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第3部 ギャラリー・ルクス
15.潜像の色(後編)
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渡来からモバイルに連絡が入ったのは、ちょうど黒崎さんとの話が終わったところで、すでに日が暮れていた。まるで見られてでもいるようなタイミングだ。搬入口で待つというので、俺はあわてていとま乞いをした。
プロの画商に作品を見られるのははじめてで緊張したが、黒崎の反応は悪くなかったし、アドバイスは役に立ちそうだった。以前彼に持ちかけられた新人の展覧会について、結局俺は新作で応募すると約束した。
外に出るとセダンが近づき、俺は後部座席をあけようとしたが、運転席で上がった手は助手席の方を指している。帽子のつばで視界が狭く、よく見えないままに俺は前の席をあけた。とたんにふわりと漂う香りが俺の意識をつつみこむ。
「天」
「帰るぞ、サエ」
藤野谷はあいかわらず疲れた顔をしていた。俺は黙ってシートベルトを締めた。ラジオから音楽が流れてくる。TEN‐ZEROのロゴ入りの紙袋と葉月の写真をわきに置くと、習慣で俺はポケットに飴を探した。今日は持ってくるのを忘れていたようだ。
「治験の話だけど」
唐突に藤野谷がいい、俺は身構えた。こんな狭い車のなかで口論になるのは嫌だった。
「何?」
藤野谷はちらっと俺をみて、道路に視線を戻した。
「……他社の新薬だからって引っかかって、色々いって悪かった。渡来さんがいうには葉月も……ヒートがとても辛いひとだったらしい。サエが楽になるためなら何でも試そう」
これは思いもよらない譲歩だった。ひどくほっとした。次に暖かい気持ちがのぼってくる。
「いや……俺も悪かった。苛々してしまって……ありがとう」と俺はいう。
「隔離試験だろう?」
藤野谷は静かな口調で、念押しするようにいった。
「ああ。長くて二週間、短くて五日。初日の検査結果で期間が決まるけど、入院することになる」
「そうか」
藤野谷は短くこたえ、突然俺は気がついた。治験に参加すると藤野谷から完全に離れることになるのだ。これまで数回参加した抑制剤の治験では、期間中アルファとの接触は禁じられるのがふつうだ。
ふいに意味のわからない不安が俺のなかにきざした。藤野谷に触れられないと自覚しただけでおかしなほど頼りない気分が襲ってくる。俺はシートベルトに指をかけ、突然の不安を殺すために話題を探した。いくらでもありそうなものなのに思いつかない。
「サエ」
「天」
俺たちは赤信号でなぜか同時に名前を呼び、顔を見合わせた。
「疲れているのに、悪い」
「勝手でごめん」
また藤野谷と声がかぶる。
ふたり同時にすこし笑った。俺も藤野谷も、苦笑いのようだった。
車を俺の家の前につけると、藤野谷は俺にまだ出るなといって、一度ひとりで外に出た。林に囲まれた家は暗く、何をそこまで警戒しているのか、俺にはやはり不思議に思えた。
「天、どうしてそんなに?」
車に戻り、またシートにおさまった藤野谷に俺はたずねた。門扉の小さなあかりに藤野谷の顔が浮かんだ。
「サエは……生体認証を登録したことはあるか?」
急にたずねられて俺はとまどった。
「いや? それ、銀行の話?」
「資産のセキュリティシステムのひとつだ。二十歳を過ぎた名族はみんな生体認証や遺伝情報で鍵を作っているが、最近名族のセキュリティが狙われる事件が多発していて、対策会議も開かれている。俺は……俺と関係があることでサエのセキュリティも破られないかと心配している」
「でも、天。俺には財産もないし、そんなセキュリティなんて意味ない。おまえならともかく」
藤野谷の唇から長い息が吐きだされた。
「ああ……そうだな……」
