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第3部 ギャラリー・ルクス

18.ゴーストの腕(前編)

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「天、休んでいるのか?」
 眼の下に濃い影を浮かべている相手にかける言葉じゃない。そうは思いながらも、俺は画面の向こうの藤野谷に聞く。深夜だった。部屋にはパソコンが唸る音しか聞こえない。
『サエは?』
 ビデオ通話で聞く藤野谷の声は低く、すこしかすれ気味だった。
「俺は問題ない」
『だったら俺も問題ない』
 藤野谷は疲れた顔で笑った。
「まだ――いるのか、その……」

 口に出したものの、俺はどう言葉をつなげればいいのかわからなくなる。治験から戻って一週間たつが、藤野谷家の周辺にはまだリポーターが張りついているらしい。アルファの名族がタレントや芸能人さながら新聞や雑誌の社交欄でゴシップを流されるのはそんなに珍しくもないことだ、そう藤野谷も渡来も口をそろえるのだが、俺にはまともな事態には到底思えなかった。
 藤野谷は肩をすくめる。

『かなり減った。特にTEN‐ZERO周辺にはほとんどいない。藤野谷のグループ企業じゃないから人をつけるだけ無駄だと思ったんだろう。新製品の売上は落ちていないし、株は未公開だから』
「おまえの実家は?」
 藤野谷はまた肩をすくめた。かなり芝居がかったしぐさだった。
『さあね。群がっている連中は楽しんでいるだけだ。母は後ろ暗いことなど何もないと胸を張ってる。ただ藤野谷家は報道系のベータに昔から嫌われてる。時間がかかるだろう』
「そんなこと、知らなかったよ」
『知らなくていい。それよりサエの話をして』

 藤野谷が期待するように見るので、俺は話す。といっても、今日食べたものとか読んだ本とか、他愛のない話しかできない。何しろ俺はいま仕事もなくて暇なのだ。
 暇はあっても気持ちに余裕がないのか、家の中はいつになく散らかっていたが、掃除をする気になれなかった。絵を描いたり本を読むのに集中できなくなると手を動かせることを探し、今日など一日中、裏の壊れた柵を修理していた。明日は昼に峡が来るというから、その前にオイルステインを塗る予定だ。

 俺はつまらない話をしているだけなのに藤野谷の口元が嬉しそうにゆるむ。奇妙な焦りを感じて、声に出すつもりのなかった言葉が出ていた。
「天――会いたい」
 はっとして画面を見返すと、藤野谷は冷静な顔で俺をみつめた。
『サエ』

 たしなめるような声に俺はなんとなく苛ついた。大切なことから自分だけが置き去りにされているように感じた。
「後ろ暗いことがないのならべつにいいじゃないか。おまえがここに来れないなら、俺がおまえのところへ行く」
 藤野谷は暗い眸で俺をみつめて、それからきっぱりと首を振る。
『だめだ、サエ』
 俺は眉をひそめた。
「天、俺はマスコミなんてかまわないっていっただろう。おまえが心配なんだ」
『俺も大丈夫だ、サエ』
「いったい何があるんだ?」

 俺の声は苛立ちですこし大きくなっていた。藤野谷の顔が一瞬険しくなり、元に戻った。
『治験の前に名族のセキュリティが狙われている話をしただろう? 報道されていないが、警察が動いている事件がある。まだ捜査中だ。この犯人は主に名族の――伴侶を狙っている』
「……つがいにもなっていないのに」
 俺はつぶやいたが、藤野谷には聞こえなかったらしい。
『だからサエにすこしでも目立ってほしくないんだ。居場所がばれたらマスコミにまた燃料をくべることになる。それで』
「わかった。でも明日は峡が来る」

 話を変えたくて俺は藤野谷の言葉を途中で切った。藤野谷からは怒った様子も苛立ちも見えず、俺は逆に申し訳ない気分になった。
『峡さんか。よろしくいってくれ。俺のことは気に入らないだろうけど』
「そんなことはないよ。峡はものがわかる人だ」
『銀星氏は?』
「俺もどこにいるのか知らない。問題はないそうだ」

 俺の祖父、佐井銀星は藤野谷の実家のような隙をまったく見せなかった。俺を完璧に隠し通したときのように、祖父は家来筋の佐枝家ごと一時的に住まいを移していた。峡に張り付いていたリポーターは弁護士の警告を受けて引き下がったし、祖父には護衛もついたと聞いている。

 祖父の周到さは昔からだ。俺が生まれた時の戸籍ひとつとっても、書類上は何段階も間を踏んで、家来筋の佐枝家へ俺が引き取られたと簡単にわからないよう操作しているし(佐枝家では年の離れた兄弟のように扱われたのに、俺が峡を「叔父」と呼ぶのもこのためだ)葉月も空良の元へ戻ろうとして祖父の庇護を離れなければ、そのまま藤野谷家から隠れていることもできたかもしれなかった。

 もっとも、葉月には何か予感があったのかもしれない。
 今回、祖父は他の名族の助けを借りているようだった。資産もなく、銀星の代で終わりの家が、誰かの好意でここまで助けてもらえるのも奇妙だった。あるいはむしろそのせいなのか。佐井家にはもう利用価値がなく、残っているのは銀星が誰かと結んでいる信頼関係だけなのだ。
『鷲尾崎さん……かもしれないな。俺の実家とはまるで合わない人だから、逆にちょうどいいだろう』
 藤野谷がぼそっとつぶやき、時計をみた。とっくに日付は変わっている。




