上 下
54 / 107
第3部 ギャラリー・ルクス

3.鉄と銀(後編)

しおりを挟む
 銀星と峡があらかじめ教えてくれた通り、総会はたいして長いプログラムではなかった。拍手が鳴って大広間の扉があき、待ちかまえていたスタッフが中へ入っていく。
 黒崎さんがどこからかあらわれてマスターと合流したので、俺はスタッフの後に続いて銀星のそばへ行った。ウエイターがグラスを渡そうとするのを固辞して、峡の忠告通りに椅子に座った銀星の斜め後ろに立つ。

 家来筋とはもとより影のようなものだという。つまりふつうは注目されない。それに佐井家は銀星の代で事実上終わる。銀星はつがいのアルファ――すでに物故者だ――を佐井家の籍に入れず、葉月以外に子供を持たなかった。そして葉月の子供の俺は生まれた時にいくつかの書類の操作をへて、結果的に佐枝姓になっている。自分を最後に〈オメガ系〉の佐井家は終わりになる――そんな銀星の決定を、俺は最初のヒートがきた後で銀星本人から聞いていた。

 もともとオメガ性が一定割合で生まれるような遺伝的性質は近親婚ぎりぎりの血統管理で成り立っていたから、銀星は自分の代になったときにそれを完全にやめ、自分の意思が及ぶ範囲の傍系はすべてベータの男女へ嫁がせるという荒業に出たという。オメガが生まれやすい遺伝的性質もベータの中に分散すればたどれなくなるから、ということらしい。
 加えて母屋のある地所など、いくらかある資産は毎年少しずつ佐枝へ贈与して移転し、遺言も以前から作成済みだ。おまけに他の名族とちがい、佐井家は資産家でも企業家でもない。そんな事情だから、今日のような名族の集まりでの影響力など皆無にひとしい。

 ――と、俺は峡からレクチャーされていたのだが、その割に銀星に近づいて挨拶する人は多かった。俺が話しかける暇もほとんどないくらいだ。堂々とした年配のアルファが小柄な祖父に敬意をあらわすのをみていると悪い気持ちはしなかったが、疲れないだろうかと気になった。
 白髪の男性がいかにも内密な雰囲気を漂わせながら耳元で何かささやきはじめると、祖父が片手をあげて合図する。
「零、私は大丈夫だから、しばらくゆっくりしてきなさい」

 俺はうなずいてその場を離れた。漏れきこえた単語から、理事会の議題について話があるようだと見当をつける。
 会場は賑わっていた。総会の後でパートナーを同伴してきた面々は会議にいた人々よりもドレスアップしている。いったい彼らは何を話しているのだろう。高い天井からシャンデリアが下がり、広間の一方の壁は吹き抜けの屋内庭園に面していて、ところどころに切られた窓には緑の影が立つ。
 一瞬、ざわめきのあいまに三波のシルエットを見たような気がした。そういえば藤野谷が鷹尾と三波も来ると話していて、藤野谷も午前中に出くわした彼の母もどこかにいるはずだ。

 三波たちに会ってしまえばベータへ偽装していたことが彼らにばれてしまう。みんながマスターのような受け止め方をするとは思えず、考えると気が重かった。とにかく峡が迎えに来るまで隠れているに限る。部屋の広さと人の多さのおかげか、それとも周囲にいるのがアルファとオメガばかりのせいか、藤野谷の気配もわからない。
 俺は目立たない場所を探して会場を一周し、まだ銀星がさっきの男性と話しているのをたしかめた。男性は椅子に座って熱心に祖父に話し続けている。この調子だと長引きそうだ。

 近い壁沿いに屋内庭園を見下ろすバルコニーがしつらえてあったが、そこへ通じる大きなガラス扉は施錠されていなかった。俺は堅い把手をまわし、意外に重い扉を引く。肋骨にひびいたのか脇腹が痛む。ふいに手ごたえが軽くなる。

「零」
 ふりむくと加賀美が扉の上の方へ手をかけていた。
「ここへ出る?」
「――ええ」
「ちょうどよかった」
 加賀美は俺のうしろから長身をすべりこませた。扉は金属のうなる音を立ててゆるやかに閉じた。バルコニーは思いのほか広かった。サンルームのようにどこからか照明がさしこんで十分に明るい。加賀美が俺を点検するかのように凝視する。

「加賀美さん」
 俺は口をひらいたものの、何をいえばいいのかわからなかった。
「零は――不思議だね」
 加賀美の声は穏やかだった。
「最初に会った時もそう思ったが、いまも不思議だ。仮面をつけていた時と外したあと。先週の午後と、今日……会うたびに変わっている気がする」
「どういう……意味ですか?」
 加賀美はにこりと笑った。
「またきれいになったよ。単に僕がきみのことを好きだからそう思うのかもしれないが。本当に、怪我が大事なさそうでよかった。連絡がなかったから心配した」

