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第2部 ハウス・デュマー
10.散乱の色(前編)
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十時三十分。時間通りだった。エンジン音のあとに小石が跳ね飛ばされる音が聞こえ、俺が玄関ドアをあけるのと、門扉の外に車がつけられたのが同時だった。深みのある青色が眼をひく。流線型の車体に、ヘッドライトは切れ長の眸のような形をしている。うとい俺でも知っている、国産メーカーの高級SUVだ。
助手席のドアが開き、スーツ姿の三波が姿を現した。俺は「私道だから道路脇にとめていい」と声を張る。
三波はうなずいた。肩から鞄を下げ、小さめの段ボール箱を胸に抱えながら門扉をあける。車はなめらかに路肩に寄り、運転席のドアが開く。三波は振り向きもせず、まっすぐ俺の方へ石畳を歩いてきた。
「おはようございます」
「遠くから悪いね」
「かまいませんよ」
三波の両手がふさがっているので、たたきの上で扉を押さえながら「上がってまっすぐ、一番奥の部屋だ」と伝えると、うなずいて靴を脱いだ。藤野谷が石畳を踏んでくる。空は薄雲がかかり、まだ春といえるほどの気候ではないのに霞んで明るい。藤野谷の周囲に空の光の一部がまとわりついているようにみえて、俺は眼を細めた。
「サエ」
扉をくぐった藤野谷は軽くうなずき、周囲を見回している。いつもガレージから出入りしているから、ここは壁にむかし描いた小さな水彩を掛けているだけで、隅には履く機会の少ない革靴が箱に入れたまま積んである。
俺は玄関の扉を押さえたまま、ふと気おくれと威圧感を覚えた。これまで藤野谷に感じたことのない――いや、これまではあまり気にしたことのなかった感覚だった。
ビジネススーツの藤野谷に会うのも久しぶりだ。一月の中間発表の時以来だろう。背筋が凛とのびて格好良い。
俺は藤野谷を凝視していた自分に気づいてはっとし、顔をそらした。
「あがれよ」
「僕は先に行ってますから」
三波がそっけなくいって段ボールを抱えた。俺はあわてて「持つよ」といったが、藤野谷の方が早かった。靴も脱がずに手を伸ばす。だが三波は肩をそらすようにして藤野谷の手を避けた。
「大丈夫です。奥ですよね」
目線で俺に確認して、靴下のまま廊下をいく。俺はうしろ姿に声を投げる。
「スリッパいいか?」
「滑るので苦手なんです。ありがとうございます」
また声だけが戻ってきた。いつものキレのいい愛想もない。
「どうしたんだ? 喧嘩でもしたのか?」
思わず藤野谷に向けてつぶやいたが、彼はまだ玄関に立ったままだ。俺は突然見られていることを意識した。
藤野谷の気配――あの色と匂いがふわりと大きく、俺を包むような錯覚を覚える。焦って扉を閉めるとバタンと大きな音が鳴る。閉じられた空間で、俺の視界にいる藤野谷がさらに大きくみえる。
理由もなく怖い、と思ったが、それも一瞬のことだった。藤野谷が首をふる。
「いや」
彼がそういったとたん、威圧感は消えた。
「意見の相違があっただけだ。奥の部屋?」
「作業部屋だ」
「入っても?」
「でなければ何のために来たんだよ」
いつもの藤野谷だ。俺は先に立って廊下をいく。三波はもう段ボールをあけて中身を床に広げていた。
「パソコン、動かしてかまいませんか? そこの棚も少しずらせると楽なんですが」
三波はあいかわらず藤野谷の方を見なかった。必要なことしかしゃべらないのは彼らしくない。TEN‐ZEROのチームのオメガふたりは、俺がみるにボケ担当鷹尾、ツッコミ担当三波なのだが。
「やりやすいように動かしてくれ。ありがとう。どのくらいかかる?」
「つなぐのはすぐできるので、設定前にログインしてほしいんです。OSやアプリの更新によっては時間がかかるかもしれません」
三波は話しながらてきぱきと機材を接続する。藤野谷が俺のうしろに立っているのがやはり落ち着かない。久しぶりのせいだろうか、今日は藤野谷の存在感が大きすぎる。パソコンにログインするとキーボードを三波の手がすばやく動き、俺には何をするのかわからない画面を呼び出した。