 薄暗いガレージにはロードバイクがひっそり鎮座している。
 修理が終わったのにたいして乗る機会もない。俺はシャッターを開け、門扉の先に峡の車があらわれるのを待った。結局昨夜もよく眠れなかった。

 空は俺の気分と裏腹に爽やかに晴れていた。五月の風が庭を囲む林からガレージへ針葉樹の匂いを運んで、ツーリングにいい気候だった。去年ならひとりでロードに乗り、遠出していただろう。今の俺ときたら、どうしても足りなくなった食料を買いに、二度近くのスーパーへ行ったくらいだが。

 体の線が出ない服を来て自転車用のゴーグルをかけ、ヘルメットをかぶると、ロード乗りのスタイルとしてはいまいちだが、誰に振り向かれることもじろじろ見られることもなかった。TEN‐ZEROの新しい香水も効いているにちがいない。
 ひと混みは避け、駅にも近寄らなかったし、寄り道もしなかった。一度だけ県道脇に止まった車に道を聞かれた。国道をまっすぐ進んでいたつもりが、間違ってそれてしまったらしい。差し出された地図は日本語ではなかったが、言葉は通じた。昨今はスーパーのレジもセルフだから生身の人間と話すこともない。

 だから今日、ガレージの前に車をとめた峡が開口一番「変な顔をしているぞ」といったのは、誰とも対面で話をしていなかったからか。
「なんだか新鮮で」
 俺は答えたが、峡は何を勘違いしたのか「新鮮な野菜ならたくさん持ってきた」といい、後部座席から段ボール箱やビニール袋をいくつもガレージに運びはじめた。
「零、何を食べたい?」
 俺は思わず吹き出した。
「いきなりそれ?」
「当たり前だろう。まずは飯だ。こういう時だからこそ」

 峡はさっさと家の中にあがりこみ、あたりを見回して、まっすぐキッチンへ行った。ガサガサと音を立て、テーブルに食料の袋を置く。何年も見慣れた光景だった。日常が戻ってきたようだ。
「いま峡が凝ってるものでいいよ」
「それがとくにないんだ。どうするかな。零がふだん食わないものにするか」
「じゃあ和食だな。佐枝の父さんが作るようなのがいい」
「母さんじゃなくて? ハードルを上げないでくれ」

 峡はすこし裏返ったような声をあげ、慣れた仕草でエプロンを腰に巻いた。箱から食料を取り出そうとした俺の手を「そこはいいぞ」といって止める。
「それより零、リビング。俺が作っているあいだに片づけろ」
 俺はうしろめたい気分でふりむいた。
「あ――あれは……」
「いま片づけるんだよ。飯ができるまでにな」

 峡は流しの水道をひねると俺を廊下の方へ押しやった。しぶしぶ俺はリビングへ行き、床のゴミや放り出したままの道具、紙や本を拾いあつめた。耳が寂しいのでテレビをつけると昼のワイドショーの最中で、スタジオにコメンテーターが並んでいる。別のチャンネルに変えようとして、俺はふと手をとめた。
 見覚えのある女性がいる。どこで見たのだったか。

『子供を産み、育てたいと思う感情は人間にとって自然なことで、権利として認められています。一方でセックスをしたくないとか、産みたくないという願いもまともな人間的感情で、尊重されるべきものです。アルファ名族が血統を重視するからといって、アルファを産むからといった理由でオメガを囲い込むなどもちろん認められません。セクシャルハラスメントで、あきらかな人権侵害です』
『それはもちろんでしょう。あ、でもセックスをしたくない、なんてことはあるんでしょうかね?』
 画面の中でどことなく下品な笑いが響く。
『ヒートが来れば、それはね』
『つまり自然な欲求として――』

「零?」
 峡が俺の背後から手をのばしてリモコンを取る。「そんなもの、見るな」
 峡はチャンネルを切り替え、映画チャンネルで画面を止めた。その時になって俺はやっと思い出した。ハウス・デュマーで俺を診た年配の女医だ。今と同じように、ゆったりとして力強さのある声だった。
 テレビに出演するような立場とは知らなかったが、デュマーはなんでも一級品を用意していたから、医者もそれなりの人材なのだろう。俺を診察したとき、彼女は何といったのだったか。

「おい、まだ片付いてないぞ」
 峡の声に俺は我にかえり、ゴミをかき集めた。
「零、大丈夫か? 銀星が心配してる。おまえもあっちに来た方がいいんじゃないかって」
「じいちゃんはどこに?」
「九州だ。古い知り合いの別荘にいる」
 九州だって? 俺は眉をしかめた。

「そんなの遠すぎる」
「遠いからいいんだ」
「だめだ。天に何かあったとき――」
「そうだろうな」
 峡は長いため息をつく。

「どうしてマスコミの連中、あんなに藤野谷家にくっついているんだ?」
「さあ。藤野谷家は報道系のベータとそりが合わないとか」
「藤野谷天青のせいだな。圧力をかけすぎて恨みでも買ったんだろう、あのじじい」
「今の藤野谷家にとっては迷惑な話だ」
「おまえはそういうがな」
 峡はあきらめたような表情で、突っ立っている俺の手からゴミ箱を取った。
「藤野谷紫はやり手すぎて引かれるタイプだ。肝心の藍晶は何を考えているかわからんようだし」
「名族のそういう事情って、この前の会合に行ってればわかってくるもの?」
「――まあな」峡はゴミ箱の底にぎゅうぎゅうに紙くずを詰めこむ。「零。最後までちゃんと片づけろよ」



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