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第3部 ギャラリー・ルクス
26.モノクロの迷宮
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枝先からしずくがぽたぽたと落ちる。
雨が降っている。
藤野谷の本家の敷地は四角く剪定されたマキの木の生垣に囲まれていた。重厚な瓦屋根の本邸は渡り廊下で別邸の洋風の建物につながっている。別邸の生垣の間には小さな戸口が切られている。
高校時代、俺は一度だけ、藤野谷に連れられてこの中へ入ったことがある。あのとき藤野谷はハンサムな顔をこわばらせて、すれ違う使用人を無視しながら、二階の自分の部屋まで俺を連れていった。扉を閉めて俺をふりむき、やっとみせた笑顔が印象的で、だから俺はいまだによく覚えているのだろう。
今日の藤野谷は本邸正面の車寄せにSUVを停め、待っていた使用人に鍵を渡した。すばやく降りて傘をさし、助手席のドアを開けてごく自然に俺を傘の下に入れる。玄関にも別の使用人が待ち、閉じた傘を受け取った。かすかに白檀と柑橘をあわせたような香りが水の匂いを消す。中では渡来が待っていた。藤野谷が挨拶し、俺たちは並んで廊下を歩く。
「葉月」
誰かがそう呼んだと思ったが、雨音のせいで聞き間違えたのかもしれない。一瞬だけ、声が藤野谷に似ていると思った。廊下の突きあたりに立つ影の前で俺たちは足を止める。アルファの例にもれず長身で、俺を斜めからみている。
窓の外で軒から垂れた雫が断続的に地面を打った。横に立った藤野谷が口をひらくまえに俺はいう。
「……はじめまして。佐枝零です」
「きみがそうか」
俺は会釈しながら次の動作に迷い、結局ジャケットのポケットから名刺入れを取り出した。名族の当主を前にしているのに自分でも不思議なくらい委縮はしなかった。その代わりのように、ひどい居心地の悪さ、おさまりの悪さを感じていた。この屋敷の空気や匂いは落ちつかない。
藤野谷藍晶は俺が差し出した名刺を無造作に受け取った。
「到着が遅れてすみません」
藤野谷が俺の横でいい、その声音と気配に俺は安心する。
「雨はひどいか?」
「そろそろ梅雨入りですから」
藤野谷家の総帥は先に立って部屋に入った。テーブルに銀器がセットされている。黒服の給仕が椅子をひき、俺は隣の藤野谷を意識しながら腰をおろした。花の香りがかすかにたち、藤野谷紫が微笑みながら入ってきて、優雅な動作で向かいに座る。
料理が運ばれてきた。器も盛りつけも美しかったが、味がよくわからなかった。来る前に何度も、家族だけの内輪の食事、ただの顔合わせだと藤野谷は強調したが、その通りだ。そして家族だけの会食にしては格式が高すぎるし、雰囲気が硬い。藤野谷家はいつもこんな様子なのだろうか?
当主に体調はどうかとたずねられ、俺は問題ないと答えたが、どうしてもぎこちなくなり、そんな自分を強く意識する。藤野谷の母の紫とは病院で一度会っているが、その時も同じだった。俺が拉致された事件も含め、最近の藤野谷家周辺の騒動自体については一切話題にならなかった。
箸をつけながら、藤野谷と当主がグループ企業のひとつについて話すのを俺は黙って聞き、治験の期間も含めれば一カ月以上、ほとんどニュースを追っていないことをあらためて自覚した。働きもせずに藤野谷の部屋でぬくぬくしているだけでは、世の中から置いてきぼりにされるばかりだろう。
当主はTEN‐ZEROの業績や新製品の売り上げについてたずね、藤野谷は具体的な数字をあげて順調だと答える。俺は内心ほっとした。ひそかに気にしていたにもかかわらず、怖くて聞けなかったのだ――もし俺の一件がTEN‐ZEROの障害になっていたら、落ちこむのは避けられない。
そこからギャラリー・ルクスの話が出て、国内と海外のアート市場やオークションに話題は変わった。窓の外の雨がやんでいるのに俺は気づいた。メインの皿が下げられて、口直しにシャーベットが出される。とくに理由もなく、テーブルはすこし沈黙し、そこに紫の声が軽く響いた。
「いつ、籍を入れるつもりなの?」
テーブルの下で藤野谷の膝が触れる。
