まばゆいほどに深い闇(アルファポリス版・完結済)

おにぎり1000米

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第3部 ギャラリー・ルクス

20.ゴーストの腕(後編)

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 峡は俺のスーツケースをひいてガレージへ降り、俺はスニーカーの紐を結んだ。隠し窓から外を覗くと、黒いバンが門扉の前に立つ人影を押しのけるように止まっている。助手席から大きな人影が降りる。
 影は門扉の前にいた人々より頭一つ抜き出すほど背が高く、幅も広かった。さらに運転席からもうひとつ、影が降りた。押し問答でもするかのように、詰め寄るように話している姿が見えたあと、門扉の前にたかっていた人の姿がうしろに下がった。
 後で降りた男が門を開け、大柄な方が車に乗り込むと、バンはなめらかに敷地に入ってきた。もうひとりの男が門を閉めてこちらに歩いてきた。
 渡来だ。

「門扉の鍵、かけてなかった?」
 たずねると、峡はかすかにうしろめたそうな顔をした。
「俺がこのまえ合鍵を渡した。今日の手順を決めた時に」

 俺の返事を待たずに峡はガレージのシャッターをあけた。黒いバンがうしろ向きに入ろうとしているのを悟り、俺はあわててロードを奥へ避難させる。渡来がバンの後からガレージに入ってくる。
「準備はいいかね?」
 挨拶もなしにそういって、バンの扉をあけると俺のスーツケースを中に入れた。
「県道に出るまでは座席の床にしゃがんで、頭を出さないようにしなさい」
「どうやって入ってきたんです?」

 俺の質問に、渡来はなんてつまらないことを聞くのか、とでもいいたげな表情をした。
「どうってこともない。単に彼がこの家の持ち主だと主張しただけだ。ひとの家の前で何をやっているのかとね」
 門扉の表札と同じ名前が載った名刺を俺の鼻先に突き出してみせる。運転席の大柄な男が無表情で俺をふりむいた。絵に描いたような強面だ。
「乗りなさい。まもなく出発する」

 バンが門扉から山道を抜けて県道へ合流するまで、俺はひざ掛けを頭にかぶり、シートの下にしゃがんでいた。「もういいぞ」という峡の声にひざ掛けをはねのけ、シートに体をずりあげる。
「コーヒー、飲むか」

 隣に座っていた峡がステンレスボトルを持ち上げた。いつの間に用意したのだろう。俺は内心あきれたが、紙コップに注がれた温かいコーヒーの香りには逆らえなかった。峡は前の席にボトルを回し、俺は渡来がコーヒーを注ぐのをみていた。交差点で車がとまり、ウインカーが点滅する。俺は自分が今どこへ向かっているのか把握しようとしたが、見当もつかなかった。

「どこへ行くんです」
 たずねながら俺は、ひょっとしてまたあの寺へ連れていかれるのだろうか、と思った。治験のあとに渡来が俺を一晩避難させた、都会の真ん中に隠された森のような家。だが答えは違っていた。

「藤野波理総合病院のゲスト棟に藤野谷家の特別室がある。前にきみを泊めたところだ。藤野谷本家や下手なホテルより外部と接触がないから、安全だろう」
「どのくらい……そこにいることになるんですか?」
「申し訳ないが、はっきり答えられない。出る前に峡さんの車をみたが、カーナビがハッキングされた可能性がある。誰がやって、マスコミにリークしたのかは調査中だが、あまりいい状況じゃない。しばらく外出もあきらめてもらうことになると思う」

 俺は口をひらいたが、いうべき言葉がみつからずにそのまま閉じた。
 藤野谷に俺がオメガだと知られた夜、連れていかれた部屋についてはもちろん覚えていた。高級ホテルのような一室だ。ガラスと鉄とじゅうたんの檻のような。たしかに安全にはちがいない。贅沢で無機質でよそよそしく、藤野谷家のイメージにぴったりあった場所だ。

「――なんだか、閉じこめられるみたいですね」
 渡来がふりむいた。俺の顔をみて、黙って手のひらを上に向ける。
 取りなすように峡がいった。
「まあ――仕方がない。しばらくは我慢するんだ。俺のせいでマスコミにみつかったとなると銀星にもいいわけが立たないしな」
「……峡のせいじゃないよ」
「それに藤野谷天藍にも会えるだろう。そうでしょう?」
 峡の言葉の後半は渡来に向けられたものだった。年配の男はうなずいた。
「ああ。毎日は無理だと思うが」

 峡は俺の肩をかるく叩き、慰めるように小さく笑った。俺は叔父がこれまで俺のためにさまざまな犠牲を払ってきたことを思い返し、峡のためにもこれが最善だと思いこもうとしたが、急に頭の片隅に浮かび上がった不安のような、恐れのような気持ちを抑えられなかった。

 きっと家を離れたせいだろう。あの家は八年のあいだ俺を守ってきた砦だった。藤野谷から逃げて、ベータのふりをして。あの家で俺はひとりだったが、それでもあそこで俺は作品と呼べるものを作ることができた。またあそこに戻れるのだろうか。それともこれからまったく別の場所へ行くことになってしまうのだろうか。たとえば藤野谷の実家の……。
 葉月。

