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第3部 ギャラリー・ルクス

21.窒息点(前編)

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 からからに乾き、なのに、ぺたりと足の裏に貼りついてくるようなねばついた土のうえを俺は歩いている。靴の裏に泥がからみついて一歩を踏み出すのが大変だ。遠くに白い塔のような建物がみえる。俺はあそこへ行くはずなのだが、当分たどりつけそうにない。
 頭のすぐ上に白と灰色の鳥がいて、尾羽で頬をぴしぴし叩くのが不愉快だった。俺は腕をふり、鳥を追い払おうとする。大声をあげようとして目をあけ、見慣れない背景にびくりとした。

「起きた。あー、起きました」

 グレーのシャツの上に白衣を羽織った男が俺を見下ろしていた。
 俺は腕をまっすぐ上に挙げた姿勢で、男の片手に吊るされるようにして、両方の手首をつかまれている。縛られているとわかるまでにすこし時間がかかった。男はもう片手でモバイルをもち、話しかけている。

「ないですね。どうみてもない」

 喋りながら男はいきなり俺の膝にのしかかり、押さえつけたまま俺の髪をつかんで引く。痛みに声をあげようとして、音が出なかった。唇の周りにぺたりと何かが貼り付けられているのだ。ぬるりと冷たい感触の指がうなじを触る。気持ち悪さに鳥肌が立つ。

「はあ? 聞かれても知りませんよ。とにかく無駄です、血を抜こうが首をぶった切ろうが。嫌ですね、もったいない」

 息が苦しかった。口の中が渇いてねばつき、頭の芯がガンガン痛む。顎や背中も痛く、男が何をいっているのか理解できなかった。声が出せないままもがくように体を揺さぶると、男は無造作に髪を離し、俺は反動であおむけに転がされた。体の下はマットレスのような弾力があったが、足首もまとめて拘束されているらしく、動かせない。

「で、どうします? ああ、ありますよ。それでいい? ここ、水は止まってないから四日は放置しておけますよ。そっちに戻ればいいですかね?」

 男はまだ二言三言喋ったが、それは外国語のような響きで俺には意味がわからなかった。通話を切って俺の膝から降り、立って白衣のほこりを払う。俺はベッドの上に転がされていた。両腕を頭の上で拘束されたまま、首だけなんとか前に曲げる。上に着ていたパーカーがなくなって長袖のカットソーだけになり、股の間も空気が通って心もとない。カーゴパンツが脱がされているのだ。

 男は俺を見下ろしてにやっとした。
「悪いな。下を脱がすと逃げにくくなるだろう? ズボンを履いていないと間抜けだもんな。上も脱ぎたいか?」
 かっとして俺は腰と足を動かそうともがいたが、ベッドを転がり落ちる寸前に手首をひっぱられて止まった。鎖か紐でつないであるらしい。男はまったく動揺していなかった。こんなことはよくあること、といったような雰囲気で、袋でも動かすように俺の体をベッドにひっぱりあげると、また膝の上に体重をかけて座った。俺に覆いかぶさるようにして手をのばす。一瞬すぐ上に男の顔があり、俺は目を瞬かせた。どこかで見たような気がした。

「―――んっ」
「あ、覚えてた?」
 男はにやっとした。
「うん、俺だよ。多趣味なんでね。有名人が写ってると実益をかねて売るんだよ。あんたと彼氏の写真はここ最近何度か撮ったよ。いい雰囲気だったしねえ。この手の写真ってブン屋さんまわりに需要があってさ。スピフォトの写真みた? よく撮れてただろう」
 俺の無言の抗議など素知らぬ顔で、男は手元をみながらぶつぶつ喋る。
「藤野谷家だと小遣い稼ぎになるだろうと思ったんだが、売った先では芋づるで情報山ほど出してきて、こっちのバイトにも関わってきたってわけ。タイミングがいいんだか悪いんだか」

 俺は首を無理やり前に曲げ、男の手元をみる。スタンプ状の針のようなものが見える。一部の予防接種に使われる注射器だ。あのコンビニで急に意識がなくなったのを思い出した。あの時も何か打たれたに違いない。

 背筋に寒気が走った。男は俺の顔をみてまたにやっとした。
「あんたを何日かここに置いておくためだよ」

 俺は声をふさがれたまま体を揺らし、膝をあげて抵抗しようとしたが、男は体重をかけて俺を押さえつけている。縛られた手首がぎりぎりと痛む。男は俺のシャツの左袖をまくりあげた。ちくっと肌の上に針が押しつけられる。痛い。俺は秒数をかぞえた。
 一、二、三、四、五。ひどく痛い。六、七、八、九、十。

 激痛に顔をゆがめていると、口をふさいでいたものを剥がされた。同時に押さえつけられていた膝も腕も解放されて、俺はそのままマットレスに転がり、叫び声をあげた。男は注射器をハザードマークのついたビニールバッグへ放りこみ、ジッパーを閉じる。

