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第2部 ハウス・デュマー

13.霧の虹(後編)

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 加賀美と俺の肩はぴたりとくっついていた。エンドロールはそろそろ終わりそうだ。サウンドトラックの一覧が流れ、スペシャルサンクスがさらに続く。

「葉月は……俺を産んだ人は、その後居所をつきとめられて、また夫の藍閃(らんせん)の元へ連れ戻され、一年後に病気で亡くなった。運命のつがいの相手は外国にいて、葉月が亡くなったことを知らされなかった。ところがある日――」
 俺は少しためらった。怪談になると予告しても、このくだりを真面目に話すのは勇気がいる。
「葉月は戻った。空良のところへ」
「空良?」
「俺のもう一人の親」
 俺はソーダ割りを飲み干した。もう少し濃いものが飲みたい気がする。

「夏の朝の夜明け、空良の家で葉月の声が聞こえたというんだ。帰ったよ、と。これからはふたりで暮らそう、と」
 加賀美は無言だった。
「その直後、夫の藍閃がはるばる空良をたずねてきた。彼は庭の柵の外で葉月を呼んだ。大声で。空良が庭に出ると、白い砂利が突然空中に舞い上がったように見えた。まばたきしたら、それは全部真っ白の蝶に変わった。そしていっせいに上空へ飛び立った」
 加賀美が黙って聞いているので、肩に触れる温もりはあっても、俺はひとりごとをいっているような気分になった。話の内容が童話か昔話のように現実味のないイメージだからか。

「俺が思うに、空良と藍閃のどちらか、でなければこの目撃者は危ないクスリでもやってたんじゃないかな。ともあれこのあとで空良は藍閃に葉月の死を知らされて帰国し、一緒に墓参りに行った。そしてこのふたりもいなくなった」
「いなくなった?」
「死者の国から葉月が呼んだのさ」
 そのとたん加賀美がかすかに顔をしかめた。俺はすこし調子にのりすぎたと後悔する。
「ごめん、いまのは嘘」
 あわてて話を続けた。なぜか早口になった。

「ほんとうの話はこうだ。空良と藍閃は、葉月の骨を墓から持ち出して、一緒に海へ出たらしい。空良のヨットで。葉月は夫の家を嫌っていたから、散骨するつもりだったのかもしれない。ところが海が荒れて、ヨットは港に戻らなかった。捜索隊が出て、ヨットだけがずっと離れたところへ流れついたが、死体はあがらなかった。七年たってどちらにも失踪宣告が出た。これが俺の知っている、運命のつがいの話」

 加賀美は物語を咀嚼するように、黙ってグラスを傾けていた。
 俺はすこし興奮していたかもしれなかった。これまで誰にも話さなかったことを一気にしゃべったせいだろうか。
 空良と藍閃のあいだに何があったのかは、いまだに俺の中で謎のままだ。この怪談じみた逸話をいつ知ったのかも覚えていない。子供の頃、大人が話した言葉の断片を勝手に自分が繋ぎあわせて作ったのか、俺にもっともらしく話して聞かせた大人がいるのか。

 空良たちがヨットで失踪した事実について、俺は佐枝の両親に確かめていた。でも白い蝶など、子供の思いつきにしては景色が美しすぎた。全員が死んでしまう救いのない物語で、風景だけが奇妙に明るい。誰の思いつきだろう。峡がこんな話をするとも信じがたかった。

 とはいえこの物語は俺や佐井家がもっている視点から語られたものにすぎない。藤野谷にとっては藍閃の失踪はもっと暗く陰鬱な意味合いを帯びている。なぜそんなことを俺が知っているかというと、高校生の藤野谷が、俺が誰なのかも知らずに、なにかのついでに話したからだ。

 藤野谷によれば「失踪した伯父の相手だったオメガ」は、藤野谷家をめちゃくちゃにした、単なるよそものだった。藍閃の失踪後、葉月は藤野谷家では「いなかったもの」とされて、持ち物や写真もすべて捨てられてしまったらしい。だから藤野谷は彼の顔も知らない。その顔も知らないオメガのことを藤野谷がどう思っているのかは、推してしるべしだ。

(母がくりかえし俺にいうんだよ。時々うんざりする。十何年も前の話なのにさ。ほんとうにいなければよかったのにって。運命のつがいなんて災難のもとだって)

