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第3部 ギャラリー・ルクス

4.暗い部屋

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 会場に戻るとスタッフが屋内庭園に面した窓にシャッターをおろしていた。終盤にこのビルの設備を使ってちょっとした余興があると聞いていたから、その準備だろう。
 藤野谷があとを追ってきたのもわかっていたが、俺は黙って銀星の斜め後ろに立った。向かいに座って祖父と話していた恰幅のいいアルファが顔を上げる。午前中に理事会のロビーで話しかけられたとき藤野谷が名前を呼んでいたが、思い出せない。

 じろじろ見られているのは知っていたが、俺は表情を変えないようにしながらスタッフの動きを観察していた。誰かが指示を出しているのか、長方形の広間の中央にいた人々が周囲によけて、床が丸くひらけている。さっきのガラス扉や屋外庭園に向いた窓はすべて塞がれている。

「彼は家来筋の者か? オメガがいたとは知らなかったぞ」
 祖父にささやく声が耳に入る。
「佐枝家の者だ」
 銀星の声は完全に平静で紹介するつもりもないようだ。俺はほっとしたが、男はひそひそ声でまだささやいている。
「似ているな。今日まで誰も知らなかっただろう。昔はどこからともなく血筋が出てくるなんてよくあることだったが、昨今はね」
「気のせいだな」
「佐井の血筋は家来筋には入らない?」
「ああ」

 男はまたちらりと俺をみて、やっと俺は藤野谷が彼を鷲尾崎と呼んでいたのを思い出した。ぎごちない動作で椅子を立つ。
「心配するな。私は昔からあんたの味方だよ」
 返事をする祖父の声は笑いを含んでいた。
「知っている」
「最近膝が悪くて、頼りない味方かもしれんが」
「まだそんな歳じゃないだろう」
「ところがそんな歳なんだ。あんたはいくら歳をとっても若いがね」
「また冗談を」
 鷲尾崎はにやっと笑い、銀星の肩を軽くどやすように触れる。
「気づいているか? 藤野谷の若い方がいるぞ」

 離れながら、鷲尾崎は俺に向けて問いかけるように眉をあげたが、それだけだった。銀星が首をまわして俺をみる。俺はふたりの会話に気を取られすぎていたのか、いつのまにか藤野谷がすぐうしろに立っているのに気づかなかった。手のひらが一瞬俺の背中に触れ、離れていく。そのわずかな圧力が心強かった。

 やっぱり俺は少し変だった。ここは名族のアルファとパートナーのオメガが集まっている場所で、俺は本来もっと警戒しなければならないはずなのに、ちっともそんな風になっていない。おまけに藤野谷が近くにいるだけでこんなに安心してしまっている。今日最初に会った時はあんなに緊張したのに、今はどういうわけか、彼が近くにいるだけで壁があるような、守られているような気分になっている。何の理由もないのに。

 急に怖くなった。自分でも気づかないうちに自分がどんどん変わっている、大きな手に変えられているような気がする。

「ご挨拶させていただけますか」
 藤野谷は前に進んで銀星に向かい、体をかがめて礼をする。その一方で俺のそばからも離れなかった。銀星と自分と俺で三角形をつくるような位置に立つ。すこし手をのばすだけで俺に触れられるだろう。祖父の眼が細められ、視線が俺と藤野谷の間を動いた。
「天藍君か。ずっと前に一度会った事があるが、覚えているかな」
「ええ。私が十歳のときですね」
「年月がたつのは早いな。零とはいつ再会したのかね? 学生の頃知り合いだっただろう」
 俺は反射的に口を開きかけたが、藤野谷が「昨年です」と続けたので黙った。

「偶然でした。私の会社の新製品のプロモーションに使うアーティストを探していたら、思いがけず」
「偶然か」
 銀星はぽつりと言葉をおとす。
「そうなのか」
 藤野谷をみるとなぜか微笑みをかえされて、俺はとまどった。銀星はそんな俺たちを注視している。
「それで? 私には隠せないよ。〈運命のつがい〉に出会うのはこれがはじめてではない」
 俺は息を飲んだが、藤野谷は落ちついていた。

「存じています」
「まさかと思ったが……」
 銀星は小さくため息をついた。俺の方へ顔を向ける。
「処置をのばしていた理由はこれか。みつけられたくなかったのか?」
 俺は黙ってうなずいた。祖父はまた小さくため息をついた。