「お母さん、急ぐ必要はないでしょう」
「そうかしら? 診断の結果に問題がなかったのは嬉しいことだわ。でも赤ちゃんができると体調も変わるから、式の準備は億劫になるわよ。本家としての準備も含めて早めに分家筋の親族に挨拶に行った方がいいわね。雑誌や新聞のおかげで余計な詮索をする伯母さま方や、うるさがたもいらっしゃるし。子供ができる前にうちの問題は落ち着くと示しておいたほうが、あとが楽よ」
「子供なんて――気が早すぎます。それに」
俺は黙っているつもりだった。それなのにこの時は藤野谷の声にかぶせるように口をひらいていた。
「――俺はベータとしての生活が長いので、いま子供がどうといわれても――現実感が湧きません」
スチール写真のように景色が一瞬固まった。シャッター音が聞こえたかのようだ。気まずい沈黙に俺は首をすくめそうになる。呪縛は食器が触れあう音で解けた。給仕が盆からコーヒーカップを配っていく。
「俺たちの問題です。決めたらお知らせします」
静かに藤野谷がいった。
「そう」
紫は俺と藤野谷を交互にみて、レース模様の白いカップを手に取った。彼女の指は細く長く、爪は真珠色と淡いピンクで塗られている。俺のカップに落としたミルクが褐色の液体の中で渦を巻いた。繊細な持ち手は簡単に折れてしまいそうだ。
突然俺は葉月のことを思い浮かべた。彼はこの家でどんな風に暮らしていたのだろう。このカップを使うこともあったのだろうか。
「大丈夫か?」
耳元で藤野谷がささやいた。テーブルの下で藤野谷の膝と脛が俺にぴったりとつけられている。スラックスごしに温もりが伝わってくる。俺は小声で用足しに行くと伝え、席を立った。廊下に出るとまた使用人が控えている。いったい何人雇っているのだろう。
手洗いは角を曲がったところにあった。一輪挿しのクレマチスが紫がかった青い花弁を広げている。手を洗い、鏡をみつめる。散髪したばかりの前髪の下で眼がやたらと大きくみえた。戻ろうと廊下にでたとき、渡来に出くわした。俺を待っていたようだった。前置きなしにたずねてくる。
「天藍の部屋はどうだね?」
「ええ……快適です」
「眠れている?」
「もちろん」
「それならいいが。天藍はあきらかに落ち着いたよ。私はきみが彼と一緒にいてくれて嬉しい。どうもありがとう」
「それは――俺の方こそ、ありがとうございます」
なぜか俺はほっとして、思わず長く息を吐いた。渡来の言葉には思いがけない安心感があった。今日初めて会った当主よりも渡来の方が、ずっと藤野谷の父親らしく感じたせいかもしれない。
「よく知っている相手でも、いざ共同生活をはじめると難しい場合もある。ゆっくり慣れていきなさい」
「すみません。気をつかっていただいて……」
渡来は肩をすくめた。
「ひとつききたかったんだが、天藍は藤野谷家の墓地に案内したかね?」
「いえ」
「きみには意味がないかもしれないが、葉月の墓もそこにある」
渡来は名刺ほどのカードを俺の手のひらに押しつけた。
「古参の使用人にはきみに葉月を連想する者もいるようだから、幽霊でないと証明しないと」
俺はあっけにとられた。渡来は無表情のまま続けた。
「ただの冗談だ」
俺はカードを受け取った。細いペンで寺の名前と住所が書いてある。
「俺は葉月に似ていますか?」
渡来はまた肩をすくめた。
「いくらかは。三十年も前のことだ。年寄りというのはどうしようもないもので、黙って立っていると面影をみてしまうんだろう」
そんなものだろうか。俺は無意識に渡来についていこうとしていた。「ダイニングルームはそっちだ」といわれ、あわてて反対を向いた。いったんやんだかにみえた雨のしずくがまた窓ガラスを濡らしている。扉は開いていた。藤野谷の声が聞こえ、敷居の手前で俺は足を止めた。
「お母さん。さっきもいいましたが、それは俺たちが決める事です。勝手に話を進めないでください」
「運命のつがい同士が結ばれるのはベータの世論にも受けがいい。これまで佐井家とうちの間にあったことも、この前の事件のことだって、世間には逆に好印象を与えるでしょう。藤野谷家だけでなく名族全体のイメージアップにもなる。大々的に式をあげた方がいいわね」
俺は一歩さがった。
