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第3部 ギャラリー・ルクス
6.針穴の焦点(後編)
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アルファはつがいと見定めたオメガに執着する。
アルファはつがいにしたいオメガを自分の匂いがついた物で囲い込もうとする。アルファが裕福な場合はとくにそうだ。オメガはアルファの匂いに囲まれて――やがてそのアルファに慣れる。
世間ではほとんど冗談半分でいわれていることだ。だが名族の会合が終わったあと、俺はこれが事実なのだと驚かざるをえなかった。藤野谷は毎日俺の家にやってくると、ほんの短い間でも俺にべたべたと触り、キスをして、あげく何か忘れていくか置いていくのだ。これが何度も続き、実際に俺は藤野谷の匂いや存在に慣れた。
慣れた、としかいいようがなかった。あいかわらず藤野谷のまわりに俺はあの形容しがたい色をみて、匂いを感じると動悸が速くなったり、逆に安心したりするが、身構えて緊張することはなくなった。何年もかけて慎重に築いてきた警戒の壁がこんなにあっさり消えてしまうなんて、おかしな話だ。さらにここ三日くらい、ガレージから藤野谷の姿をみると、俺の足はふわふわとおぼつかなくなってくる。
今日の藤野谷はいつもの青いSUVから降りてきたが、大きな紙袋を両手に下げていた。三つ。いや四つ。いったいどうしたのか。俺の怪訝な眼つきに気づいていたに違いない。ガレージに入ってくると開口一番「プレゼント」といった。
俺は聞き返した。
「何の」
「来週のプレス発表のときに着て」
紙袋のふたつには高級ファッション誌でみるブランドロゴがついていた。その場で上から中身をのぞくと下着からジャケットまでひとそろいで、怪我をしたときに渡来が持ってきた服を思い出させる。ブランドはちがうが、値段の桁はたぶん同じだろう。
俺は顔をしかめたが、藤野谷の表情は否定的なことをいうにはあまりにも期待に満ちていた。
「わかった。ありがとう」
藤野谷は心底うれしそうな顔をして微笑んだ。
「やっと終わりだ。いや……はじまりというべきか」
日が暮れかけていた。ガレージの中はもう薄暗い。藤野谷は紙袋を俺の手から奪うと、するりと俺の肩に腕をまわす。くつ脱ぎへ俺の体を押しやるようにして、上がり框に紙袋を置くと、俺の首筋に顔を埋めた。そのままの姿勢で「上がっていいか?」と聞くので、俺は思わず笑った。
「またすぐ帰るんだろう」
「今日は大丈夫だ」
家に上がると俺はリビングに紙袋を置いて作業部屋へ戻った。今日の藤野谷は俺が納品を終えたところであらわれたので、悪いタイミングではなかった。
作業用パソコンの電源を落としていると藤野谷は入口をふさぐように立ち、部屋の中を見まわしていた。スケッチブックを並べた棚の扉が開けっぱなしで、息抜きに落書きをしたクロッキー帳も広げてある。俺はクロッキー帳を閉じ、棚の扉を閉めた。ふりかえると藤野谷はまだ同じ場所にもたれていた。リビングの方へ行けと手で示しても動かない。
「天?」
ふうっと息を吐く音が聞こえた。
「サエ」
「何?」
腕が伸びて俺の背中に触れる。
「あれ、何が描いてあるんだ?」
「あれって」
「あの棚の中。絵だろう? サエの」
「そうだけど……いろいろだよ。落書きが多い」
「見たい」
俺は一瞬固まって、それから小さく首を振った。
「そのうちな。気が向いたら」
藤野谷は長く細く、息を吐きだした。
「たまに考えるんだ。サエを……」
小さくささやく。手のひらが俺をひきよせ、背中を撫でている。
「どこかに閉じこめて……俺だけをみているようにできたらいいのに」
俺はまた首を振った。
「そんなの無茶苦茶だ」
藤野谷はうすく笑った。
「そうだな。俺もそう思う」
俺は言葉を探した。
「いまおまえを見てる。それじゃだめなのか?」
藤野谷は目を細めた。かすかに目尻に皺が寄る。とても優しい目つきだった。光線のためか疲労の影が濃くみえる。俺たちはもう学生ではないのだ。
俺は思わず眼の前の顔に手を伸ばしたが、藤野谷は避けなかった。目尻をなぞって藤野谷の髪に触れる。どちらからともなく顔を近づけて、唇を重ねた。
このごろは毎日、藤野谷に会うたびにキスをしている気がする。そんな内心のささやきも唇と舌の感触に消え失せる。チュッと小さな音が鳴る。