「椅子に座ってくれ。コーヒー、飲むか?」
そう提案すると三波はほっとしたようにみえた。
「ええ。ありがとうございます」
「砂糖とミルクは?」
「ください」
藤野谷は腕を組んで書棚を眺めている。資料や画集、事典類、学術書に海外の写真雑誌と中身は雑多だ。スケッチブックの棚は扉つきで、いつもは開けっ放しなのだが今日は閉めてある。藤野谷がものいいたげにこちらをみるので「本は好きに見ていいぞ」と俺は声をかけ、キッチンへ行った。
ドアをしめて藤野谷の気配を締め出す。途端に体じゅうから力が抜けた。冷蔵庫にもたれて息を吐く。自分の血がめぐる音がきこえそうだ。
ああ、だめだ。
自分でもわけがわからないままにそう思った。無意識に背中に貼った中和剤のパッチへ手が伸びる。峡はいい顔をしないだろうが、今日は倍の数を貼っているのだ。妙に頭がくらくらするのもこのせいかもしれない。
ポットをコンロにかけると先日母が送ってきた豆を挽き、手でドリップした。いつもはコーヒーメーカーですませるのだが、ハンドドリップはカフェ・キノネのマスター仕込みだ。コーヒーの粉に熱湯を注ぐのに集中して、時間をかけてコーヒーを入れた。
自分の分をマグカップに注ぎ、あとは来客用のコーヒーカップを使った。木の葉のあいだに小鳥がのぞく模様が描かれている。客用ふたつをトレイにのせて作業部屋の入口までいったとき、三波の尖った声がきこえた。
「まったく、どうしてあんたはそんなクソったれアルファなんです?」
俺はびくりと立ち止まった。ソーサーがぶつかってカチャカチャ鳴る。ふたりが同時に俺をみて、口をつぐんだ。
「コーヒー……入れたけど」
三波が立ち上がって「すみません」といい、トレイを受け取ろうとする。
「更新がたまってるせいでかなり時間、かかりそうです」
「俺は一日あけてるからかまわないよ。昼になりそうなら飯を食べて帰るか?」
三波はトレイをデスクに置いた。藤野谷は窓際の椅子に座って本を開いている。
「佐枝さん、気を遣わないでください」
「俺も飯は食うから。どうせ適当だ」
俺はそういってキッチンへひっこんだ。ついでにカレーでも作ろうと考える。この場にいるのがいたたまれなかったし、藤野谷と三波の口論を聞きたいわけでもない。
玉ねぎの皮を剥いてみじん切りにした。シナモン、クミン、カルダモン、コリアンダー、それに刻んだニンニク。鍋に冷たい油とスパイス、ニンニクを入れて弱火にかけ、香りが立ったところで玉ねぎを入れる。
俺のカレーは峡がたまにここにやってきて作るような本格派インドカレーではない。市販のルゥがないと味が決まらないのだ。玉ねぎを火にかけたまま、背伸びしてシンクの上の棚にしまったカレールゥやトマト缶を探っていたから、ドアが開く音に気づかなかった。
おまけに真後ろに立たれるまで藤野谷だとわからなかったのは、スパイスの香りのせいだろう。
「取ろう。どれ?」
うなじの上でささやかれ、俺は硬直した。
「――ルゥの箱と右の缶詰」
何とか答えてコンロの前へ戻る。フライパンを強火で熱し、うすく油を流して塩コショウした肉を入れる。ジュっと大きな音が立つ。肉に焼き目がついたところで玉ねぎの鍋に加え、ニンジンの皮をむく。
「大丈夫なのか?」
そういって藤野谷の方をみると、向こうもテーブルの端に腰をのせるようにして俺をみていた。スーツの上を脱いで、ネクタイも外している。薄いストライプのシャツごしでも引き締まった体型がわかる。俺は視線をはずした。
「何が」と藤野谷がいう。
「三波」
「もちろん大丈夫だ。腕はたしかだし、俺がいる方が邪魔だ」
だったらどうしてついてきたんだ、といいたいのを俺はこらえる。
「そうじゃなくて。何かもめてるのか?」
藤野谷は答えなかった。俺はニンジンを鍋にほうりこみ、トマト缶も開けて加える。水を空き缶で計って鍋にいれ、次にジャガイモを洗った。
「ここにずっと住んでるのか」