「年齢を考えると子供は早めの方が楽でしょう? 抑制剤のおかげで成熟が遅れていたのは今回本当に幸運だったわ。葉月さんの時と違って、天藍が適合者なら番狂わせも起きない。私はあなたひとりしか産めなかったけれど、あなたに子供ができれば傍系と後継者でもめることもない」
感情のこもらない、平坦な声が挟まる。
「おまえのオメガは紫のように外向けの社交をせっせとしなくてもいい。多少のつきあいは必要だが、本来オメガには期待されていないわけだから……だが家系を存続させる義務はある」
「天藍。私がここに迎えられたのは、与えられたつとめを果たしたからよ。オメガ系の佐井家には義務なんて考えがないようだけれど」
怒りをはらんだ藤野谷の声が低く響いた。
「それが何だっていうんです? 大切なのは家ではなく人でしょう」
俺は廊下に立ちつくし、家族のいさかいを前に動けなかった。食事中はあちこちにいた使用人の影も見えない。
「家を守ることは義務でも責任でもあるわ」
「名族には社会的責任がついてまわる。私は一種の身代わりだ。それが不可能な人々の代わりに未来に投資する……」
「血縁なんていずれ時代遅れになりますよ」
紫につづいた当主の口調はゆったりしているのに傲岸な響きで、途中で藤野谷の声にかき消される。
「どうしても係累にこだわりたいなら、分家筋からアルファを探して後釜に据えればいい。当主が淡々と激務をこなされてきたことについては尊敬していますが、身代わりだなどといわれるのは残念です」
「ここにいるはずだった藍閃はいないが、役割は誰かが継がなければならない。それとも天藍、おまえは運命があるとでもいいたいか?」
「あなたのそんな投げやりな態度はまったく尊敬できません」
「天藍!」
紫の声が鋭く響いたが、藤野谷の言葉は続いた。
「だいたい運命ってなんですか? いったい葉月と藍閃に何があったんです? あなた方は誰も教えてくれない。どうして藍閃は藤野谷家を捨てたんです? 藍閃と葉月はまともに――つがいになっていましたか? 違うでしょう。それもこれも、葉月を運命のつがいから切り離したからだ。そのために藤野谷家は何をしたんです? 結局葉月は柳空良についていったんだから、結果は変わらなかったけれど、俺にとっては――」
床をこする音が聞こえ、俺は使用人の黒服がこちらへ近づくのをみてあわてた。追い立てられるように一歩部屋に入ったときだった。藤野谷が椅子を立ち、いいはなった。
「葉月がここを逃げたのは幸運でしたよ。そうでなければ俺のサエは生まれなかった。この家は役割を果たす人の集まりで、家族でもなんでもないかもしれないが、俺には彼がいる」
部屋の中にいた全員が突っ立っている俺を見た。
俺はどうしたらいいのかわからなかった。気まずい空気に押されるように振り向くと、すぐうしろに控えていた黒服の給仕と眼が合った。驚いたことに彼は訳知り顔な目つきでうなずき、右手をあげてどいてろ、とでもいうように指先を振った。俺の横をすり抜けるようにして中に入り、そのとき小脇にかかえた盆が床に落ちた。派手な音が鳴った。
一気に毒気を抜かれたような空気になったが、給仕は気にしたそぶりもなかった。盆をひろい、口笛でも吹きそうな飄々とした口調で藤野谷の両親にコーヒーのお代わりをたずねている。藤野谷がすばやく俺の横に立ち、腕に手を絡めた。
「今日は十分だ」
「――天、でも……」
「ここにいる必要はない。俺の家はここじゃない」
冷たい口調にどことなくぞっとした。藤野谷がこれをいっているのではなく、この屋敷がそういわせているような気がした。俺はテーブルの当主夫妻になんとか礼をして藤野谷のあとを追った。さっきまで見当たらなかった使用人たちの姿がちらほら廊下にあらわれている。大股で歩く藤野谷に追いつき、隣に並ぶと、片手を強くにぎられた。上がり框で革靴のひもを結び直しているあいだに藤野谷のSUVが正面につけられる。運転席をあけた藤野谷に誰かが話しかけている。渡来だ。
ふたりで何を話していたのか、俺が助手席へ座ったときには藤野谷の表情はいくらか柔らいでいたものの、あいかわらず硬かった。白い空から雨が落ちてくるのに、渡来は濡れながら俺に向かってガラス越しに手をふる。ワイパーが規則正しくフロントガラスの雨粒をぬぐった。藤野谷はFMのスイッチを入れ、黙って車を発進させた。