「骨は大丈夫か?」
藤野谷がささやく。
「たまに痛むくらいだ」
胸の下、左の脇腹にはまだサポーターを締めていた。痛むたびに湿布を貼っているが、それだけだ。藤野谷の腕がいたわるように俺の背中を抱く。服ごしに感じる体温が心地よかった。何年ものあいだ藤野谷に出くわすたび、彼に触れるたびにヒートが来て、それをずっと恐れていたのに、今は平気なのが不思議なくらいだった。
藤野谷は俺の頭を手で支えながらまた唇を押しつけてくる。ヒートでないときにこうしてキスができるのがうれしかった。このままセックスしたらどうなのだろう、という考えが頭をかすめる。ヒートの時期は熱っぽくなっていつも頭がぼうっとしているし、かならず体の欲望に負けてしまうから、そうでないときに藤野谷と……。
はっとして俺は唇を離した。顔に血が上るのを自覚する。
「サエ……?」
藤野谷がいぶかしげな声を出す。
「なんでもない」
俺は背中にまわった腕をほどき、藤野谷の肩を押した。
「リビングへ行けよ。晩飯はどうする? 食べたいなら――」
「食べたい」
俺に最後まで喋らせない勢いで藤野谷はいった。
「俺が作るけど」
「断然食べたい」
リビングへ行けといった俺の話をまったく聞かずに藤野谷はキッチンについてきた。俺はストックした食材で夕食を作った。ジャガイモといんげんをつけあわせにした鶏のソテー。トマトのサラダ。コンソメスープ。
換気扇を回す音や肉が焼ける音でキッチンはうるさく、俺も藤野谷も何も話さなかった。それでも俺は背中にずっと視線を感じていた。ふりむくとテーブルに肘をついた藤野谷と眼が合う。そのたびに藤野谷は口元をゆるめて笑い、俺の胸の内側はふんわりと暖かくなった。悪くなかった。峡と料理をするときともちがう居心地の良さだ。
料理ができあがるとそのままキッチンのテーブルで食べたが、俺たちはあまり話さなかった。あの朝もそうだったと俺は思いだす。目覚めたとき、藤野谷が俺の隣にいた、あの朝だ。
食事を終えると藤野谷は帰った。明日は五時起きで飛行機に乗り、戻りはプレス発表の直前だという。
とっくに外は暗くなっていた。藤野谷は運転席から手を振った。俺は庭で車が出るのを見送り、門扉をしめた。急に体の半分が空になったような寂しさを感じ、足早に家に入った。
アルファはつがいにしたいオメガを自分の匂いがついた物で囲い込もうとする。アルファが裕福な場合はとくにそうだ。オメガはアルファの匂いに囲まれて――やがてそのアルファに慣れる。
世間ではほとんど冗談半分でいわれていることだ。だが名族の会合が終わったあと、俺はこれが事実なのだと驚かざるをえなかった。藤野谷は毎日俺の家にやってくると、ほんの短い間でも俺にべたべたと触り、キスをして、あげく何か忘れていくか置いていくのだ。これが何度も続き、実際に俺は藤野谷の匂いや存在に慣れた。
慣れた、としかいいようがなかった。あいかわらず藤野谷のまわりに俺はあの形容しがたい色をみて、匂いを感じると動悸が速くなったり、逆に安心したりするが、身構えて緊張することはなくなった。何年もかけて慎重に築いてきた警戒の壁がこんなにあっさり消えてしまうなんて、おかしな話だ。さらにここ三日くらい、ガレージから藤野谷の姿をみると、俺の足はふわふわとおぼつかなくなってくる。
今日の藤野谷はいつもの青いSUVから降りてきたが、大きな紙袋を両手に下げていた。三つ。いや四つ。いったいどうしたのか。俺の怪訝な眼つきに気づいていたに違いない。ガレージに入ってくると開口一番「プレゼント」といった。
俺は聞き返した。
「何の」
「来週のプレス発表のときに着て」
紙袋のふたつには高級ファッション誌でみるブランドロゴがついていた。その場で上から中身をのぞくと下着からジャケットまでひとそろいで、怪我をしたときに渡来が持ってきた服を思い出させる。ブランドはちがうが、値段の桁はたぶん同じだろう。
俺は顔をしかめたが、藤野谷の表情は否定的なことをいうにはあまりにも期待に満ちていた。
「わかった。ありがとう」
藤野谷は心底うれしそうな顔をして微笑んだ。
「やっと終わりだ。いや……はじまりというべきか」
日が暮れかけていた。ガレージの中はもう薄暗い。藤野谷は紙袋を俺の手から奪うと、するりと俺の肩に腕をまわす。くつ脱ぎへ俺の体を押しやるようにして、上がり框に紙袋を置くと、俺の首筋に顔を埋めた。そのままの姿勢で「上がっていいか?」と聞くので、俺は思わず笑った。