 とつぜん、顔もろくにわからない産みの親の名前が思い浮かんだ。さらに藤野谷紫――藤野谷の母親が俺をみる、敵意ではないにしても好意にはとれない、あやふやで奇妙な眼つきも。

 俺はどこかで見た絵を思い出す。縦に長い灰色の小さな箱の中に人がいて、じっと真上を見上げている。箱の天辺の面だけが裏表ともに青く塗られていてドアはない。そして箱の外側は大きな手にがっしりつかまれていて、はるかな上空で巨人が首をかしげ、次にどこへこの箱を置こうかと思案している。
 箱の中の人は巨人の存在を知らない。彼はただ自分の上にある青をみつめている。彼にとっては上にみえる青は空なのだ。

 ふと、俺はずっと小さな箱のなかにいたのだ、という考えが頭の中に生まれた。ベータの偽装という箱、峡や佐枝の両親が守ってくれる箱、そしてあの家という箱。箱の中に留まっていれば安全で、怖いものから眼をそらし、ただ絵を描いていることができる。

 俺は無自覚にそう信じていたのだが、いったいこれでよかったのだろうか。俺は今度はこのまま藤野谷家という箱に移されてしまうのかもしれない。いや、藤野谷は――天はそんなことを認めないだろう。なぜなら天は俺が好きで、俺の描く絵だって好きだからだ。だが……。

「零?」
 峡がいぶかしげに俺をみつめる。
「大丈夫か?」

 俺は両腕を胸の前で組んで膝をみつめたまま、うなずいた。いつしか自分の中に生まれた不穏な考えと戦って、それで鼓動が速くなっていた。俺は自分に理屈をいい聞かせた。安全だと藤野谷家がいう場所で、しばらく時間をつぶせばいいだけだ。俺は何年もひきこもりのようなものだったのだから、外出ができないなんてたいした問題じゃない。藤野谷とも会えるのだから、待っていればいいのだ。

 彼を待って――そしてこの先ずっとあいつにぶら下がって生きるのだろうか。

 今朝みつけた匿名スレッドの中傷が頭をよぎる。どういうわけか藤野谷と関わるといつも、俺は俺の作品で自立できないままだ。今回にしたって――でも、これと関係なく俺はあいつがずっと好きで、それは運命のつがいだからとか、そんなこととも関係なく……。

 頭が混乱して目が回りそうになった。そういえば、加賀美がビデオ通話で話していたのはこのことだったのだろうか。藤野谷家が俺をがんじがらめにして押しつぶす、と彼はいったが、今まで俺は自分のことをそんな風に――客観的に考えたことはなかった。

 気持ちを鎮めようと俺は窓の外をみる。四車線の道路のこちら側はみょうにのろのろした動きだった。すこし先で事故があったらしく、電光掲示板が点滅している。反対側の車線はスムーズに流れている。向かっている病院はそれほど遠くないだろう。幅広い道路のはるか前方に高層ビルの複合体が砦のようにそびえている。

「零」
 もう一度峡が声をかけてくる。
「ほんとうに大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「ああ、うん。できればすこし……外の空気を吸いたい。トイレとか」

 車がゆるやかに止まった。運転手が舌打ちし、前の車のウインカーに向かって悪態をつく。すこし先に信号があるが、車の列はその前もずっと長く続いている。
 バックミラーに映った俺の顔は人形のように血の気がうせていた。峡が「渋滞でなければすぐに着くのに」とつぶやき、渡来に話しかける。

「なあ、すこし止まれないか? コンビニかファミレスか……」
「コンビニ――は反対側しか見えないな。こっち側は……歩くと遠い」
 眼をあげると渡来がカーナビの画面を確認している。
「すこし先が横断歩道だ。歩いて渡ればコンビニがある。動きだせばすぐ車を回そう。ひとりで行けるかね?」
 俺は大人しく答えた。
「はい。すみません」
「大丈夫か? 車がつくまで中にいろよ」

 峡ときたらまるで子供扱いだ。俺は叔父にうなずきかえしたが、ひどくみじめな気分だった。ドアをあけて車道に出ると車列は完全にストップしていた。
 横断歩道まで歩き、反対車線が赤になるのを見計らって渡った。どこにでもあるコンビニチェーンの店内でトイレに入り、洗面所で手と顔を洗う。売り場に戻って冷たい飲み物を買い、ガラス張りのイートインコーナーに座ると多少落ちついた気分になった。

 パニックに陥りそうだった自分が無性に恥ずかしくなる。すぐにバンが来るにちがいないが、気まずいといったらない。俺は窓の外をぼうっとながめた。いいかげん覚悟を決めればいいのだ。

 背後に誰かが立つ気配がした。俺の肘をなにか堅いものがかすめる。
「ん? すみませ――」

 ふりむこうとして、ふりむけなかった。いきなり強い力で両肘を背後から羽交い締めにされ、袖をまくられる。むき出しになった手首に針を打つような痛みが走った。わけがわからないまま反射的に俺はもがいた。つかんでいる腕をふりほどこうとしたが、今度は右耳のあたりで続けざまに強い衝撃が走り、声を上げようとした口を塞がれる。背中にまた衝撃を感じて、とろい頭がやっと、おまえは殴られているのだと警報を発したが、それが最後だった。

 滝を転がるように俺の意識はがくりと落ち、何もわからなくなった。



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