雨が降っている。
藤野谷の本家の敷地は四角く剪定されたマキの木の生垣に囲まれていた。重厚な瓦屋根の本邸は渡り廊下で別邸の洋風の建物につながっている。別邸の生垣の間には小さな戸口が切られている。
高校時代、俺は一度だけ、藤野谷に連れられてこの中へ入ったことがある。あのとき藤野谷はハンサムな顔をこわばらせて、すれ違う使用人を無視しながら、二階の自分の部屋まで俺を連れていった。扉を閉めて俺をふりむき、やっとみせた笑顔が印象的で、だから俺はいまだによく覚えているのだろう。
今日の藤野谷は本邸正面の車寄せにSUVを停め、待っていた使用人に鍵を渡した。すばやく降りて傘をさし、助手席のドアを開けてごく自然に俺を傘の下に入れる。玄関にも別の使用人が待ち、閉じた傘を受け取った。かすかに白檀と柑橘をあわせたような香りが水の匂いを消す。中では渡来が待っていた。藤野谷が挨拶し、俺たちは並んで廊下を歩く。
「葉月」
誰かがそう呼んだと思ったが、雨音のせいで聞き間違えたのかもしれない。一瞬だけ、声が藤野谷に似ていると思った。廊下の突きあたりに立つ影の前で俺たちは足を止める。アルファの例にもれず長身で、俺を斜めからみている。
窓の外で軒から垂れた雫が断続的に地面を打った。横に立った藤野谷が口をひらくまえに俺はいう。
「……はじめまして。佐枝零です」
「きみがそうか」
俺は会釈しながら次の動作に迷い、結局ジャケットのポケットから名刺入れを取り出した。名族の当主を前にしているのに自分でも不思議なくらい委縮はしなかった。その代わりのように、ひどい居心地の悪さ、おさまりの悪さを感じていた。この屋敷の空気や匂いは落ちつかない。
藤野谷藍晶は俺が差し出した名刺を無造作に受け取った。
「到着が遅れてすみません」
藤野谷が俺の横でいい、その声音と気配に俺は安心する。
「雨はひどいか?」
「そろそろ梅雨入りですから」
藤野谷家の総帥は先に立って部屋に入った。テーブルに銀器がセットされている。黒服の給仕が椅子をひき、俺は隣の藤野谷を意識しながら腰をおろした。花の香りがかすかにたち、藤野谷紫が微笑みながら入ってきて、優雅な動作で向かいに座る。
料理が運ばれてきた。器も盛りつけも美しかったが、味がよくわからなかった。来る前に何度も、家族だけの内輪の食事、ただの顔合わせだと藤野谷は強調したが、その通りだ。そして家族だけの会食にしては格式が高すぎるし、雰囲気が硬い。藤野谷家はいつもこんな様子なのだろうか?
当主に体調はどうかとたずねられ、俺は問題ないと答えたが、どうしてもぎこちなくなり、そんな自分を強く意識する。藤野谷の母の紫とは病院で一度会っているが、その時も同じだった。俺が拉致された事件も含め、最近の藤野谷家周辺の騒動自体については一切話題にならなかった。
箸をつけながら、藤野谷と当主がグループ企業のひとつについて話すのを俺は黙って聞き、治験の期間も含めれば一カ月以上、ほとんどニュースを追っていないことをあらためて自覚した。働きもせずに藤野谷の部屋でぬくぬくしているだけでは、世の中から置いてきぼりにされるばかりだろう。
当主はTEN‐ZEROの業績や新製品の売り上げについてたずね、藤野谷は具体的な数字をあげて順調だと答える。俺は内心ほっとした。ひそかに気にしていたにもかかわらず、怖くて聞けなかったのだ――もし俺の一件がTEN‐ZEROの障害になっていたら、落ちこむのは避けられない。
そこからギャラリー・ルクスの話が出て、国内と海外のアート市場やオークションに話題は変わった。窓の外の雨がやんでいるのに俺は気づいた。メインの皿が下げられて、口直しにシャーベットが出される。とくに理由もなく、テーブルはすこし沈黙し、そこに紫の声が軽く響いた。
「いつ、籍を入れるつもりなの?」
テーブルの下で藤野谷の膝が触れる。
「お母さん、急ぐ必要はないでしょう」