 たしかに〈運命のつがい〉は災難のもとだった。自分をふりかえってみてもそうだった。

 俺は立ちあがり、ウイスキーを濃いめの水割りにした。少し後悔していた。
「ごめん」
 加賀美のうしろでそっという。
「どうして?」と聞き返された。
「いやその……俺は酔ってる。ほんとはこんな話、人にしないんだ。つい……」
「いいよ」
 加賀美はソファの隣を叩いた。
「零、ここにおいで」
 映画は完全に終わって、画面は暗くなっていた。俺はグラスを持って加賀美の横に座る。
「僕の知っているつがいの話をしていいかな。運命なんて関係ない、よくある話だ」

 加賀美はそういいながら音楽チャンネルに切り替えた。どこかで聞いたようなポップス歌手のプロモーションビデオがはじまり、遠くから響くように柔らかく歌が流れる。
「そのアルファとオメガは学生時代からのつきあいだった。出会ったのは十三歳だったかな。運命なんて関係なく、出会ってからずっとふたりでいるのが当たり前の、そんな関係だった。だからハウスにくることもめったになかった。なにしろ家は近くだったし、家族同士も仲が良かったからね」

 話しながら加賀美はぼんやりした視線を画面に投げている。淡々として、静かな調子の声だ。

「それに、一方のオメガ――男性のオメガだったが、彼はハウスの雰囲気が苦手だというんだ。たまに行っても肩身が狭そうで、少しひとりにしただけで心細い顔をする。だから他の人と知り合うこともなかった。ふたりは自然につがいになることにしたが、どちらがいいだしたわけでもなかった。一緒に暮らして、お互い仕事を持っていて、時々ささいなことで喧嘩をする、よくいるカップルだった。子どもはいなかったが不満はなかった。ところがある日、停電で信号が故障したんだ」
 はっとして俺はグラスをテーブルに置いた。
「大規模な停電だった。きみは知っているかな?」
「十四年前の首都圏大停電?」
「そう。都内で信号が突然、全部消えた。大規模な玉突き事故が起きて、オメガのパートナーは追突されたタクシーに乗っていた。まるで運命みたいにね」

 その日のことならよく覚えている。俺は講堂に閉じこめられていた。藤野谷と一緒に。そして……。
 ふわりと加賀美の腕が肩に回ってきて、俺の物思いを破った。
「きみと最初に話したとき、その雰囲気がね……彼を連想したよ。あのとき僕はすこし感傷に浸っていたんだ」
 加賀美は照れたような微笑みをうかべている。
「仮面をつけたきみがバーでずいぶん、慣れない感じなのをみてね。声をかけたら話も合うし、嬉しかった。ゆっくりつきあいを深めていけたらとは思ったが」
「加賀美さん」
「だからきみが辛そうにしていたら、僕はたまらない気持ちになる」
 俺は唾を飲みこむ。
「その人を思い出すから?」

 加賀美は黙って俺の顎を両手にはさむとキスをした。さらりと乾いた唇がかぶさって離れていく。手のひらが腰にまわり、シャツの上を撫でた。
 ソファの上で加賀美は俺にのしかかり、両脇に手をつく。右耳のうしろに息を吹きかけられ、耳たぶを舐められた。緊張が背中を走った。俺は加賀美の体を反射的に手のひらで押しかえした。
「零」
 加賀美が耳元でささやいた。
「ヒート以外の時に……セックスしたことはない?」

 思わず俺は赤くなった。ヒートのときですら数えるほどしかないなど、いえるはずもない。
「すまない」
 加賀美は俺の困惑を見通したようだった。ソファの上で横向きに抱き寄せられる。背中に手が回り、抱きしめられる。
「恥ずかしがらせたいわけじゃないんだ」
「加賀美さん……」
「嫌かな?」
「嫌じゃ――ないです」
「力を抜いて」

 また加賀美の唇がかぶさってきたが、今度はかするようなキスではなかった。舌が口の中に入りこみ、ねぶっていく。舌先が粘膜をたどり、押して、なぞる。
 まぶたが自然に閉じる。
 とたんに眼のうらの暗闇に藤野谷の顔が浮かんだ。あいつの眼。あいつの唇と手のひら。指。吐息。

「零?」
 加賀美の声が聞こえた。俺の頬を指がなぞる。
「何がそんなに悲しい?」
「え?」
 俺は指で頬をたどる。しずくで指先が濡れ、耳の方へ流れた。眼をあげると加賀美がじっと見降ろしている。
 とてもばつが悪かった。どうすればいいのかもわからなかった。
 加賀美は静かにいった。
「悪かった。今日はやめよう。僕は待つのは得意なんだ」

 その目つきに見覚えがあった。彼は俺の指をつかむと頬をなでた。濡れた指先が冷たかった。
「きみはこの前も……泣いていたね」
 そっとささやくと、加賀美は俺から離れた。



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