「天藍君。こんなところで何だが、正直にいおう。零には藤野谷家と関わってほしくなかった。きみのご両親もたぶんそうだろう」
 俺は口を開きかけたが、藤野谷に先を越された。
「申し訳ありません。ですがどうしようもないんです。出会ってしまったので」
「運命といわれるゆえんだよ」
 銀星はひたいに手をあてた。
「私も何十年も前に知らざるをえなかった。そういえば昨年、父上からきみの結婚について伺ったが」
 藤野谷は表情をぴくりとも動かさない。
「その件については今日私がすべて撤回しましたから、両親が何を考えていたにせよ白紙です。それに理事会の議題もありますし」
「それでまだ……?」
 と銀星がたずねた。

 いったい何の話をしているのだろう。俺には見当がつかなかったが、藤野谷は理解しているようだ。
「いえ。単に私が……まだ尚早だと。臆病だったのですが、今日の理事会の資料を考えると」
「たしかに気がかりな注意喚起だ。未遂なら弱みとなる事もないだろうが」

 小声とはいえ、周囲に人がたくさんいるこの場所のせいだろう。ふたりの会話に俺はついていけないままだ。まるで暗号で話しているようだ。
「大丈夫です。必ず守ります」と藤野谷がいう。
「言葉だけならたやすい」と祖父は返す。「ところで、母上がいらしたようだね」

 マグノリアの香りが漂った。

 藤野谷の母はまちがいなくきれいな人だった。年齢は佐枝の母とあまり変わらないはずなのに、六十歳近いとはとても見えない。こちらに歩いてくるにしたがって周囲の人が自然に道をあける。俺は一歩下がった。そのとき藤野谷の母の後方にいた華やかなオメガのグループの中に、三波と鷹尾の顔をはっきりと認めた。

 鷹尾の眉があがり、三波と眼があう。視線に刺されるような気がして俺はまた一歩下がった。すると藤野谷が祖父に一礼し、なめらかに動いて俺のすぐ前に立った。彼の背中に視界がさえぎられ、祖父の声だけが聞こえる。
「紫さん。ひさしぶりだね」
「銀星様。息子とお話に?」
「立派になられたな」
「まさか。いまだに結婚もせず落ち着かないですし、自分のことしか考えていないのです」

 藤野谷の母の声はすこし高めで若々しい。安らぐというより刺激的な響きだ。対する銀星の声はひどく枯れて聞こえた。
「息子さんはあなたの所有物じゃない。自分でいいように決めるでしょう」
「そうはいきません。佐井家の当主ならおわかりでしょう? もっとも今日の議題のように、例の犯罪が再燃している状況なら急ぐ必要はありませんけれどね」
「昔からの問題ですからな」
 祖父がいう。つづく藤野谷の母の声は小さくても明瞭だった。
「ええ、そうです。つがいになって日が浅い場合、万が一のことが起きた場合、致命的な弱点になりかねません。私たちのような名族はことさら」
「弱点ね」
「藤野谷家のような立場だと、事業を左右しかねない要求でもされれば、影響は一族内にとどまらないでしょう。それはそうと銀星様。家来筋にオメガの男性がいたとは知りませんでしたよ」
「ああ、それは……」

 俺はまた一歩下がった。また一歩。他の人々のざわめきに紛れ、シャッターで窓をふさいだ壁際にたどりつく。藤野谷が俺を探すようにふりむいたが、誰かに呼ばれたらしく、すぐ元に戻った。

 距離を置いたせいか、椅子に腰かけたままの銀星、藤野谷の母、いつのまにかその近くにいた三波や鷹尾が藤野谷を囲んでいるようにみえる。オメガの中にひとりだけいるアルファは目立つ。藤野谷はさりげなく、しかし堂々とした姿勢で立っている。横顔で唇が動いているが、近くのざわめきにさえぎられて声は聞こえない。

 こんな光景にはこれまで何度か出会っている、そんなことを俺はぼんやり考えた。たぶん大学のころだ。藤野谷の周囲にはいつも人がいたが、彼はいつもひらけた野原に立つ木のように堂々として、ひとりだった。いまもそうだった。もちろん今は俺と同じように藤野谷もいっぱしの大人で、自分の会社だって持っているのだから当たり前のことではある。
 それなのにどういうわけだろう、俺は藤野谷の横にいなければならないのだとふいに強く思った。でなければ、たったひとりで天まで高く伸びすぎて、いつかあの木は倒れてしまうかもしれない。

