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第3部 ギャラリー・ルクス
8.明るい鏡(後編)
しおりを挟む『 singularity ――シンギュラリティという言葉は近年、技術的特異点についてのみ取りざたされていますが、本来の意味はたぐいまれなことや、非凡さ、単独性を意味する言葉です。今回のTEN‐ZEROの製品は、人それぞれが本来もっているオリジナルな匂いを直接解析、拡張して、個人の存在を〈匂い〉という概念において拡張するもので……』
いざ会見がはじまると俺は司会者の言葉を半分うわのそらで聞いていた。俺のいる関係者席からは知っている姿がいくつか眼につく。ギャラリーオーナーである黒崎さんが会場の端に立ち、並べられた椅子に峡が座っている。アナウンスの途中で見覚えのある長身がすべりこみ、後方に腰をおろす。加賀美だった。
俺は一瞬はっとして、つぎに自意識過剰だと自分にいい聞かせる。名族の会合でマスターがいったように加賀美は黒崎さんが独立して以来の顧客で、このギャラリーにも協力しているという話だから、ここにいても不思議はない。
会見自体はあっさりと終わった。もっとも、最後の方で司会者に参加アーティストとして紹介されたときはすこし足が震えて、その瞬間はもう帰りたいと願った。手招いている藤野谷の横に出て、俺は軽く頭を下げる。それだけのことに震えてしまうのは、こんな風に人が居並ぶ場所に立つ機会などないせいだ。
顔をあげたとき、目の前にずらりと座る見慣れぬ人々のなかに暁の顔が浮いて見えた。一瞬眼が合ったと思ったが、暁は眉をあげていぶかしげな表情をしている。なんとなく胸騒ぎがした。会見が終わると人々はざわめきながら立ち、その中で俺は暁の姿を探したが、みつからなかった。
かわりに寄ってきたのは叔父の峡だ。「よかったな、零」という顔に満面の笑みを浮かべている。峡がこんなにうれしそうなのは何年ぶりだろうと俺は思い、内心反省した。なにしろ、峡が渋い顔をするのはたいてい俺に原因があるからだ。
「佐枝さん、控室に戻りますか?」
「鞄をとりにいくよ」
俺は声をかけてきた三波をふりむく。思いついて紹介することにした。
「三波、彼は叔父の佐枝峡。峡、彼は三波――」
何だっけと困惑したとき、三波から口を出してくれた。
「朋晴です」
「TEN‐ZEROのエンジニアで、今回のプロジェクトのチームメンバーなんだ。若いけど凄腕で、三波がいないとこんなにうまくいかなかった」
俺の説明に「それはすごいな」と峡が三波に笑顔を向け、手を差し出した。
「どうもありがとう。叔父の峡です。零が世話になったようで」
「いえ――まさか。僕は零さんのファンなので……」
どういうわけか三波の声は小さく、自信なげな調子に響いた。俺とちがって初対面の人間にも気おくれしないたちだと思っていたので意外だった。しかし峡にわざわざ来てくれた礼をいって別れ、エレベーターに乗ると、三波は「叔父さんって何をしているんですか」とたずねてきた。
「峡? 医者だよ」
「名前で呼ぶんですか?」
「変かな。習慣なんだ。俺は養子だし、叔父甥って関係も書類上そうなっているだけで、実際は兄みたいなものだから」
そうですか、と三波は小さな声でいった。
「どうした?」
「なんでもないです。それより佐枝さん、僕の名前おぼえてなかったでしょう」
ズバリといわれて俺はどきっとした。
「ばれてた?」
「かまいませんけどね。鷹尾の名前も覚えてないでしょう?」
「うん。ごめん」
「ばらしはしません」