 言葉はさらりと口に出され、俺はますます、どうしたらいいのかわからなかった。藤野谷が俺の家に来たあの日のあとも加賀美は何度か連絡をくれたが、俺は通話を受けることも返事をすることもできなかった。
 加賀美はバルコニーの手すりから庭園を見下ろし、俺は彼の横にならぶ。庭園の人工的な斜面に植えられているのは桜の木のようにみえるが、本物だろうか。蕾はふくらみかけているが開花にはまだ早い。

「加賀美さん、あの……」
「先回りされるのは嫌かもしれないが」
 焦った俺をさえぎるように、加賀美は口をはさむ。声の響きはやはり穏やかで平静だ。
「僕が連絡したり、会いたいといったら、いまの零は困る?」
 俺は目を細めて遠くの桜の枝に蕾を探す。加賀美が俺をみつめている。視線を痛いほど感じる。言葉に窮してただうなずくと、隣でふっと息が吐きだされた。
 これまで何度か、同じように加賀美が微笑むのに出会った気がする。
「そうか。僕は残念だが、きみが」

 その時うしろで金属音が響き、俺は不意打ちに驚いてふりかえった。加賀美も同時にふりむいたが、俺は見慣れた長身がバルコニーにあらわれる前にあの色をみていた。
 藤野谷が格子を刻んだ床に立っている。俺を呼ぶ。
「サエ」
 引き寄せられるように俺は足を踏み出しかけた。が「きみは藤野谷家の」という加賀美の声に我にかえった。

「藤野谷天藍です。加賀美光央さん。はじめてお会いします」
 藤野谷は儀礼的な笑みを浮かべて加賀美の前に出ると会釈した。
 加賀美の方がわずかに背が高いとはいえ、どちらも長身のアルファだ。並ぶと迫力があり、どちらも強い雰囲気を漂わせている。なんとなく俺は一歩さがった。

「やあ。はじめまして。先代はたしか天青氏といったね」と加賀美がいう。
 言葉は変わらないのに口調が高圧的で、俺が聞いたことのない響きだった。しかし藤野谷は平然としている。
「ええ。うちの家系は名前をつけるとき、先代から一字取るのが習慣のようです」
「現当主の藍晶氏はお父上か。一度お会いしたことがある。今日はいらしていないようだが」
「父は別件があるそうです。加賀美さんは大学で教えてらっしゃるとか」
「加賀美家は道楽ものの家系なんだ。社会貢献といっても芸術だの文化だの、心もとないことしかやっていない」
「まさか。重要なことでしょう」

 どちらも平然とした顔をして、社交辞令程度の会話なのに、どういうわけか俺はうすら寒くなった。バルコニーの縁に寄ったが、加賀美と藤野谷はなぜか同時に動いて俺の左右に立つ。

「事業を起こしているそうだが、そろそろ当主の仕事も手伝っているのかな? 藤野谷の医薬系のファミリーを束ねているとなると、政財界のゆくえも見ながら投資や開発の方向を決めなくてはならないし、苦労も多そうだ。パートナーにも仕事が多いだろう。もっともご母堂はずいぶん才覚がおありらしいが」
「母はこういったことが得意ですから」
「先ほどお会いしたよ。きみを探していたようだ」

 藤野谷は首を軽く左右に振って微笑んだが、仕草も表情も雰囲気を和らげることはなく、逆に敵意のようなものがにじみ出る。
「いえ、私は自分の城の方が重要なので。TEN‐ZEROは藤野谷本家からみると軽薄な事業ですが、だからこそ独立資本で勝手にやれる」
「ああ、学生にもTEN‐ZEROブランドは好まれているようだね。TEN‐ZEROといえば――」
 加賀美はふと言葉をとめた。
「なるほど」
 藤野谷が眉をあげる。
「どうしました?」
「いや」
 加賀美はさっきの藤野谷のように首をふり、口元を緩めた。

「それにしても本家が医薬だと、パルファンなんて筋違いといわれないか? 父上のあとを継いだら売却して人に任せるのかな」
「いいえ」
 藤野谷はかすかに鼻で笑った。
「TEN‐ZEROは私の夢を実現する場所だ。他人には渡しませんよ。将来譲渡するとしても信頼できる人間にしか預けません」
 話しながら俺の手に触れる。
「サエ、行こう」
 俺は首を振り、藤野谷の指を避けた。
「だめだ。祖父を見ていないと」

 俺は扉のガラスごしに銀星の姿を探した。相手を牽制しあっているようなふたりの間にいたくなかった。広間の中で、さきに祖父と話していた相手は去っていたが、同じ椅子に恰幅のいい別の影が座っている。午前中、理事会に遅れてあらわれた男性だ。葉月のことを知っている人だ。彼は俺に会ったことを祖父に話すだろうか。
 そう思いながらバルコニーの縁へ戻ったそのとき、加賀美が藤野谷にたずねた。
「零はきみの友達?」
「まさか。それ以上のすべてですよ」
 藤野谷の声がきっぱりと響いた。