低くつぶやき、俺の方を向く。暗がりの中でも藤野谷のまとう色はちらちらと俺の視界で点滅し、安堵と切なさに心臓がどくどくと鳴った。藤野谷は片手をのばして俺の頬に触れ、俺はじっとしたまま、藤野谷の長い指が顎をなぞり、首筋から耳たぶをいじって、後頭部に回るのを感じていた。狭い車のなかで引き寄せられると、ダッシュボードに一方の肘が当たってゴツンと鳴る。藤野谷のもう片方の手が俺の腕から肘を撫でる。
「大丈夫?」と俺にささやく。
「ん……」
俺は魅入られたように眼のまえの眸をみつめてうなずいた。藤野谷のスーツの胸に顔を押しつけられ、髪のあいだに息を感じた。
「サエ――その治験がおわったら、俺とつがいになって」
藤野谷の腕のなかで俺も息を吐いた。ヒートでない時にいわれたのが嬉しかった。俺がまともに考えられる時に。
「天、でも……わからないのに……子供とか……」
「サエ――俺のことが好き?」
問いかける声はひどく小さかった。
「ああ。好きだよ」
俺はつぶやいた。藤野谷の胸に顔を寄せているせいで、くぐもって聞きづらい声になった。藤野谷の匂いにつつまれ、腕のぬくもりにゆるやかな興奮を感じる。呼応するように、俺の髪をかき回していた藤野谷の指が顎までさがり、持ち上げて、唇にキスをした。
「だったらそのままでいてくれ。それだけでいいから」とささやく。
俺がやっと車から降りたときも藤野谷はそのまま運転席に座っていた。深夜の飛行機で地方へ飛ぶ予定だというのだ。ガレージの鍵を開けた時も車はまだそこにあり、俺は藤野谷の色をみつめて、手を振った。
翌々日、治験のために訪れた施設は、いつものクリニックとは違う場所だった。
今回は峡が施設まで送ってくれた。治験にいい顔をしなくても、それ以上口出しもしない叔父に俺は感謝した。隔離試験といっても検査のあいだは暇なのがわかっている。俺は時間つぶしのスケッチブックや本を持ちこんだ。モバイルはあっても繋げられる場所が限られている上、電波がほとんど届かない。とはいえ施設は新しく、部屋は個室だった。
初日は検査に終わった。時間がかかる上にあまり楽しいとはいえない検査だ。とはいえ何度も受けているものではある。
オメガ男性用の内診や超音波検査の器具は女性のものとは違う。子供の頃は診察用のベッドに横向きで寝ていればよかったし、看護師がなんということもない調子で話しかけてくれたものだ。だがヒートがはじまってからは、検査のたびに専用の診察台にうつぶせにならなくてはいけない。腰を持ち上げた状態で、ジェルを塗った器具を挿入される。
診察台の周囲にはカーテンがかけられ、医者にも看護師にもこの姿勢を見られているわけではない。だが今日は器具を挿入されたままの時間がいつもよりずっと長く、俺は途中で、落ちつかないだけでなくおかしな気分になっていた。興奮したわけじゃない――安っぽいエロビデオでもあるまいし。
藤野谷のことを考えなかったといえば嘘になる。電波状況が悪いから、彼にはメッセージを送るくらいしかできそうになかった。やっと解放されると、抑制剤投与期間は十日間になると告げられた。
たった十日とはいえ、単調で退屈な十日間だった。投薬、食事、検査の合間はやることもなく、俺はスケッチブックを毎日絵で埋め、持ちこんだ本に集中しようとしたが、藤野谷を思い出すのを止められなかった。治験から戻ったらつがいに――と藤野谷はいったが、それは俺にヒートが来たときなのか、それとも違うのか。
三波は都合よく遊んでいればいいといったが、俺はいまだに、ヒートを三波のように軽く考えられなかったし、楽にも扱えなかった。藤野谷とつがいになるにしても頭がはっきりしているときがいい。ヒートで自分の体の制御がきかず、ひたすら泣かされている時は嫌だった。
つがいになるために噛まれるのはヒートの最中でなくてもいいはずだ。オメガの事情に俺がいくら疎くてもそのくらいは知っている。単にオメガがヒートの時期で、相手のアルファがラットすれば、前提となるセックスが容易だというだけの話だ。