「そうかしら? 診断の結果に問題がなかったのは嬉しいことだわ。でも赤ちゃんができると体調も変わるから、式の準備は億劫になるわよ。本家としての準備も含めて早めに分家筋の親族に挨拶に行った方がいいわね。雑誌や新聞のおかげで余計な詮索をする伯母さま方や、うるさがたもいらっしゃるし。子供ができる前にうちの問題は落ち着くと示しておいたほうが、あとが楽よ」
「子供なんて――気が早すぎます。それに」
俺は黙っているつもりだった。それなのにこの時は藤野谷の声にかぶせるように口をひらいていた。
「――俺はベータとしての生活が長いので、いま子供がどうといわれても――現実感が湧きません」
スチール写真のように景色が一瞬固まった。シャッター音が聞こえたかのようだ。気まずい沈黙に俺は首をすくめそうになる。呪縛は食器が触れあう音で解けた。給仕が盆からコーヒーカップを配っていく。
「俺たちの問題です。決めたらお知らせします」
静かに藤野谷がいった。
「そう」
紫は俺と藤野谷を交互にみて、レース模様の白いカップを手に取った。彼女の指は細く長く、爪は真珠色と淡いピンクで塗られている。俺のカップに落としたミルクが褐色の液体の中で渦を巻いた。繊細な持ち手は簡単に折れてしまいそうだ。
突然俺は葉月のことを思い浮かべた。彼はこの家でどんな風に暮らしていたのだろう。このカップを使うこともあったのだろうか。
「大丈夫か?」
耳元で藤野谷がささやいた。テーブルの下で藤野谷の膝と脛が俺にぴったりとつけられている。スラックスごしに温もりが伝わってくる。俺は小声で用足しに行くと伝え、席を立った。廊下に出るとまた使用人が控えている。いったい何人雇っているのだろう。
手洗いは角を曲がったところにあった。一輪挿しのクレマチスが紫がかった青い花弁を広げている。手を洗い、鏡をみつめる。散髪したばかりの前髪の下で眼がやたらと大きくみえた。戻ろうと廊下にでたとき、渡来に出くわした。俺を待っていたようだった。前置きなしにたずねてくる。
「天藍の部屋はどうだね?」
「ええ……快適です」
「眠れている?」
「もちろん」
「それならいいが。天藍はあきらかに落ち着いたよ。私はきみが彼と一緒にいてくれて嬉しい。どうもありがとう」
「それは――俺の方こそ、ありがとうございます」
なぜか俺はほっとして、思わず長く息を吐いた。渡来の言葉には思いがけない安心感があった。今日初めて会った当主よりも渡来の方が、ずっと藤野谷の父親らしく感じたせいかもしれない。
「よく知っている相手でも、いざ共同生活をはじめると難しい場合もある。ゆっくり慣れていきなさい」
「すみません。気をつかっていただいて……」
渡来は肩をすくめた。
「ひとつききたかったんだが、天藍は藤野谷家の墓地に案内したかね?」
「いえ」
「きみには意味がないかもしれないが、葉月の墓もそこにある」
渡来は名刺ほどのカードを俺の手のひらに押しつけた。
「古参の使用人にはきみに葉月を連想する者もいるようだから、幽霊でないと証明しないと」
俺はあっけにとられた。渡来は無表情のまま続けた。
「ただの冗談だ」
俺はカードを受け取った。細いペンで寺の名前と住所が書いてある。
「俺は葉月に似ていますか?」
渡来はまた肩をすくめた。
「いくらかは。三十年も前のことだ。年寄りというのはどうしようもないもので、黙って立っていると面影をみてしまうんだろう」
そんなものだろうか。俺は無意識に渡来についていこうとしていた。「ダイニングルームはそっちだ」といわれ、あわてて反対を向いた。いったんやんだかにみえた雨のしずくがまた窓ガラスを濡らしている。扉は開いていた。藤野谷の声が聞こえ、敷居の手前で俺は足を止めた。
「お母さん。さっきもいいましたが、それは俺たちが決める事です。勝手に話を進めないでください」
「運命のつがい同士が結ばれるのはベータの世論にも受けがいい。これまで佐井家とうちの間にあったことも、この前の事件のことだって、世間には逆に好印象を与えるでしょう。藤野谷家だけでなく名族全体のイメージアップにもなる。大々的に式をあげた方がいいわね」
俺は一歩さがった。
「年齢を考えると子供は早めの方が楽でしょう? 抑制剤のおかげで成熟が遅れていたのは今回本当に幸運だったわ。葉月さんの時と違って、天藍が適合者なら番狂わせも起きない。私はあなたひとりしか産めなかったけれど、あなたに子供ができれば傍系と後継者でもめることもない」
