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第2部 ハウス・デュマー

14.空の漏斗(前編)

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 車は閑静な住宅街で止まった。運転手がドアを開けに立つ。加賀美の手が俺の両肩を一度抱く。
「零、また連絡する」

 俺は低層マンションのエントランスをくぐる加賀美を窓の中から見送った。彼が扉の向こうに姿を消すまで運転手は礼をして待っている。加賀美や藤野谷のようなアルファは慣れているのかもしれないが、ハウス・デュマーの送迎は俺にとっては分不相応に丁重で、毎回気恥ずかしいくらいだった。なのに今日の俺は上の空で、運転手が戻り、送り先は自宅でいいかとたずねたとき、反応が遅れた。

 分不相応といえば加賀美もそうだった。彼のような男は誰にでも、どんなオメガにも好かれるのではないだろうか。それなのに彼は俺の中に何かをみつけた、という。
 加賀美と一緒にいることができればきっと優しい時間を過ごせるだろう。長くは続かないかもしれないが、それでも彼の平和なぬくもりがここにあればと考えるだけで、心が揺れた。

 タイヤが小石をはねとばして止まる。オレンジ色の門灯のむこうで俺の家は暗い箱のようにみえた。夜の空には昼間とちがい雲が厚くかぶさり、地上の光を反射して淡く光っていた。風がなまぬるく吹く。
 カーテンを開けっぱなしにしたリビングで、俺は電気もつけずにしばらくぼうっとしていた。停電のことを考えていたのだった。俺と藤野谷が講堂にいたあの日、加賀美はいまの俺くらいの年齢だったのではないだろうか。

 やっと立ち上がると俺は加賀美に今日はありがとう、という簡単なメッセージを送った。不在着信のランプが光っていたが、誰からのものか確認する気になれなかった。

 何かしなければならない。急にそう強く思った。いつもなら絵を描くところなのに、どういうわけかその気になれなかった。うろうろと家の中を何周かして、しまいに俺はガレージに行った。ロードバイクのLEDライトと反射板を確認してシャワーを浴びる。

 全身を洗い、抑制剤の分量を確認し、中和剤のパッチを貼って、香水をすりこんだ。デュマーで飲んだウイスキーはもう抜けたころだろう。パッド付のインナーの上にバイカーズパンツを履き、ジャージにヘルメットとグローブ。とはいえ遠出するつもりはなく、カフェ・キノネまでのつもりだった。土曜だから夜も営業しているはずだ。

 夜道を走るのはひさしぶりで、最初の下り坂ではすこし緊張した。風がななめから吹き、ロードバイクを止めるとうっすらとかいた汗がさっとひいて寒くなる。
 カフェ・キノネの扉を開けると、マスターのパートナーの大きな影がぬっと立っていた。
「黒崎、クマみたいに立つなよ」
 マスターの快活な声がきこえた。
「客が怖がったらどうするんだ――おや、ゼロか。ひさしぶり。夜に珍しいね」
「たまにはね」

 店内は閑散としていた。というより、黒崎さん以外は誰もいない。
「しばらく展示やライブがないんだ。そしたらこれだからさ」
 マスターが笑った。
「バー営業はやめてもいいかもしれないよね。黒崎がやれっていうから、続けてるけど」
「そうしないと俺が来る前に寝るだろうが」
 黒崎さんがぼそっという。
「おまえが忙しいのがよくないんだろ。働きすぎると死ぬぞ」
 マスターはカウンターに座った俺にナッツの皿を出した。

「ゼロは何を飲む? いや、飲まないんだっけ。黒崎はさ、またギャラリーを開くらしいよ」
「それはおめでとうございます。どのあたりですか?」
 黒崎さんはマスターの方へしかめっつらをしてみせてから、このごろ再開発が進み話題になっている地区の名をいった。
「月末には竣工でね」
「なんと、テナントじゃないんだ。自社ビルだって」
 マスターが眼をまわしてみせる。
「黒崎のやつ、悪い事でもしてるんじゃないかと心配になるよ」
「それはますますおめでたいですね」
 俺はアーモンドをかじりながらメニューを眺めた。

「ギャラリーの名前は決まっているんですか?」
「ああ。ギャラリー・ルクス。事務所も移して本拠にするつもりなんだ。イベントスペースとブックカフェも作る」
「黒崎のやつ、キノネに飽きたって」
 黒崎さんの低い響きにマスターの冗談めかした声がかぶった。

「そんなこといってないだろう」
「そうかな。この店を人に預けて僕にそっちへ移れっていうの、そうじゃないの?」
「え?」
 俺は驚き、はずみでメニューが閉じた。
「おまえがよければだ」といって、黒崎さんが渋い顔をする。
「決めるのはあとでいい」
「竣工も近いのにそんなわけにはいかないだろ」
 マスターはそっけなく返し、俺の方を向いて笑う。

「悪いね。客がいないのをいいことに徹底討論の最中だった」
「俺は客に数えられてないわけ」
「はは。ごめん。で、どうする? コーヒー? 何か作る?」
 俺はもう一度バーメニューを眺めた。