「またすぐ帰るんだろう」
「今日は大丈夫だ」
家に上がると俺はリビングに紙袋を置いて作業部屋へ戻った。今日の藤野谷は俺が納品を終えたところであらわれたので、悪いタイミングではなかった。
作業用パソコンの電源を落としていると藤野谷は入口をふさぐように立ち、部屋の中を見まわしていた。スケッチブックを並べた棚の扉が開けっぱなしで、息抜きに落書きをしたクロッキー帳も広げてある。俺はクロッキー帳を閉じ、棚の扉を閉めた。ふりかえると藤野谷はまだ同じ場所にもたれていた。リビングの方へ行けと手で示しても動かない。
「天?」
ふうっと息を吐く音が聞こえた。
「サエ」
「何?」
腕が伸びて俺の背中に触れる。
「あれ、何が描いてあるんだ?」
「あれって」
「あの棚の中。絵だろう? サエの」
「そうだけど……いろいろだよ。落書きが多い」
「見たい」
俺は一瞬固まって、それから小さく首を振った。
「そのうちな。気が向いたら」
藤野谷は長く細く、息を吐きだした。
「たまに考えるんだ。サエを……」
小さくささやく。手のひらが俺をひきよせ、背中を撫でている。
「どこかに閉じこめて……俺だけをみているようにできたらいいのに」
俺はまた首を振った。
「そんなの無茶苦茶だ」
藤野谷はうすく笑った。
「そうだな。俺もそう思う」
俺は言葉を探した。
「いまおまえを見てる。それじゃだめなのか?」
藤野谷は目を細めた。かすかに目尻に皺が寄る。とても優しい目つきだった。光線のためか疲労の影が濃くみえる。俺たちはもう学生ではないのだ。
俺は思わず眼の前の顔に手を伸ばしたが、藤野谷は避けなかった。目尻をなぞって藤野谷の髪に触れる。どちらからともなく顔を近づけて、唇を重ねた。
このごろは毎日、藤野谷に会うたびにキスをしている気がする。そんな内心のささやきも唇と舌の感触に消え失せる。チュッと小さな音が鳴る。
「骨は大丈夫か?」
藤野谷がささやく。
「たまに痛むくらいだ」
胸の下、左の脇腹にはまだサポーターを締めていた。痛むたびに湿布を貼っているが、それだけだ。藤野谷の腕がいたわるように俺の背中を抱く。服ごしに感じる体温が心地よかった。何年ものあいだ藤野谷に出くわすたび、彼に触れるたびにヒートが来て、それをずっと恐れていたのに、今は平気なのが不思議なくらいだった。
藤野谷は俺の頭を手で支えながらまた唇を押しつけてくる。ヒートでないときにこうしてキスができるのがうれしかった。このままセックスしたらどうなのだろう、という考えが頭をかすめる。ヒートの時期は熱っぽくなっていつも頭がぼうっとしているし、かならず体の欲望に負けてしまうから、そうでないときに藤野谷と……。
はっとして俺は唇を離した。顔に血が上るのを自覚する。
「サエ……?」
藤野谷がいぶかしげな声を出す。
「なんでもない」
俺は背中にまわった腕をほどき、藤野谷の肩を押した。
「リビングへ行けよ。晩飯はどうする? 食べたいなら――」
「食べたい」
俺に最後まで喋らせない勢いで藤野谷はいった。
「俺が作るけど」
「断然食べたい」
リビングへ行けといった俺の話をまったく聞かずに藤野谷はキッチンについてきた。俺はストックした食材で夕食を作った。ジャガイモといんげんをつけあわせにした鶏のソテー。トマトのサラダ。コンソメスープ。
換気扇を回す音や肉が焼ける音でキッチンはうるさく、俺も藤野谷も何も話さなかった。それでも俺は背中にずっと視線を感じていた。ふりむくとテーブルに肘をついた藤野谷と眼が合う。そのたびに藤野谷は口元をゆるめて笑い、俺の胸の内側はふんわりと暖かくなった。悪くなかった。峡と料理をするときともちがう居心地の良さだ。
料理ができあがるとそのままキッチンのテーブルで食べたが、俺たちはあまり話さなかった。あの朝もそうだったと俺は思いだす。目覚めたとき、藤野谷が俺の隣にいた、あの朝だ。
食事を終えると藤野谷は帰った。明日は五時起きで飛行機に乗り、戻りはプレス発表の直前だという。
とっくに外は暗くなっていた。藤野谷は運転席から手を振った。俺は庭で車が出るのを見送り、門扉をしめた。急に体の半分が空になったような寂しさを感じ、足早に家に入った。
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