唐突に藤野谷がたずねた。
「そうだよ」
「大学を出てから?」
「ああ」
「表札の名前が違う」
「家主だよ」
この家はもとは佐井家の遠縁のものだった。俺がここに住んでいる名目は管理のためで、その前は長い間空き家だった。
俺は煮立ってきた鍋をときどきかき混ぜ、一方でジャガイモの皮をむく。大ぶりに切って鍋に入れると蓋をして火力を調節する。
「サエ」と藤野谷がいう。
俺はまな板やザルをシンクに押しやった。
「何」
「大学を出たとき――俺に二度と会わないつもりだった?」
俺は水道をひねった。
「そうかもしれない」
「俺はサエを探した」
「そうか」
俺は道具を洗い、炊飯器をセットし、鍋をかき混ぜた。カレールゥはまだ入れていないのに、スパイスのおかげですでにカレーらしい匂いがする。俺が黙々と動いているあいだ、藤野谷は黙って立っていたが、やがていった。
「本気で探したんだ。しばらくは。父に頼んでまで。なのにみつからなかったから、俺はあきらめた。あきらめて何年もたって――なのにどうしてまた会ってしまうんだ? 運命みたいに」
「運命なんて、おまえがいちばん嫌いそうな話じゃないか」
鍋の中を凝視したまま俺はいう。
「でも、そう思った」
背後に感じる藤野谷の気配に押されていた。圧力が大きくなって、今にもはじけそうだ。俺はスパイスの匂いを嗅ぎ、正気を保とうとする。
「高校で会った時も、大学でも。サエは思わなかった? それに……それにサエは、本当は俺が嫌なんじゃない。そんなはずはない。もしそうだったら、どうしていつも断らなかった? 俺のオファーを――大学の時も、今回も」
俺はジャガイモの煮え具合をみる。まだ少し固い。ふりむいてはいけない、と頭の一部が命令する。ふりむいたら終わりだ。
それでも口は勝手に動いた。
「おまえが……友達だからだよ。おまえといると楽しいから。おまえが……好きだから、友達として……」
「友達として? だったらどうして逃げるんだ?」
藤野谷の吐息をすぐ後ろに感じる。
「サエは……俺にはわからない」
藤野谷は小さな声でいった。うなじの毛が逆立ち、手がふるえそうになって、俺はあわてて蓋をしめたが、ほとんど鍋の真上に落としたようになった。ガチャンと音が鳴る。お守りのように感じていたスパイスの香りが途絶えた。
助手席のドアが開き、スーツ姿の三波が姿を現した。俺は「私道だから道路脇にとめていい」と声を張る。
三波はうなずいた。肩から鞄を下げ、小さめの段ボール箱を胸に抱えながら門扉をあける。車はなめらかに路肩に寄り、運転席のドアが開く。三波は振り向きもせず、まっすぐ俺の方へ石畳を歩いてきた。
「おはようございます」
「遠くから悪いね」
「かまいませんよ」
三波の両手がふさがっているので、たたきの上で扉を押さえながら「上がってまっすぐ、一番奥の部屋だ」と伝えると、うなずいて靴を脱いだ。藤野谷が石畳を踏んでくる。空は薄雲がかかり、まだ春といえるほどの気候ではないのに霞んで明るい。藤野谷の周囲に空の光の一部がまとわりついているようにみえて、俺は眼を細めた。
「サエ」
扉をくぐった藤野谷は軽くうなずき、周囲を見回している。いつもガレージから出入りしているから、ここは壁にむかし描いた小さな水彩を掛けているだけで、隅には履く機会の少ない革靴が箱に入れたまま積んである。
俺は玄関の扉を押さえたまま、ふと気おくれと威圧感を覚えた。これまで藤野谷に感じたことのない――いや、これまではあまり気にしたことのなかった感覚だった。
ビジネススーツの藤野谷に会うのも久しぶりだ。一月の中間発表の時以来だろう。背筋が凛とのびて格好良い。
俺は藤野谷を凝視していた自分に気づいてはっとし、顔をそらした。
「あがれよ」
「僕は先に行ってますから」
三波がそっけなくいって段ボールを抱えた。俺はあわてて「持つよ」といったが、藤野谷の方が早かった。靴も脱がずに手を伸ばす。だが三波は肩をそらすようにして藤野谷の手を避けた。
「大丈夫です。奥ですよね」
目線で俺に確認して、靴下のまま廊下をいく。俺はうしろ姿に声を投げる。