「甘いホットコーヒーとウイスキーを混ぜたのに生クリームをのせたやつを飲みたいんですけど」
「それはアイリッシュコーヒーっていうんだよ。知ってるだろうけど」
 マスターはかすかに眉をよせたが、容器をあけてコーヒー豆を計る。
「自転車なんだよね? ウイスキーは香りづけくらいにしておくよ」

 黒崎さんはわずかに背を丸めるようにしてカウンターの端にすわり、マスターがてきぱき働くのをみつめている。大柄な彼がそんなふうに小さな椅子に座っているのはすこし場違いな感じがした。
 ふたりして黙っていると、マスターが「どうしたの? 辛気くさいよ?」と陽気な声で口を入れる。
「ゼロがこんな時間に来るのも珍しいけどね。何かあった?」
「俺もたまにはこんな時間に来ますよ」
「この頃は仕事、どうなの?」
 コポコポとコーヒーをドリップする音が心地よかった。マスターは生クリームを泡立てている。
「一段落して、今はけっこう暇」と俺は答えた。
「そろそろ次を入れないと食いはぐれるけど」
「ゼロ、最近すこし雰囲気変わった?」
「それ、別のひとにもいわれたけど」
 俺はピスタチオの殻を割る。
「どんなふうに?」

 マスターは取っ手がついたグラスの底にザラメを敷いた。ウイスキーを小さな鍋に入れ、弱火で温めて、最後に火をつけた。ぱっとフランベの炎があがる。
 グラスのザラメにウイスキーを注ぐあいだもきれいな青い火が燃えていた。マスターは満足げにそれをみながらいった。
「うーん。なんていうのか……美人になった」
 俺はあっけにとられた。

「何それ」
「うまくいえないけど、前にくらべてぱっと明るく見える感じかなあ」
「意味がわからないよ」
「数年ぶりに親戚の子や、若い頃の知り合いに会って、たいして顔なんて変わってないのにあれ、こんな子だったっけ、って思うのに似てるかな。そうそう、匂い立つって言葉があるでしょ? しいていえばそんな感じ」
「へんなの」俺は苦笑した。「俺はこの店に月に何度か来てるはずだけど」
「でも、ひとの顔や雰囲気って突然変わることあるからさ。良い事があっても、悪い事があってもね」

 マスターはドリップしたコーヒーをグラスに注ぎ、上に生クリームの層を慎重にこしらえる。ここが難しいのだという。やっと黒と白、きれいな二層に分かれたグラスを俺の前に出した。
「ゼロはラッキーだ。成功したよ」
 彼は得意げに笑い、黒崎さんはすこし呆れた表情になった。
「もし僕が新しいところに移っても、この店には来てよ」
「もう決定なんですか?」
 俺はウイスキーの香りのする生クリームの層をすする。
「その……新しいギャラリーの方」
「だって、黒崎がそう望んでる」

 マスターはやや芝居がかった、恨めし気な声色を出した。俺は思わず黒崎さんの方をみた。
 黒崎さんは低い声でぼそぼそと、うしろめたそうにいう。
「キノネは来年で十年になるし、ここはここで続けるが、都内なら一緒に住めるから……」
「何、外堀から埋めてるんだよ。どうせ出張ばかりのくせに」
 マスターはそっけなくいって肩をすくめたが、黒崎をみる視線は暖かかった。
 何となく羨ましい気分になりながら、俺はもうひと口飲んだ。
「どう?」
「美味しい」

 こっくりとした濃い感触を味わいながらふと眼をあげると、マスターはじっと俺の顔をみつめている。
「ねえ、ゼロがこの店やるっていうのはどう」
「冗談。俺は料理できないし」
「嘘。僕が仕込んだでしょ? それにほら、料理好きな叔父さんもいるし」
「一年か二年か、そんなもんじゃないですか」

 このカフェで俺がバイトをしていたのは大学を出てあの家へ住みはじめたあとだった。通してもせいぜい二年弱ほどのはずだ。しかも最初はカフェではなく、黒崎さんが募集した週末のギャラリー展示の手伝いだった。店はオープンして一年ほどしか立っておらず、マスターも素人同然の状態からやっと店に慣れた頃だったらしい。

 展示が終わってもウエイターを募集しているといわれて、俺はカフェへ居残った。その後デザインの仕事が増えたので辞めて、今ではただの客のはずだが、そうこうするうちに俺より何歳か年上のマスターとは友人のようになったのだ。
 クリスマスツリーを飾ったときのように今でもときおり気安く手伝いを頼まれるし、俺もそれが嫌いでなかった。それにマスターのコーヒーは美味しい。

「ひとりじゃ無理っていうなら、つきあっている相手を巻き込んでいいよ」
 え、と俺は思う。
「勝手に人の職業変えないでくださいよ。それにそんな相手いないし」
「なんで?」
 マスターはおおげさに眉をあげる。
「あの彼は?」
「どの」
「決まってる。金だか銀だかのスプーンくわえてそうな、あの彼だよ。たまにひとりでここに来るの、ゼロに会いにでしょ」
 俺はほとんど空になったグラスを置いた。
「マスター……それ、いつの話?」




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