 前触れなく俺はそんな幻想を思い浮かべた。同時に今日何度も藤野谷に感じた苛立ちが薄れ、申し訳ないような、寂しいような気分が取って代わる。
 そのとき突然、周囲が薄暗くなった。

『さてみなさま、会もたけなわですが、ここでお見せしたいものがございます』
 離れたところにスポットが当たり、マイクの音声が流れる。
『日が暮れる前に、当ビルディングに設置されたカメラ・オブスキュラの像をご覧にいれましょう。ご着席できる方はお座りください。中央にお寄りの方はすこし周囲に避けていただきますよう。一時的に会場が暗室になりますのでお気を付けください。それでは、床を注目』

 広間の明かりがさらに落とされる。俺は壁に背をつけて立っていた。マイクに誘導された人々が動いて視界がひらけたが、すぐに完全に照明が落ち、あたりは真っ暗になった。人々の声が止む。と、広間の床に光が当たった。
 どよめきが上がる。俺は首をのばす。

 一瞬プロジェクターの映像かと思ったが、ちがった。黄色みがかった夕暮れの太陽の光と地平線がひらけた床いちめんに映し出されているのだった。アナウンスは続く。
『〈カメラ・オブスキュラ〉は暗い部屋、という意味です。近代まではこのような部屋の内部に投影する装置から携帯用の装置まで、広く使われていました。写真の祖先でもあり、近世の画家は正しい遠近を持つ絵を描くためにこの像をデッサンしたといわれています。ご覧になっている光は人工の光ではなく、まさしくいま外で照らしている太陽の光です。当ビルディングでは、高層階に設置した塔のレンズと鏡によってこの光を誘導し、文字通りの光の風景を……』

「佐枝さん」
 ひそひそ声とともに急に横から袖を引かれた。
 俺はその方向をみたが暗すぎて顔もよくわからない。だが声は聞き分けられる。
「佐枝さん……僕と同じだったんですね」
「三波」

 遠くでヒーリングミュージックのような音が鳴っていた。余興のアナウンスがゆったりと続いている。唇をなめて言葉を探したそのとき、寄り添うように肩に温もりが触れる。
「サエを責めないでくれ。俺のせいなんだ」

 俺の真横で藤野谷がいった。俺たちは壁際で輪をつくるように立っていた。藤野谷の長身が俺と三波を周囲から遮る。夕暮れの色が広がるなか、三波の美貌にハッとした気配が浮かぶ。目がかすかに細められて、すべてのつじつまがあったとでもいいたげな、納得の表情があらわれた。

「そうでしょうよ。いつだってあなたのようなアルファが諸悪の根源なんだ」
 早口のあとですぐ、ためらうような口調になる。
「すみません、僕は混乱しているようです。僕はずっと……佐枝さんの作品のファンで……」
「三波。悪かった」

 俺はやっとそれだけ言葉をひねりだした。三波はすぐに返事を返さなかった。真横に立った藤野谷の手が俺の右手に重ねられる。温かかった。
「佐枝さん、あれ、つけてます? 僕が送ったベータ版」
 確認するように三波がいった。香水のことだろう。
「つけてる。気に入ったよ」と俺はいう。
「完成した映像も楽しみにしてる」
「新製品のプレス向け会見には出ますよね」
「ああ」
「……終わったら飲みませんか。うっとうしいアルファは抜きで、鷹尾も一緒に」

 広間にゆっくりと照明が戻った。暗闇のなかで動きを止めていた人々が魔法を解かれたように息を吹き返す。だが俺は三波にじっと顔をみつめられていて、むずがゆいような居心地の悪さを味わった。藤野谷の片手はまだ俺の手に重ねられている。

「佐枝さん、約束しましたよ」と三波がいう。俺はうなずいた。

 するとスイッチを切り替えたように、三波の表情にいつもの気軽で皮肉な調子が戻った。ニヤッとして、さらに驚いたことに俺に向かってウインクした。藤野谷には秘密の、ふたりだけの暗号でも知らせるように。
「じゃあ僕はこれで」
 余興が終わってざわつくひとの間にするりと入りこみ、俺と藤野谷から離れていく。前にどこかでみたのと同じ、しなやかで踊るような身のこなしだった。



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