施設は静かで、数名の看護師をのぞけばめったに話もしなかった。藤野谷には毎日テキストでメッセージを送ったが、送信は何とかなっても受信はうまくいかなかった。ここを出ればモバイルに一気にメッセージが溜まるにちがいない。退屈ではあったが、静かな空間で俺はせっせと鉛筆を動かし、集中してスケッチブックを埋めた。
投薬が終わった翌日、最後の検査を終えた午後、俺はやっとお役御免になった。まず峡に連絡して、施設の入り口で迎えを待ちながらこの十日間のメッセージを受信する。なかなか終わらない。
待っている間に、施設の前のロータリーを青のSUVが走ってくる。かなりのスピードで、どうしてそんな風に走るのだろうかと俺は思った。SUVにすがりつくように数台、別の車が追ってくる。俺は荷物を足元に置いたまま、ブルーの車体が自分の眼のまえすれすれに停まるのをなかばぼうっとしてみていた。後部座席のドアが開く。
「乗りなさい!」
渡来の声だった。俺は勢いに押されたように鞄をつかんで慌ただしく乗りこみ、ドアを閉めた。車はすぐに発進し、たちまち加速した。俺は運転席でハンドルを握る藤野谷の後頭部をみつめた。いつものようにまぶしい色と匂いを感じるが、今日はどこか精彩に欠ける。
「どうしたんだ? 後ろの車は?」
「リポーターだ。たぶん」
藤野谷が短くいった。
「リポーター?」
「治験で連絡がとれないあいだにまずいことになった」と俺の横で渡来がいった。「申し訳ないが、きみの家ではなく別の場所に避難してもらう」
「どういうことです?」
嫌な予感が足元から立ち上がるのを感じながら俺はたずねる。
車がガタンと揺れた。藤野谷は狭い街路を速いスピードで右に曲がり、左に曲がった。ビルの地下へすべりこみ、駐車場を一周し、また外に出て走り続ける。
「これだ」
渡来がタブレットの画面を俺へと差し出した。電子化された週刊誌の記事だ。首から上が切り取られた藤野谷の写真がまず目につき、ついで俺の顔が同じように並んでいる。巨大な文字が中央で踊る。
『運命のつがいの数奇なさだめ』
『二世代にわたる三角関係か?』
俺は細かい文字に眼を走らせようとしたが、渡来の方が速かった。すばやく機械をひいて画面を閉じる。
「読みたいなら、あとでゆっくり読める」
プロの画商に作品を見られるのははじめてで緊張したが、黒崎の反応は悪くなかったし、アドバイスは役に立ちそうだった。以前彼に持ちかけられた新人の展覧会について、結局俺は新作で応募すると約束した。
外に出るとセダンが近づき、俺は後部座席をあけようとしたが、運転席で上がった手は助手席の方を指している。帽子のつばで視界が狭く、よく見えないままに俺は前の席をあけた。とたんにふわりと漂う香りが俺の意識をつつみこむ。
「天」
「帰るぞ、サエ」
藤野谷はあいかわらず疲れた顔をしていた。俺は黙ってシートベルトを締めた。ラジオから音楽が流れてくる。TEN‐ZEROのロゴ入りの紙袋と葉月の写真をわきに置くと、習慣で俺はポケットに飴を探した。今日は持ってくるのを忘れていたようだ。
「治験の話だけど」
唐突に藤野谷がいい、俺は身構えた。こんな狭い車のなかで口論になるのは嫌だった。
「何?」
藤野谷はちらっと俺をみて、道路に視線を戻した。
「……他社の新薬だからって引っかかって、色々いって悪かった。渡来さんがいうには葉月も……ヒートがとても辛いひとだったらしい。サエが楽になるためなら何でも試そう」
これは思いもよらない譲歩だった。ひどくほっとした。次に暖かい気持ちがのぼってくる。
「いや……俺も悪かった。苛々してしまって……ありがとう」と俺はいう。
「隔離試験だろう?」
藤野谷は静かな口調で、念押しするようにいった。
「ああ。長くて二週間、短くて五日。初日の検査結果で期間が決まるけど、入院することになる」
「そうか」
藤野谷は短くこたえ、突然俺は気がついた。治験に参加すると藤野谷から完全に離れることになるのだ。これまで数回参加した抑制剤の治験では、期間中アルファとの接触は禁じられるのがふつうだ。