「スリッパいいか?」
「滑るので苦手なんです。ありがとうございます」
また声だけが戻ってきた。いつものキレのいい愛想もない。
「どうしたんだ? 喧嘩でもしたのか?」
思わず藤野谷に向けてつぶやいたが、彼はまだ玄関に立ったままだ。俺は突然見られていることを意識した。
藤野谷の気配――あの色と匂いがふわりと大きく、俺を包むような錯覚を覚える。焦って扉を閉めるとバタンと大きな音が鳴る。閉じられた空間で、俺の視界にいる藤野谷がさらに大きくみえる。
理由もなく怖い、と思ったが、それも一瞬のことだった。藤野谷が首をふる。
「いや」
彼がそういったとたん、威圧感は消えた。
「意見の相違があっただけだ。奥の部屋?」
「作業部屋だ」
「入っても?」
「でなければ何のために来たんだよ」
いつもの藤野谷だ。俺は先に立って廊下をいく。三波はもう段ボールをあけて中身を床に広げていた。
「パソコン、動かしてかまいませんか? そこの棚も少しずらせると楽なんですが」
三波はあいかわらず藤野谷の方を見なかった。必要なことしかしゃべらないのは彼らしくない。TEN‐ZEROのチームのオメガふたりは、俺がみるにボケ担当鷹尾、ツッコミ担当三波なのだが。
「やりやすいように動かしてくれ。ありがとう。どのくらいかかる?」
「つなぐのはすぐできるので、設定前にログインしてほしいんです。OSやアプリの更新によっては時間がかかるかもしれません」
三波は話しながらてきぱきと機材を接続する。藤野谷が俺のうしろに立っているのがやはり落ち着かない。久しぶりのせいだろうか、今日は藤野谷の存在感が大きすぎる。パソコンにログインするとキーボードを三波の手がすばやく動き、俺には何をするのかわからない画面を呼び出した。
「椅子に座ってくれ。コーヒー、飲むか?」
そう提案すると三波はほっとしたようにみえた。
「ええ。ありがとうございます」
「砂糖とミルクは?」
「ください」
藤野谷は腕を組んで書棚を眺めている。資料や画集、事典類、学術書に海外の写真雑誌と中身は雑多だ。スケッチブックの棚は扉つきで、いつもは開けっ放しなのだが今日は閉めてある。藤野谷がものいいたげにこちらをみるので「本は好きに見ていいぞ」と俺は声をかけ、キッチンへ行った。
ドアをしめて藤野谷の気配を締め出す。途端に体じゅうから力が抜けた。冷蔵庫にもたれて息を吐く。自分の血がめぐる音がきこえそうだ。
ああ、だめだ。
自分でもわけがわからないままにそう思った。無意識に背中に貼った中和剤のパッチへ手が伸びる。峡はいい顔をしないだろうが、今日は倍の数を貼っているのだ。妙に頭がくらくらするのもこのせいかもしれない。
ポットをコンロにかけると先日母が送ってきた豆を挽き、手でドリップした。いつもはコーヒーメーカーですませるのだが、ハンドドリップはカフェ・キノネのマスター仕込みだ。コーヒーの粉に熱湯を注ぐのに集中して、時間をかけてコーヒーを入れた。
自分の分をマグカップに注ぎ、あとは来客用のコーヒーカップを使った。木の葉のあいだに小鳥がのぞく模様が描かれている。客用ふたつをトレイにのせて作業部屋の入口までいったとき、三波の尖った声がきこえた。
「まったく、どうしてあんたはそんなクソったれアルファなんです?」
俺はびくりと立ち止まった。ソーサーがぶつかってカチャカチャ鳴る。ふたりが同時に俺をみて、口をつぐんだ。
「コーヒー……入れたけど」
三波が立ち上がって「すみません」といい、トレイを受け取ろうとする。
「更新がたまってるせいでかなり時間、かかりそうです」
「俺は一日あけてるからかまわないよ。昼になりそうなら飯を食べて帰るか?」
三波はトレイをデスクに置いた。藤野谷は窓際の椅子に座って本を開いている。
「佐枝さん、気を遣わないでください」
「俺も飯は食うから。どうせ適当だ」
俺はそういってキッチンへひっこんだ。ついでにカレーでも作ろうと考える。この場にいるのがいたたまれなかったし、藤野谷と三波の口論を聞きたいわけでもない。