にやにやしている三波と別れて、最後にコーヒーでも飲もうと俺はひとりでカフェに入った。久しぶりに顔をみたマスターはいそがしそうで、とても話しかけられる様子ではなかった。フロアのアルバイトもまだ慣れていない様子だ。
店の名前は「Cafe Nuit」となっている。ルクスは光を意味するが、こちらはフランス語で夜というわけだ。それを狙ったかのように壁には小さな窓しかなく、キノネのように明るい店ではないが、テーブルの広さも間隔もゆったりしていた。
ひとつの壁は書棚で覆われて写真集や画集がディスプレイされ、上部のスクリーンにはゆっくりした動きの映像が流れる。奥の席にはデスクライトがキリンのように首をのばし、その下で読書中の客もいる。
コーヒーの味はキノネと同じだった。俺はしっとりした光沢のあるテーブルの暗い木目を指でなぞる。気配を感じて目をあげる。
「疲れた?」
抑えた声で藤野谷がいった。
「いや。発売おめでとう。まあ、これからが本番だろうけど」
「そうだな」
藤野谷は椅子をひいて座りながら「もう帰るのか?」とたずねた。俺がうなずくと「夜に本社で軽く打ち上げるが――」といいかける。俺は手をあげてさえぎった。その話なら三波からも聞いていた。
「俺はいいよ。遠いし」
「送る」
「やめとけって。だいたいおまえ、今日帰って来たばかりなんだろう」
藤野谷の目のしたにうっすらと隈がみえていた。心配になって俺はたずねた。
「明日は休めるのか?」
藤野谷は俺の目をみつめながら答える。
「明日も早朝の飛行機で出張」
「国内?」
「いや。戻りは五日後。時差は九時間」
藤野谷は俺の前のコーヒーカップを断りもなく持ち上げ、口をつけた。
「全部飲むなよ」と俺は釘をさす。
「サエ、飲み終わったら行く?」
「ああ。おまえは?」
「一緒に出る。明日も連絡する」
「無理するなよ。時差九時間だと……」
藤野谷の指がカップのふちを叩いた。
「変な時間にかけたらごめん」
俺はそっと息をつく。
「天、気にするな」
カフェの外に出ると風がすこし強く吹き、桜の花びらがはらはらと舞っていた。藤野谷は俺の背中に腕をまわして耳元にかするようなキスをおとし、すばやくギャラリーの方へ歩いて行った。俺は緑道を横切ったが、ふとシャッター音を聞いた気がしてあたりを見回した。
花見酒こそ見当たらないが、緑道をそぞろ歩く人々の数は増えているようだ。花盛りの枝にカメラを向ける姿もある。俺は肩に落ちた花びらをはらった。
新製品「TEN‐ZERO/Singularity」の売れ行きは好調のようだった。
プロモーション映像も、業界内部だけでなくSNSで一般に拡散された。普通はあまり接点のないアートやファッション系のウェブサイトで取り上げられたせいか、直接の取材の申し入れがTEN‐ZEROまで来たと連絡があった。
俺は迷ったが、TEN‐ZERO広報部の勧めで取材に応じることにして、いくつかのメディアでインタビューを受けた。
ウェブや雑誌に公開されたものを読むと、藤野谷が自社の製品をきちんと説明しているのに対し、俺はしどろもどろで、どうしようもないことしか喋っていない愚か者に思えた。作品映像と並べて俺の写真も載ったが、メディアのカメラマンに撮られた自分の顔に俺はいまだに違和感を持っていた。
あまり気にすることではないのかもしれない。写真うつりがよくなった程度に思っておけばいいのだろうか。
藤野谷は取材のたびに自分で俺を迎えにきた。一度はどうしても都合がつかなかったといって渡来が迎えにきたが、俺が自分で本社へ行くといっても藤野谷は頑としてきかなかった。
新製品の発売から藤野谷はますます忙しくなり、三月の一時期のように、たとえ五分だとしても、俺の家へ立ち寄るのは厳しい状況になったらしい。その代わり頻繁に俺のモバイルへ連絡を寄こし、たまに俺を脱力させる駄洒落をいう。