 俺は顔をあげた。加賀美と視線があった。彼の匂いを意識する。加賀美は俺をみつめたまま、ふっと口元をゆるめた。優しい微笑みだった。
「なるほどね。わかった」
 藤野谷がまた俺を呼ぶ。
「サエ、」

 ふいに加賀美はにやりと笑った。なんだか挑発的な表情に思えた。長身をかがめて俺に顔を寄せる。吐息が俺の耳をかすめる。
「零。僕ならいつでも、きみを噛んであげられる」
 俺はどきりとして顔をあげたが、加賀美はもう扉を押していた。藤野谷が俺の腕をつかんでいる。

「あいつに何をいわれてる」
「ほっといてくれ。個人的な話だ」
「俺にいえないのか?」
 いえるか馬鹿。俺は唇をなめた。
「加賀美さんは友人なんだ。おまえにそんな風にいわれる筋合いはない」
「友人? あんなに馴れ馴れしくて――」

 突然苛立ちがわきあがり、胸の内側が熱くなった。俺は熱を抑えこみ、できるだけ平静な口ぶりを保つ。
「おまえだっていろんな連中と馴れ馴れしくやってたくせに、何いってる」

 口調とは裏腹に手が震えた。苛立ったまま俺は藤野谷をにらみつけた。眸にどこからか落ちてくる光が映っている。みつめると虹彩の真ん中に琥珀色が一瞬ひらめいて消える。俺は衝動的に手をのばし、藤野谷のスーツの襟をつかんで引き寄せた。踵をあげて乱暴に唇を重ねると歯がぶつかってカチカチ鳴る。かまわず首に腕をまわし、舌を押しつけるようにしてキスをする。

 一瞬の空白のあと、いきなり腰を抱き寄せられた。まるで食われるのではないかと思うような勢いでキスを返される。息が苦しく、鼻で呼吸すると藤野谷の匂いが脳髄を直撃してくらくらした。
 どちらからともなく唇を離したとき、俺たちはふたりとも肩で息をしていた。

「サエ……」
「天は――」

 口に出したものの、何がいいたかったのかわからなくなってしまった。俺は背中に回された藤野谷の腕をほどく。見苦しくなったシャツを整えながら、やっと続く言葉をみつけた。
「俺はおまえが好きだけど……おまえの持ち物じゃない」

 スーツもこの場所も苦手だ。ネクタイは曲がっていないだろうか。そんな俺の心配を読み取ったように藤野谷の指が結び目に触れる。
「わかってる」と俺にささやく。
「嘘つけ。わかってない」
 俺はつぶやいて、ガラス扉へ向かった。



しおりを挟む
感想 22

あなたにおすすめの小説

十七歳の心模様

須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない… ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん 柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、 葵は初めての恋に溺れていた。 付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。 告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、 その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。 ※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

噛痕に思う

阿沙🌷
BL
αのイオに執着されているβのキバは最近、思うことがある。じゃれ合っているとイオが噛み付いてくるのだ。痛む傷跡にどことなく関係もギクシャクしてくる。そんななか、彼の悪癖の理由を知って――。 ✿オメガバースもの掌編二本作。 (『ride』は2021年3月28日に追加します)

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版)

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

ふしだらオメガ王子の嫁入り

金剛@キット
BL
初恋の騎士の気を引くために、ふしだらなフリをして、嫁ぎ先が無くなったペルデルセ王子Ωは、10番目の側妃として、隣国へ嫁ぐコトが決まった。孤独が染みる冷たい後宮で、王子は何を思い生きるのか? お話に都合の良い、ユルユル設定のオメガバースです。

本日、私の大好きな幼馴染が大切な姉と結婚式を挙げます

結城芙由奈 
恋愛
本日、私は大切な人達を2人同時に失います <子供の頃から大好きだった幼馴染が恋する女性は私の5歳年上の姉でした。> 両親を亡くし、私を養ってくれた大切な姉に幸せになって貰いたい・・・そう願っていたのに姉は結婚を約束していた彼を事故で失ってしまった。悲しみに打ちひしがれる姉に寄り添う私の大好きな幼馴染。彼は決して私に振り向いてくれる事は無い。だから私は彼と姉が結ばれる事を願い、ついに2人は恋人同士になり、本日姉と幼馴染は結婚する。そしてそれは私が大切な2人を同時に失う日でもあった―。 ※ 本編完結済。他視点での話、継続中。 ※ 「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています ※ 河口直人偏から少し大人向けの内容になります

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

処理中です...