ふいに意味のわからない不安が俺のなかにきざした。藤野谷に触れられないと自覚しただけでおかしなほど頼りない気分が襲ってくる。俺はシートベルトに指をかけ、突然の不安を殺すために話題を探した。いくらでもありそうなものなのに思いつかない。
「サエ」
「天」
俺たちは赤信号でなぜか同時に名前を呼び、顔を見合わせた。
「疲れているのに、悪い」
「勝手でごめん」
また藤野谷と声がかぶる。
ふたり同時にすこし笑った。俺も藤野谷も、苦笑いのようだった。
車を俺の家の前につけると、藤野谷は俺にまだ出るなといって、一度ひとりで外に出た。林に囲まれた家は暗く、何をそこまで警戒しているのか、俺にはやはり不思議に思えた。
「天、どうしてそんなに?」
車に戻り、またシートにおさまった藤野谷に俺はたずねた。門扉の小さなあかりに藤野谷の顔が浮かんだ。
「サエは……生体認証を登録したことはあるか?」
急にたずねられて俺はとまどった。
「いや? それ、銀行の話?」
「資産のセキュリティシステムのひとつだ。二十歳を過ぎた名族はみんな生体認証や遺伝情報で鍵を作っているが、最近名族のセキュリティが狙われる事件が多発していて、対策会議も開かれている。俺は……俺と関係があることでサエのセキュリティも破られないかと心配している」
「でも、天。俺には財産もないし、そんなセキュリティなんて意味ない。おまえならともかく」
藤野谷の唇から長い息が吐きだされた。
「ああ……そうだな……」
低くつぶやき、俺の方を向く。暗がりの中でも藤野谷のまとう色はちらちらと俺の視界で点滅し、安堵と切なさに心臓がどくどくと鳴った。藤野谷は片手をのばして俺の頬に触れ、俺はじっとしたまま、藤野谷の長い指が顎をなぞり、首筋から耳たぶをいじって、後頭部に回るのを感じていた。狭い車のなかで引き寄せられると、ダッシュボードに一方の肘が当たってゴツンと鳴る。藤野谷のもう片方の手が俺の腕から肘を撫でる。
「大丈夫?」と俺にささやく。
「ん……」
俺は魅入られたように眼のまえの眸をみつめてうなずいた。藤野谷のスーツの胸に顔を押しつけられ、髪のあいだに息を感じた。
「サエ――その治験がおわったら、俺とつがいになって」
藤野谷の腕のなかで俺も息を吐いた。ヒートでない時にいわれたのが嬉しかった。俺がまともに考えられる時に。
「天、でも……わからないのに……子供とか……」
「サエ――俺のことが好き?」
問いかける声はひどく小さかった。
「ああ。好きだよ」
俺はつぶやいた。藤野谷の胸に顔を寄せているせいで、くぐもって聞きづらい声になった。藤野谷の匂いにつつまれ、腕のぬくもりにゆるやかな興奮を感じる。呼応するように、俺の髪をかき回していた藤野谷の指が顎までさがり、持ち上げて、唇にキスをした。
「だったらそのままでいてくれ。それだけでいいから」とささやく。
俺がやっと車から降りたときも藤野谷はそのまま運転席に座っていた。深夜の飛行機で地方へ飛ぶ予定だというのだ。ガレージの鍵を開けた時も車はまだそこにあり、俺は藤野谷の色をみつめて、手を振った。
翌々日、治験のために訪れた施設は、いつものクリニックとは違う場所だった。
今回は峡が施設まで送ってくれた。治験にいい顔をしなくても、それ以上口出しもしない叔父に俺は感謝した。隔離試験といっても検査のあいだは暇なのがわかっている。俺は時間つぶしのスケッチブックや本を持ちこんだ。モバイルはあっても繋げられる場所が限られている上、電波がほとんど届かない。とはいえ施設は新しく、部屋は個室だった。
初日は検査に終わった。時間がかかる上にあまり楽しいとはいえない検査だ。とはいえ何度も受けているものではある。
オメガ男性用の内診や超音波検査の器具は女性のものとは違う。子供の頃は診察用のベッドに横向きで寝ていればよかったし、看護師がなんということもない調子で話しかけてくれたものだ。だがヒートがはじまってからは、検査のたびに専用の診察台にうつぶせにならなくてはいけない。腰を持ち上げた状態で、ジェルを塗った器具を挿入される。
