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第3部 ギャラリー・ルクス

31.羽ばたきのゆくえ

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 バルーンを配る大道芸人。路地で遊ぶ半ズボンの子供たちの一団。舗道に膝を立てて座るホームレス。手すりから飛び立ったばかりのカモメ。スケートボードを片手に睨んでいる若者。けばけばしい色彩の商品が並ぶ露店の前には、でっぷりと肥えた女性が腰に手をあてて大股に立つ。顔を膝に伏せて道端でうずくまる男、よそ行きのドレスにスパンコールの靴を履き、街角にたむろする少女たち。脚立に立って看板にペンキを塗る職人の下を、表情豊かに話しながらスーツの男が通りすぎる。アパートの窓から手をのばす女の顔は不機嫌に眉をひそめている。真剣な、物騒な、退屈そうな表情でカメラをみつめる人たち。

 終わることのない世界の小さな断片と思い出――藍閃の言葉を思い出しながら俺は一枚一枚写真を見ていった。オーナーの黒崎さんは、まだ現像していないフィルムと劣化して表面が剥がれたプリント以外のすべてを俺が泊まっている部屋に運んでくれ、デジタルスキャンしたネガはパソコンからプロジェクターで壁に映せるようセットした。

 どれをみても人、人、人だった。

 モノクロもあればカラーもある。都市を生きている人の姿に真正面から踏み込むような写真はほとんど無神経すれすれで、撮るべき瞬間だと撮影者が判断した、まさにその時を逃さなかったという像ばかり、被写体にためらいがまったくみられない。撮影者の物おじしない無遠慮な姿勢も写し出されているようだった。人間がいないところにも断片や痕跡があった。打ち捨てられた新聞紙。明るいひなたに落ちる麦わら帽の影、砂浜に脱ぎ捨てられた靴、ゴミの山に突き刺さった松葉杖。

 すべて国外の路上の写真だった。

 葉月は空良と逃亡中にこれらの写真を撮ったのだ。黒崎さんは背景に映りこんだ文字や被写体の服装などから撮られた時期を大雑把に推定し、分類していた。俺の手元にあった、空良ばかり撮ったスナップとはまったく違った。それ以前の風景や植物ばかり撮った写真とも。
 ここにはたくさんの人間が歩き回り、笑い、怒っている世界がある。

 以前マスターが話した「黒崎が最近夢中な無名の写真家のネガ」はこれだったのかと納得しながら、俺はブラインドを下げ、薄暗い部屋の壁にデジタルスキャンした写真を映した。数枚クリックして進めたあとで、はっとして前に戻った。百貨店のウインドウを飾り付ける職人を映した写真の隅にカメラを持つ手があるのをみたからだ。ウインドウに撮影者の姿が反射し、写りこんでいる。

 葉月。

 プロジェクターで壁に映し出された葉月は、俺のぼんやりした記憶にある写真の青年とは違った。小柄で細身だが顎の線は柔らかく丸みをおび、カメラの下からかすかにみえる口元はきっちりと結ばれている。続けて他の写真もみるうちに、セルフポートレートが何点もあるのがわかった。意図したものもあれば偶然写りこんだらしいものも、被写体のあいだに偶然割り込んだ自分の影を許容するかのような写真も。

 葉月は空良と出会ってからも、彼の写真を失ったわけではなかった。
 葉月は空良と出会う前や、藤野谷家にいたあいだは、けっしてこんな世界を撮ることはなかった。

 俺の指は自動的にクリックしつづけ、俺は葉月の、俺を産んだ人のこれまで知らなかった側面をみた。彼がフィルムに残した人々は快活で、皮肉げで、楽しそうで、怒っていて、不機嫌で、どこもかしこも生き生きしていた。

 その中に突然空良の姿をみつけて、俺はまた指をとめた。じっとこちらを――カメラをみつめている。まなざしは深く、口元は微笑んでいて、カメラの主に向けられた思慕は疑いようもない。空良が写った写真は何枚もあった。アルファの例にもれず長身で、肩幅は広く、着衣の上からも筋肉質の体型が見てとれる。俺はさらにクリックした。
 そして耐えられなくなって、立ち上がった。




「マスター」
 藍閃が来たのは午前中の何時ごろだっただろうか。俺はそれから葉月の写真を見ていただけなのに、時刻はもう夕方だ。一階のカフェをのぞくと店長はオフィスにいるという。俺はフロアを上がってマスターをさがした。ガラス扉のむこうで彼は黒崎さんと立ち話をしていたが、先に俺に気づいて扉をあけた。

「どうしたの、ゼロ」
「モバイル、貸してくれないかな」
「黒崎にいったら電話くらい使わせてくれるよ?」
 マスターはそういったものの、俺の表情を見てニヤッと笑った。
「なんだ、事務所の電話なんて誰も聞かないのに――そんな顔するなって、貸すよ。それにゼロ、腹ペコの子供みたいだ」
「カフェで何か注文する」