玉ねぎの皮を剥いてみじん切りにした。シナモン、クミン、カルダモン、コリアンダー、それに刻んだニンニク。鍋に冷たい油とスパイス、ニンニクを入れて弱火にかけ、香りが立ったところで玉ねぎを入れる。
俺のカレーは峡がたまにここにやってきて作るような本格派インドカレーではない。市販のルゥがないと味が決まらないのだ。玉ねぎを火にかけたまま、背伸びしてシンクの上の棚にしまったカレールゥやトマト缶を探っていたから、ドアが開く音に気づかなかった。
おまけに真後ろに立たれるまで藤野谷だとわからなかったのは、スパイスの香りのせいだろう。
「取ろう。どれ?」
うなじの上でささやかれ、俺は硬直した。
「――ルゥの箱と右の缶詰」
何とか答えてコンロの前へ戻る。フライパンを強火で熱し、うすく油を流して塩コショウした肉を入れる。ジュっと大きな音が立つ。肉に焼き目がついたところで玉ねぎの鍋に加え、ニンジンの皮をむく。
「大丈夫なのか?」
そういって藤野谷の方をみると、向こうもテーブルの端に腰をのせるようにして俺をみていた。スーツの上を脱いで、ネクタイも外している。薄いストライプのシャツごしでも引き締まった体型がわかる。俺は視線をはずした。
「何が」と藤野谷がいう。
「三波」
「もちろん大丈夫だ。腕はたしかだし、俺がいる方が邪魔だ」
だったらどうしてついてきたんだ、といいたいのを俺はこらえる。
「そうじゃなくて。何かもめてるのか?」
藤野谷は答えなかった。俺はニンジンを鍋にほうりこみ、トマト缶も開けて加える。水を空き缶で計って鍋にいれ、次にジャガイモを洗った。
「ここにずっと住んでるのか」
唐突に藤野谷がたずねた。
「そうだよ」
「大学を出てから?」
「ああ」
「表札の名前が違う」
「家主だよ」
この家はもとは佐井家の遠縁のものだった。俺がここに住んでいる名目は管理のためで、その前は長い間空き家だった。
俺は煮立ってきた鍋をときどきかき混ぜ、一方でジャガイモの皮をむく。大ぶりに切って鍋に入れると蓋をして火力を調節する。
「サエ」と藤野谷がいう。
俺はまな板やザルをシンクに押しやった。
「何」
「大学を出たとき――俺に二度と会わないつもりだった?」
俺は水道をひねった。
「そうかもしれない」
「俺はサエを探した」
「そうか」
俺は道具を洗い、炊飯器をセットし、鍋をかき混ぜた。カレールゥはまだ入れていないのに、スパイスのおかげですでにカレーらしい匂いがする。俺が黙々と動いているあいだ、藤野谷は黙って立っていたが、やがていった。
「本気で探したんだ。しばらくは。父に頼んでまで。なのにみつからなかったから、俺はあきらめた。あきらめて何年もたって――なのにどうしてまた会ってしまうんだ? 運命みたいに」
「運命なんて、おまえがいちばん嫌いそうな話じゃないか」
鍋の中を凝視したまま俺はいう。
「でも、そう思った」
背後に感じる藤野谷の気配に押されていた。圧力が大きくなって、今にもはじけそうだ。俺はスパイスの匂いを嗅ぎ、正気を保とうとする。
「高校で会った時も、大学でも。サエは思わなかった? それに……それにサエは、本当は俺が嫌なんじゃない。そんなはずはない。もしそうだったら、どうしていつも断らなかった? 俺のオファーを――大学の時も、今回も」
俺はジャガイモの煮え具合をみる。まだ少し固い。ふりむいてはいけない、と頭の一部が命令する。ふりむいたら終わりだ。
それでも口は勝手に動いた。
「おまえが……友達だからだよ。おまえといると楽しいから。おまえが……好きだから、友達として……」
「友達として? だったらどうして逃げるんだ?」
藤野谷の吐息をすぐ後ろに感じる。
「サエは……俺にはわからない」
藤野谷は小さな声でいった。うなじの毛が逆立ち、手がふるえそうになって、俺はあわてて蓋をしめたが、ほとんど鍋の真上に落としたようになった。ガチャンと音が鳴る。お守りのように感じていたスパイスの香りが途絶えた。
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