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第2部 ハウス・デュマー

7.氷の割れる音(前編)

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『ああああああ佐枝さん! どこにいたんですか!』
 三波らしくない文字列だ。連打するなんて。そんなことを思いながら俺は返事をタイピングする。
『ごめん、家をあけてた。例の件、これから送るから』

 TEN‐ZEROのサーバーへアップロードするファイルのヴァージョンを確認していると、終わらないうちに返事がきた。
『了解ですありがとうございます大丈夫です!  会社はOKです!  ただ昨日は藤野谷さんが佐枝さんに連絡取れないとうるさくて、僕までとばっちりです』
 藤野谷の名前にキーボードの上で俺の指は一瞬硬直した。むろん三波がそれに気づくはずはない。

『佐枝さん、すみませんがビデオに切り替えてもらえませんか? 昨日チームのチャットに出てた件、ここにブツがあるんですが、写真とるのかったるいんで』
『いいけど』
 俺はそう打ちこむとビデオに切り替えた。
『あれ、佐枝さん?』
 画面の中の三波は青背のファイルを背景にして、俺をみるなり怪訝な声を出す。
「ん?」
『あ、すみません。その……顔、変えました?』
 俺はふきだした。
「俺の顔、これしかないけど」
『そりゃそうですよね……今日はメンテ中で代替機だけど、なんて返されても困るところでした』
 三波は首をかしげる。そんな動作をすると鋭角な印象を与える美貌が少し幼くみえる。

『すみません、たぶん藤野谷さんに昨日ずっと愚痴られていたんで、今日の僕には佐枝さんが救世主の後光を放っているんだと思います』
 喋りながら今度は三波がふきだした。『馬鹿なことをいってすみません』
「いいけど。藤野谷がどうしたんだ?」
 たしかに昨夜家に帰ると藤野谷から何回も不在着信が入っていた。しかし俺は今朝になってもそれを全部無視して、三波の業務チャットに返信しているわけだが。

『着信来てませんか』
「来てる。でもメールに用件は入ってないし、急ぎの用じゃないだろう」と俺はいう。藤野谷の意図はわからないが、三波には俺が気にしていないと思ってほしかった。
「こっちが優先だと思ったんだけど」
 ほんの一瞬三波は眉をよせて不審な色をうかべたが、すぐに刷毛で塗り替えるように表情を変えた。
『佐枝さん、僕を優先してくれてありがとうございます! 何度かいってますけど僕は佐枝さんのファンですから!』
 と俺が赤面するようなことを平然といい放ち、即座に真顔に戻る。
『それで例のブツのセッティングについてなんですが――』
 三波の説明を聞きながら、俺はつまらないことに気がついた。三波は藤野谷のことを「ボス」と呼ばなかった。




 ハウス・デュマーで加賀美と別れたあと、俺が家に帰りついたのは暗くなってからだった。
 翌日の朝になるとヒートの気配は完全に消えていた。俺は心底ほっとして峡へ検査の予約を入れた。急に襲ってきた衝動がこんなに短期間でおさまったのは緩和剤が効いたせいか、それとも加賀美のおかげなのか。

 これまで誰ともあれほど……濃厚なセックスをしたことは一度もない。薬で性周期がコントロールできているあいだは、強い衝動をもてあますことがほとんどなかったせいもあるだろう。

 とはいえ、思い出すと恥ずかしさに誰もいないのに顔がほてるほどで、俺は何も考えまいとした。後悔と安心のいりまじった自分にもよくわからない気持ちをもてあましながら、それでも加賀美の連絡先は帰宅して最初に登録した。ハウスでの彼の申し出に対してもどうすればいいのか決められないのに、趣味や話が合う相手と切れたくないという望みは強く、身勝手な気もしたが、加賀美の好意に甘えてしまえという内心のささやきには抗えなかった。
 俺は疲れていた。

 一日家をあけただけなのに不在着信やメール、業務チャットがたまっていた。仕事は家でやる上に、社交などほとんどないから、よほどのことがなければ俺は外出時もモバイルを持ち歩かない。
 三波にチャットの返信を送る前に、着信履歴を眺めて俺は憂鬱な気分になっていた。藤野谷からの着信は俺がハウスへ行った夜にも入っている。

 何か勘づいたのだろうかと俺は一瞬疑ったが、すぐに打ち消した。ハウス・デュマーで藤野谷がすれ違ったのは欲情したオメガなのだ。たとえそのオメガが俺に似ていても――藤野谷は俺のことをベータだと思っているし、気づかれないように俺は細心の注意を払ってきた。大学時代はとくにそうだった。
 藤野谷の着信を無視して代わりに俺は三波にチャットを送った。三波からは秒速で返事がきて、そしてさっきのやりとりになったのだ。

 俺はパソコンの画面を切り替えた。TEN‐ZEROのプロジェクトで俺がやるべき作業は終わりつつあるのだが、技術班は俺の旧式な機材や設定を最新版にアップデートしろとうるさかった。この先の進捗確認が楽になるし、セキュリティも強化したいという。

 彼らにはこれまでも遠隔操作で俺のパソコンの設定を変えてもらったり、逆にTEN‐ZEROのサーバーを俺が遠隔で見られるように設定してもらったりもしたが、ついこの前、直接そちらへ行って何とかいう機械を(俺には技術的な内容はよくわからなかったが)交換した方が速いかもしれません、とチームのひとりが持ち出したせいで、俺の家に技術者を呼ぶのは避けられそうもなかった。都合がつく者がいなければ三波と鷹尾が来るという。

 この家に住んで八年になるが、峡と佐枝の両親以外の他人をこの家にあげたことは一度もなかった。まあでもいいか、と俺は思った。藤野谷が来るわけじゃない。
 今は藤野谷には会いたくなかった。声も聞きたくなかった。
 でも三波なら、話をするのも、この家に入れてもいい、と思える自分はどうかしているのだろうか。

 おかしなもので、藤野谷からはっきりつきあっているのだと聞いても、俺はあいかわらず三波を気に入っているのだった。彼は藤野谷と俺のあいだに何かあったと勘づいているのかもしれないが、そんな気配をみせるでもない、いってみれば大人の対応が俺にしてみると好ましかった。

 どうも三波は学生時代、ハウスでさんざん遊んでいたらしい。鷹尾を交えた雑談のはずみに彼は一度「あれは若気の至りで、今は飽きました」といったが、そんなところも俺にはまぶしく感じられこそすれ、不快ではなかった。
 そもそも大学の頃だって、藤野谷が誰それとつきあっているなどという噂を聞いたところで、俺はその相手を妬ましいと感じたことはなかったのだ。たぶん俺とまったく縁のない世界の話だと思っていたからだろう。
 三波が藤野谷の横に立っているのはとても自然に感じられた。自然なアルファとオメガのペアに。

 それに――だいたい、ひとのことをいえるものか。
 おまえだってまんざらでもなかったじゃないか。
 俺の中で別の声が小さくささやく。

 加賀美に抱かれて。嬉しかっただろう?
 加賀美にならおまえは自然にオメガとして扱ってもらえる。外出するたび、抑制剤や中和剤が効いているかと神経をとがらす必要もなくなるし、バレるのではないかとひやひやしたり、父親たちの事情を知られるのを恐れる必要もない。それに……加賀美はきっとおまえの渇望を満たしてくれる。太くて熱い……あれで奥まで……。

(隠さない方が、きみは素敵だ)

 ふいに彼の匂いや腕の温もり、さらに内側を突かれる甘い感触がよみがえって、俺は椅子の上で呼吸を荒くし、体をよじった。



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