感情のこもらない、平坦な声が挟まる。
「おまえのオメガは紫のように外向けの社交をせっせとしなくてもいい。多少のつきあいは必要だが、本来オメガには期待されていないわけだから……だが家系を存続させる義務はある」
「天藍。私がここに迎えられたのは、与えられたつとめを果たしたからよ。オメガ系の佐井家には義務なんて考えがないようだけれど」
怒りをはらんだ藤野谷の声が低く響いた。
「それが何だっていうんです? 大切なのは家ではなく人でしょう」
俺は廊下に立ちつくし、家族のいさかいを前に動けなかった。食事中はあちこちにいた使用人の影も見えない。
「家を守ることは義務でも責任でもあるわ」
「名族には社会的責任がついてまわる。私は一種の身代わりだ。それが不可能な人々の代わりに未来に投資する……」
「血縁なんていずれ時代遅れになりますよ」
紫につづいた当主の口調はゆったりしているのに傲岸な響きで、途中で藤野谷の声にかき消される。
「どうしても係累にこだわりたいなら、分家筋からアルファを探して後釜に据えればいい。当主が淡々と激務をこなされてきたことについては尊敬していますが、身代わりだなどといわれるのは残念です」
「ここにいるはずだった藍閃はいないが、役割は誰かが継がなければならない。それとも天藍、おまえは運命があるとでもいいたいか?」
「あなたのそんな投げやりな態度はまったく尊敬できません」
「天藍!」
紫の声が鋭く響いたが、藤野谷の言葉は続いた。
「だいたい運命ってなんですか? いったい葉月と藍閃に何があったんです? あなた方は誰も教えてくれない。どうして藍閃は藤野谷家を捨てたんです? 藍閃と葉月はまともに――つがいになっていましたか? 違うでしょう。それもこれも、葉月を運命のつがいから切り離したからだ。そのために藤野谷家は何をしたんです? 結局葉月は柳空良についていったんだから、結果は変わらなかったけれど、俺にとっては――」
床をこする音が聞こえ、俺は使用人の黒服がこちらへ近づくのをみてあわてた。追い立てられるように一歩部屋に入ったときだった。藤野谷が椅子を立ち、いいはなった。
「葉月がここを逃げたのは幸運でしたよ。そうでなければ俺のサエは生まれなかった。この家は役割を果たす人の集まりで、家族でもなんでもないかもしれないが、俺には彼がいる」
部屋の中にいた全員が突っ立っている俺を見た。
俺はどうしたらいいのかわからなかった。気まずい空気に押されるように振り向くと、すぐうしろに控えていた黒服の給仕と眼が合った。驚いたことに彼は訳知り顔な目つきでうなずき、右手をあげてどいてろ、とでもいうように指先を振った。俺の横をすり抜けるようにして中に入り、そのとき小脇にかかえた盆が床に落ちた。派手な音が鳴った。
一気に毒気を抜かれたような空気になったが、給仕は気にしたそぶりもなかった。盆をひろい、口笛でも吹きそうな飄々とした口調で藤野谷の両親にコーヒーのお代わりをたずねている。藤野谷がすばやく俺の横に立ち、腕に手を絡めた。
「今日は十分だ」
「――天、でも……」
「ここにいる必要はない。俺の家はここじゃない」
冷たい口調にどことなくぞっとした。藤野谷がこれをいっているのではなく、この屋敷がそういわせているような気がした。俺はテーブルの当主夫妻になんとか礼をして藤野谷のあとを追った。さっきまで見当たらなかった使用人たちの姿がちらほら廊下にあらわれている。大股で歩く藤野谷に追いつき、隣に並ぶと、片手を強くにぎられた。上がり框で革靴のひもを結び直しているあいだに藤野谷のSUVが正面につけられる。運転席をあけた藤野谷に誰かが話しかけている。渡来だ。
ふたりで何を話していたのか、俺が助手席へ座ったときには藤野谷の表情はいくらか柔らいでいたものの、あいかわらず硬かった。白い空から雨が落ちてくるのに、渡来は濡れながら俺に向かってガラス越しに手をふる。ワイパーが規則正しくフロントガラスの雨粒をぬぐった。藤野谷はFMのスイッチを入れ、黙って車を発進させた。
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