診察台の周囲にはカーテンがかけられ、医者にも看護師にもこの姿勢を見られているわけではない。だが今日は器具を挿入されたままの時間がいつもよりずっと長く、俺は途中で、落ちつかないだけでなくおかしな気分になっていた。興奮したわけじゃない――安っぽいエロビデオでもあるまいし。
藤野谷のことを考えなかったといえば嘘になる。電波状況が悪いから、彼にはメッセージを送るくらいしかできそうになかった。やっと解放されると、抑制剤投与期間は十日間になると告げられた。
たった十日とはいえ、単調で退屈な十日間だった。投薬、食事、検査の合間はやることもなく、俺はスケッチブックを毎日絵で埋め、持ちこんだ本に集中しようとしたが、藤野谷を思い出すのを止められなかった。治験から戻ったらつがいに――と藤野谷はいったが、それは俺にヒートが来たときなのか、それとも違うのか。
三波は都合よく遊んでいればいいといったが、俺はいまだに、ヒートを三波のように軽く考えられなかったし、楽にも扱えなかった。藤野谷とつがいになるにしても頭がはっきりしているときがいい。ヒートで自分の体の制御がきかず、ひたすら泣かされている時は嫌だった。
つがいになるために噛まれるのはヒートの最中でなくてもいいはずだ。オメガの事情に俺がいくら疎くてもそのくらいは知っている。単にオメガがヒートの時期で、相手のアルファがラットすれば、前提となるセックスが容易だというだけの話だ。
施設は静かで、数名の看護師をのぞけばめったに話もしなかった。藤野谷には毎日テキストでメッセージを送ったが、送信は何とかなっても受信はうまくいかなかった。ここを出ればモバイルに一気にメッセージが溜まるにちがいない。退屈ではあったが、静かな空間で俺はせっせと鉛筆を動かし、集中してスケッチブックを埋めた。
投薬が終わった翌日、最後の検査を終えた午後、俺はやっとお役御免になった。まず峡に連絡して、施設の入り口で迎えを待ちながらこの十日間のメッセージを受信する。なかなか終わらない。
待っている間に、施設の前のロータリーを青のSUVが走ってくる。かなりのスピードで、どうしてそんな風に走るのだろうかと俺は思った。SUVにすがりつくように数台、別の車が追ってくる。俺は荷物を足元に置いたまま、ブルーの車体が自分の眼のまえすれすれに停まるのをなかばぼうっとしてみていた。後部座席のドアが開く。
「乗りなさい!」
渡来の声だった。俺は勢いに押されたように鞄をつかんで慌ただしく乗りこみ、ドアを閉めた。車はすぐに発進し、たちまち加速した。俺は運転席でハンドルを握る藤野谷の後頭部をみつめた。いつものようにまぶしい色と匂いを感じるが、今日はどこか精彩に欠ける。
「どうしたんだ? 後ろの車は?」
「リポーターだ。たぶん」
藤野谷が短くいった。
「リポーター?」
「治験で連絡がとれないあいだにまずいことになった」と俺の横で渡来がいった。「申し訳ないが、きみの家ではなく別の場所に避難してもらう」
「どういうことです?」
嫌な予感が足元から立ち上がるのを感じながら俺はたずねる。
車がガタンと揺れた。藤野谷は狭い街路を速いスピードで右に曲がり、左に曲がった。ビルの地下へすべりこみ、駐車場を一周し、また外に出て走り続ける。
「これだ」
渡来がタブレットの画面を俺へと差し出した。電子化された週刊誌の記事だ。首から上が切り取られた藤野谷の写真がまず目につき、ついで俺の顔が同じように並んでいる。巨大な文字が中央で踊る。
『運命のつがいの数奇なさだめ』
『二世代にわたる三角関係か?』
俺は細かい文字に眼を走らせようとしたが、渡来の方が速かった。すばやく機械をひいて画面を閉じる。
「読みたいなら、あとでゆっくり読める」
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