 俺はありがたくマスターのモバイルを借りてカフェへ行き、藤野谷の番号にかけたがつながらなかった。カマンベールチーズとハムのホットサンドを頼んで、またかけたが同じだった。渡来の番号は覚えていない。自分のモバイルがないからだ。まさか峡に聞くわけにもいかないだろう。
 マスターは注文をさばくのに忙しそうだった。俺はあきらめてまたオフィスへ戻った。黒崎さんにネットを使わせてもらうことにする。
 TEN‐ZEROの三波のアカウントへ簡単に『ごめん、藤野谷に連絡をとりたい』とチャットを投げる。すぐに返事がきた。

『佐枝さんどうしたんです? ボスは今日社内にいないんです。朝はいたんですが、急用で消えて』
 俺は失望のあまり、肩の力が抜けてへたりこみそうだった。
『わかった。いいよ』
『どうしました?』
『モバイルがつながらないんだ』
『なんですかそれ』三波の返事は秒速でやってきた。
『心当たりのありそうなところへ聞いて、佐枝さんに連絡とるように伝言しますよ』
『それが俺、いまモバイルなくて』
『はい?』
『ギャラリー・ルクスに連絡をくれ』

 タイピングに失敗でもしたのか、なぜか三波の返事が不自然に遅れた。俺はギャラリーの番号とアカウントを残して、接続を切った。

 藤野谷から連絡があったのは夜も更けてからだった。俺は夜食にカフェのまかないを食べさせてもらい、最上階の部屋でシャワーを浴び、また葉月の写真を眺めていた。

 空良と国外へいた約一年のあいだに葉月が撮った写真は失敗をのぞいて一万枚以上。現像されていないフィルムもある。プリントされた写真は少なかったので、俺はデジタルスキャンした画像を映してはみつめていた。

「ゼロ」
 呼び出されて細くドアをあけると、マスターが隙間から俺の顔をのぞきこむようにして、眼を細める。
「ビデオ通話だ。こっちで出れるから」

 そのまま廊下へ連れ出されると、マスターは角を曲がって別の部屋の扉をあけた。彼と黒崎さんの住居だ。遠慮しないでといわれたが、俺は小さくなって靴を脱ぎ、かなり散らかったリビングに据えられたモニターの前に立った。
『サエ、ごめん。遅くなって……緊急事態で――』

 モニターの向こうに藤野谷の顔があった。眸がひろがって、緊張した表情で俺をみている。たった一日離れていただけなのに、彼の声を聞いたとたん眼の奥が熱くなるのがわかった。
「天」俺は口ごもった。
『どうした?』
 藤野谷の声が大きくなる。『何があった?』
「天――」

 話そうとして、喉がつまるのを感じた。ぽたっと顎を水がつたって流れた。涙があふれて勝手に落ちてくる。
「藍閃は、藤野谷家に行った?」
『どうして知ってる?』

 俺のぼやけた視界で、藤野谷は息を飲み、眼をみひらいた。俺はろくに考えてもいなかった。ただ頭に浮かんだことを口に出した。
「天――会いたい」
 藤野谷の反応は速かった。
『すぐ行く。ギャラリー・ルクスだな』
「待って」自分がいいだしたことにもかかわらず俺は慌てた。「もう時間が遅い――」

 肩にぽんと手がかけられ、首を曲げるとマスターが親指を立ててうなずいている。俺はモニター画面を振り返った。藤野谷は俺をまっすぐにみつめていた。

『サエ。本当に、俺が行ってかまわないなら――』
「来て」
 つぶやくように答えると藤野谷は大きくうなずき、通話を切った。
「彼、来るの?」
 真後ろから響いた声にふりむくと、すぐそこでマスターが腕を組んでいる。
「あ……ごめん。夜中に……」
「いやいや、問題ない。彼も昨日はよく押しかけないでガマンしたし」

 マスターは面白くてたまらないといった顔つきでニヤニヤして「僕が釘をさしたの、効いたかな」とひとりごとのようにいう。昨夜藤野谷に一報を入れてもらったとき彼は何を話したのだろう。ともあれ今は、マスターと黒崎さんの居住空間でぐずぐずしているのは何だかうしろめたく、俺はさっさと退散したかった。戸口を出ようとするとマスターは俺を呼びとめて、茶色い紙袋を押しつける。

「必要なら使って」
「何?」
 マスターは開けようとした俺の手を掴んでとめた。
「いま中を見ちゃだめだ。あとで必要なものができたらあけるんだよ」
 そういってまたニヤニヤ笑う。俺の頭の中の疑問符を肉眼でみているかのような表情だ。目の前で扉が閉まった。

 藤野谷は本当に素早くやってきた。公園の街灯の光を受けて暗い青に輝くSUVがルクスの横に停まるのをバルコニーからみつけて部屋に戻る。中はプロジェクターの光で壁のひとつだけ明るく、ほかは影になっていた。俺は壁にまだ葉月の写真を映したままだった。ゆっくりとスライドショーが移り変わるのを横目に部屋を横切る。ノックの音が聞こえる前に扉の把手に手をかける。わずかにひらいた隙間から藤野谷のあの色が見えた。俺の視界にちらちらと光が舞う。