「もう少ししたら腕と足も解いてやるよ。この部屋の中では好きにしていい。すぐ外に出る気なんてなくなるから」
「……何を打ったんだ」
 手足を動かせないせいもあるのだろうか、まだ痛みが残って、俺は息を切らしている。

「よくある薬だよ。オメガを足止めするために昔からよく使われたやつ。効き目を確認したら出ていくから、しばらく大人しくしていてくれ。あっちがトイレだ」
「俺をここに閉じこめてどうするんだ」
「さあ。俺が考えることじゃない。これがあんたにとって幸か不幸かはわからないが、もし藤野谷の御曹司とつがいになっていたら、今頃はきける口なんてなくなっていたところだぜ。それにしても運命のつがいってあんなに騒ぎ立てられているのに、噛んでないってどういうことだよ。ヘタレもいいところだよなあ。運命のつがいってのはこんなの、すぐ終わらせてるもんじゃないの?」

 俺はもがくのをやめて男をみつめた。
「噛んでいたら――何だって?」
 男は薄いゴムの手袋をはずし、別の手袋をはめた。自分の首のうしろを指さす。
「あんたのここにあるやつ。受容器」
「――それが?」
「アルファがここを噛むだろ。受容器に体液が入り、反応が起きてつがいになる。みんな知ってる。で、ここにはアルファの遺伝情報が残るんだよ。これを分析すると名族の連中の生体認証の鍵がわかる。名族の財産はグローバル金融に分散されてて、本人の生体認証でしか解除できないが、つがいのオメガからそいつを抜きだせば簡単にアクセスできることになる。これはあまり知られていない。おまけについ半年前までは生きていないと抽出できなかった」

 俺の頭はゆっくりとその情報を咀嚼した。藤野谷がセキュリティのことを繰り返し口に出していたのは、このせいか。

「アルファがつがいのオメガをあれだけ必死になって守る本能の科学的根拠はこれなんだろうな。生体認証なんてなければ用無しだったんだが。それに以前は伴侶のオメガなんて、誘拐してゆすりの材料にする以外はありきたりの使い道しかなかったんだが、今は情報さえハックすればそんな面倒もいらなくなった。テクノロジーってすごいだろ。だから御曹司がヘタレでさえなければ、あんたの首があればそれで終わってたの。それが噛んでないなんて反則だよ。やっと隠れ場所をハックして流したのに」

 男は早口で平坦な口調でぺらぺらと喋り、俺の頭は半分くらいしかついていけなかった。最後の方だけが意識にひっかかり、やっとのことで渇いた唇をひらく。
「あの……俺の家にマスコミが来たのって――?」
 男は首をかしげた。
「ちょっと喋りすぎたな」
「待てよ、だったら――」

 もっと男から話を聞きだそうとしたそのときだった。俺の腰から背中の真ん中を激しい熱のような感覚が刺した。声にならない悲鳴をあげて、俺は両手首を拘束されたまま、背中をのけぞらせた。
「あ、効いたか」
 呑気な声が聞こえる。
「じゃあ外すか」

 足の拘束がなくなったとたん、腰の熱が足指の先端まで通りぬけ、皮膚の下をびくびくと走った。自由になったにもかかわらず、俺は男に抵抗するどころではなかった。いつのまにか腕の拘束も解かれて、マットレスの上に自分からうつぶせになっている。頭から足先まで全身の皮膚が熱く、痛いほどにも感じるが、痛みではなかった。もっとたちが悪いものだ。腰の奥に感じるうねりはヒートと同じだが――もっと熱い。

「おや、あんたの反応、ちがうな」
 男の呑気な声が聞こえる。
「ほかのオメガより効き目が強いのか? ヒートの誘発剤なんて最近は流行らないけどな、逃げられないのが便利なんだ。いい子にしてろ。また来るから」

 遠くでそう声がいったが、俺はもう理解していなかった。完全に腰が抜け、うつぶせになったまま体じゅうを走る熱に耐えている。喉の奥からくぐもった唸りがもれ、涙がこぼれた。いつものヒートのように、触ってほしいとか、快感が生まれるどころではない。ただの苦痛だ。

 マットレスのうえでどのくらいもがいていたのか、急にドサッと全身に衝撃が走る。ベッドから転がり落ちたのか。床は冷たかったが、俺の体は熱いままだ。仰向けのまま、手で闇雲に体じゅうをまさぐるが、無駄だった。

 ヒートになれば逃げられなくなるなんて、それどころじゃない。こんなのは文字通り熱病だ。俺自身の体を人質にとられているようなものだ。俺は床の上で体を折り曲げ、内側からおそいかかってくる獰猛な刺激に耐えた。



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