「天」
今日も迎えにきた車の中で、信号待ちのあいだ、俺は口をひらく。午後の早い時間だが、空は雲が厚くかさなり、重苦しい印象だった。
「何?」
「おまえ、大丈夫?」
「何が?」
「寝落ちしただろう。昨日の夜」
藤野谷の車はいつもラジオが鳴っている。何か月もチャートのトップにいるラップのリズムに合わせ、ハンドルを叩く藤野谷の指が止まり、また動いた。
「そうだな。ごめん」
「そうじゃなくて、俺と電話で話すのもいいけど、ちゃんと寝ろよ」
「サエと眠れないから、無理」
「天」
「それともサエが俺の家に来る?」
俺はポケットに手をつっこんだ。飴のパッケージが指に触れる。紙を剥がして口に放りこんだ。
「――いいよ」と答えた。
「サエ、飴くれよ」
俺の方を見もしないで藤野谷がいった。俺はあきれた。
「おまえ昔から俺に飴をたかるけど、ほんとは好きじゃないんだろ?」
「サエの飴は別」
藤野谷は俺にちらりと流し目をくれる。
「サエが今舐めてるのでいい」
「新しいのをやるって」
「今サエの口の中にあるのがほしい」
本気の声だった。俺はためらい、それから急に馬鹿馬鹿しくなって自分の口に指をつっこみ、飴を取り出した。チェリー味。濡れて艶のある珊瑚のようなピンク色だ。藤野谷の口元に差し出すとおとなしく唇をひらくので、そのまま放りこむ。
藤野谷は黙って飴を舐めていた。
「やっぱりいい」と、唐突にいった。
「何が?」
「俺の家に来なくていい。俺が行くから」
「どうして?」
「俺の家に来たら――俺はきっとサエを帰せなくなる。サエが嫌がっても、閉じこめてしまう」
俺が黙っているあいだに藤野谷はワイパーを動かした。雨が降りはじめていた。フロントガラスにぽつぽつと落ちた雫をワイパーが拭っていく。
この日の取材は海外メディアのインタビューで、新製品のコンセプトと俺の映像作品にどういった関連があるのかといった、つっこんだ内容をたずねられた。インタビュアーは灰色の眼をした金髪の女性で、彼女の進行が上手かったのか、俺はひさしぶりにきちんと話ができたような気がした。持参したポートフォリオも熱心に見てくれて、これまでのメディア取材とは段違いの充実感があった。
取材が終わると藤野谷は送ると主張したが、俺は断ってTEN‐ZEROを出た。相変わらず雲は厚く、雨粒がたまに落ちてくるような天気のままで、空気は湿ってむっとしている。薄暗く、もう夜になったように街灯が道を照らしている。俺はギャラリー・ルクスへ寄って帰るつもりだった。ここからなら地下鉄を一度乗り換えるだけで、三十分もかからない。
社屋の正面玄関を出て数歩進んだとき、視界のはしを不自然に通る影をみたように思った。俺はあたりを見回し、植込みのすき間に目立たない風体の男が立っているのに目をとめた。顔をそらし、俺の方を見ているわけでもないが、首にカメラを下げている。
俺はプレス発表の日の三波の言葉を思い出した。それだけでなくもっと昔のことも思い出した。大学四年の最後の日々に俺につきまとっては隠し撮りをし、匿名で中傷してきた連中のことを。
ぞっとして足早に通りへ出ると地下に降りた。電車を乗り継いで地上へ出たとき、ギャラリー・ルクスが面する緑道公園にはしとしとと雨が降っていた。ほとんどの木が葉桜に変わるなか、枝にしがみつくようにして残った花が、雨に白くにじんでいる。
俺は神経質にあたりをみまわした。誰もいない。当然だ。
それなのに不安は去らなかった。散り落ちた桜の花びらは茶色になって、アスファルトの上でひしゃげていた。
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