそういう意味じゃなくて!」
「いやいや大丈夫です。ごちそうさまです」
「違うって」
「何いってるんですか。そのものずばりでしょ」

 三波は美貌をひらめかせて陽気に笑い、ビールの缶を握りつぶした。暗い空に白い月がのぼり、屋上に俺たちの影を映し出す。




 *3*

 納戸の空気は乾いていた。灯りとりの小さな穴から光がさしこむ。入口近くに取り付けられた薄暗い電球もビームを放ち、そのあいだで無数の埃が舞っていた。視界に入ってくるのはガラクタのたぐいだ。うっかり立ち上がると頭を打ちそうな空間に、紋様をくりぬいた木製の棚、貝細工で飾られたランプのかさ、ステンドグラスの小さな窓。かつてこの家に据え付けられていたものたちがぞろぞろと並んでいる。

「まだ物置があったのか」
 俺の首のすぐ後ろで藤野谷がつぶやいた。
「びっくり箱みたいな家だな。何があるんだ?」
「べつにお宝があるわけじゃないぜ」
 俺はくしゃみをこらえながらいった。
「前のオーナーが古い備品を捨てていないだけだ。でもあのステンドグラスとか、使えそうだな、と思って……」
「了解」

 藤野谷は窮屈そうに俺の隣へ並んだ。
 夏に俺と藤野谷が買った古い家にはそこかしこに小さな物置や納戸があった。屋上へつながる階段の下に、壁紙に隠してあるかのような木の扉がある。それに気づいたのはここに引っ越して二カ月近く経った、つい最近のことだった。

 ふたりして木の床にしゃがみこんでいると、中学生か高校生に戻ったような気がする。そういえば昔、埃だらけの倉庫で、同じような姿勢でしゃがんでいたことがなかったか。

「どれを持っていけばいい?」
「そこに転がってる木のブックエンド、あれと、このランプと、そこの……」

 木の扉の中にあったものは藤野谷にいった通り、お宝ではない。かつてこの家を飾っていた古い設備や道具類だから、ガラクタも同然といえるかもしれない。しかし俺の眼にはお宝同然に見えるものもある。たとえば透かし彫りのある吊り棚は、金具は古びていても美しい意匠で、ここで眠らせておくのももったいない。
 というわけで俺は休日の藤野谷を荷物持ちに、このお宝もしくはガラクタを運び出しているわけだが……。

「サエ?」
 藤野谷が俺の首筋のあたりでささやく。
「この棚板、どうする? ちょっとデカいけど」

 すぐ横に藤野谷がいるとどうも気が散るのだった。やはりずっと前にもこんなことがあった気がする。藤野谷は膝をつき、支えにするように俺の肩に手をかけて吊り棚を手前にひく。彼の匂いが鼻先を抜けると、俺の背筋にぞくりとふるえが駆け下りていく。すると藤野谷は故意か偶然か、俺のうなじをかするように撫でる。
 ――いやこいつ、絶対わざとやってるだろう! だからこんなにぴったりくっつくなというのに。
「……今日はいい。今度で」

 俺は何とか平静を保とうとするが、空気のこもる納戸は藤野谷の匂いでいっぱいだ。そこに彼の色――きらきらする光のかけらが重なると、なんだかくらくらしてくる。

「サエ、棚をずらしたら金魚鉢みたいなのと、額縁みたいなのもみえるんだが」
「それも今度でいい」
 額縁と聞いて俺はふと思い出した。
「そういえば、俺の絵をまた勝手に飾っただろう」
「エ?」

 こいつは下手な洒落をいっているのだろうか。首をねじって俺をみた藤野谷の眼はいたずらっぽく笑っていて、悪びれた様子もない。

「高校の時の自画像だよ。階段の上の方にさ……」
「ああ。俺がよく見えるところにな」
 まったくこいつは。俺は少々呆れながらいった。
「あんな昔の絵、恥ずかしいだろうが。この前三波が来た時にみつかったんだよ」
「三波はサエのファンだから問題ないだろう」
 藤野谷はしれっと答えた。
「それに俺はあの絵が好きなんだ。あの絵のサエの眼つきとか、表情が」

 急に頬が熱くなった。あの絵の中の像が何を見ていたかを思い出したせいだ。俺は反射的にうつむいた。藤野谷は黙った俺をどう思ったのか、引っ張り出そうとしていたガラクタから手を離して、俺にさらに体を寄せてきた。

「あのさ……天」
 俺はつぶやく。
「何?」
「もう少し離れられない? 首……」
 またも俺のうなじのあたりで藤野谷はふふっと笑い、息が首筋にかかった。

「狭いから無理」
「いや、狭いのは最初からわかってるだろ。そんなにくっつくなよ」
「どうして?」
「いいから!」

 藤野谷は離れない。軽い笑い声が耳のすぐ横で聞こえて、こともあろうに腕が俺の胸にぐるりとまわされる。軽く引かれて腰がおち、俺は藤野谷の腕に抱かれたまま埃だらけの床に尻もちをついた。背中と脇腹に藤野谷のぬくもりが感じられ、彼の吐息が耳のすぐ近くをくすぐる。
「天――」
 俺はうめいた。

「くっつくなって! 狭いから!」
「俺はくっつきたい。狭いから」
 藤野谷はいけしゃあしゃあとそう答える。
「なんだよ。何笑ってんの」
 俺はぼやく。
「思い出して」
「何を?」
「高校の時さ……」

 藤野谷の声は低く、ささやきはあいかわらず俺の背筋に軽い震えを作っていく。眼の前を通る光の筋の内側で埃がダンスを踊っている。
「倉庫で探しただろう、あの絵。あのときもこんな風に……サエにくっつきたかった」
「は?」
「我慢したんだ。ほんと。よく覚えてる」
 俺は一瞬馬鹿みたいにぽかんと口をあけて、閉じた。

「それは……我慢しろよ」
「だから今はご褒美」
「それは別の話!」
「ほんとに? サエ……」
「馬鹿」

 いま俺にぴったり寄り添っているのは、あの絵に描かれた像がかつてみつめていた男だ。絵の中の俺は彼をまっすぐ見られなかった。少し離れたところからガラスに映った影をみつめるだけだった。光の中で埃がダンスを踊り続けている。俺はこの場所を動けずにいる。



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