「サエ」

 俺は黙って藤野谷の腕を引き、首に両手をまわす。カチャっと音がして扉がしまった。そのまま壁に藤野谷の背中をおしつけ、つま先だちになって、鼻先、顎、頬と唇を触れさせた。彼の匂いで体じゅうが満たされるようだし、のびかけの髭が顎に当たってちくちくする。藤野谷がため息のような声をもらして俺の背中を抱いた。熱い舌が俺の唇をなめる。吐息をからめながら互いにつまむようなキスをくりかえし、体が熱くなる。
「サエ……大丈夫?」
 藤野谷が俺の首筋に顔を埋めてささやいた。
「おまえも」と俺は答える。

 ぴったりと体を寄せあったまま奥へ行った。藤野谷がプロジェクターの光のなかで立ち止まる。
「これは?」
「葉月が撮った写真。藍閃が持っていた」
「伯父が?」
「ああ。藍閃は……」

 藤野谷の気配と匂いは俺をほとんど陶然とさせていた。何を話すつもりだったのか、何を話すべきなのか、考えるのも難しい。俺は無理に話を変える。
「おまえの家は? 藍閃は俺と話したあとで、当主に会いに行くといった」
「おかげで藤野谷家は大混乱だ」

 ふたりで床に崩れるように座り、クッションにもたれる。藤野谷の目のしたにはうすく隈が浮かんでいる。
「特に父が……死んだはずの伯父が生きていたとあっては。もっとも公的には伯父は『亡くなった』ままで、本人は藤野谷の戸籍の回復をする気もないらしいが……父や母にとっては問題はそういうことではないからな」
「おまえは?」
「俺? 俺は――俺は正直、伯父なんてどうでもいいんだ。もっと大事なことがある。いや、だからそうじゃない」声の調子がきつくなった。
「どうして伯父はサエに会いに来たんだ」
 俺は小さく笑った。
「俺の両親について話すために。それから葉月の写真のために」

 そして藤野谷に話した。父たちの物語を。それは運命のつがいと、彼らに嫉妬したひとりのアルファの物語かもしれないし、ふたりのアルファと、ひとりのオメガの物語なのかもしれなかった。

 プロジェクターの光のなかで葉月の写真がゆっくりと切り替わっていく。藤野谷は壁をみつめたまま俺の話を黙って聞いた。やがて話すべきこともなくなり、俺も藤野谷も、寄り添って座り、無言で移りかわる写真をみていた。俺は葉月のセルフポートレートを指さした。顔がカメラに隠されているものもあれば、鏡に映った自分の姿を故意に撮ったものもある。空良が写った風景の路上に葉月の影が写りこんでいるときもある。

「今の、ストップ」
 ふいに藤野谷がいった。
「何?」
「家族写真だ」

 俺はスライドショーをとめ、ひとつ前に戻した。鮮やかなカラー写真だ。工事中らしい大きなショーウインドウの前で職人が休憩している。夏の盛りだろうか、タオルで汗をぬぐっている男や半袖をまくって缶に口をつける少年がいる。どこの都市だろう。ショウウインドウにはくっきりと入道雲が反射して、その下に葉月と空良の姿がみえる。葉月はカメラを顔の下で低く構えていた。ふたりとも笑っている。ウインドウに映った葉月の姿はすこしぼやけて、下半身が大きくみえる。

「あそこにサエがいる」
 藤野谷がいった。俺は笑った。
「まさか」
「サエが生まれたの、十月だろう。七月か八月頃なら計算はあう」
 いわれてみれば葉月の体型は他の写真と違うかもしれない。着ているのはゆったりして体の線がわからない服だった。とても幸福そうだった。

「どうして人は子供を作るんだろうな」
 俺のつぶやきはただのひとりごとだった。藤野谷は俺の背中に腕をまわした。
「子供には希望があるからだろう。未来があると感じるから」
「じゃあ――子供がいない人間には、希望はない?」
「まさか」
 藤野谷は俺の顎を両手ではさんだ。
「おまえがその希望だから」

 俺は目をとじた。藤野谷の唇が目尻に触れ、鼻先、ひたいに触れ、抱きしめられた。俺も回した腕に力をこめ、俺たちはクッションの上に倒れこむ。息が荒くなり、互いの股間の堅さを感じる。

「天……」
 俺の声はほとんどかすれていた。
「何?」
「……ちゃんとつがいにして」
 藤野谷の唇が肌の真上でとまったのがわかった。俺はだめ押しのようにささやく。
「天、怖がらなくていい」
 ため息が俺の顎をかすった。
「サエを壊してしまいそうで」
「馬鹿だな」
 俺は小さく笑う。

「俺が壊れるわけないだろう。コップじゃないんだから」
「でも俺は――サエを傷つけてしまいそうだった。サエは……俺が怖くない?」
 俺は目をとじたまま、藤野谷の髪をかき回した。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「――おまえが運命であっても、そうでなくても、おまえが好きだ」
 それきり藤野谷は黙りこみ、俺たちは長いキスをする。



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