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第2部 ハウス・デュマー
2.フリージング・レイン(後編)
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「もう二時間か。忘れていた」
加賀美が小さく声をあげ、仮面に手をかけた。
「デュマーに二時間もいたなんて、ひさしぶりだよ」
『シンデレラはいつも長居されませんからね』
「サム、嫌味をいうなよ。だいたい僕はシンデレラにしてはとうがたちすぎている」
仮面をはずした加賀美の顔は彫りが深く、日本人離れした顔立ちだった。峡と同じくらいの年齢だろうか。思わず凝視してしまい、俺はあわてて眼をそらしたが、加賀美は逆に俺の顔をのぞきこんだ。仮面ごしにじっとみつめてくる。加賀美の指が俺の顎に触れた。
「加賀美光央」
顔を近づけて彼はささやいた。ウイスキーの香りがする。俺もきっと酒の匂いをさせているだろう。酔っているのは自覚していた。加賀美と話しながら杯を重ねてしまったからだ。
「きみは……若い木のような匂いがするね、ゼロ」
「――どういうことです?」
俺は加賀美の眼をみつめる。今日は何も香水を、いつもの匂いをつけていないのに、どういうわけだろう。
「なにかな……控えめなのに、内側に力が隠れているような?」
加賀美は俺の顎に指をかけたままだ。
「ゼロ、きみの仮面の下もみてみたい」
唇がおりてきたとき、俺はじっとして動けなかった。心臓がばくばくと鳴っていた。ほんの軽い接触で、すぐに唇は離れていく。さらりとした麻布のような感触だった。
「本当に、いつもなら少し飲んで帰るだけなんだ。楽しかったよ。また会えるかな?」
加賀美は俺の肩を軽く抱いてささやく。
「……ええ」
俺はあいまいにうなずいた。
「だいたいカーニバル・デイに来るんだ。――サム、僕は帰るよ」
『靴をお忘れにならないようになさってください』
「忘れてもゼロが預かってくれるさ」
加賀美はオーディオルームを出ていきながらもう一度振り返った。俺は自分の顔が火照るのを感じ、思わず頬に手をあてた。
ハウス・デュマーの外では頼んでいた車が待っていた。俺は車中でコートの雫をはらったが、みぞれが降っているわけでもないのに、指には水ではなく小さな氷の粒がついた。
「雨氷ですね。めずらしい」と運転手がいう。
「みぞれじゃなくて?」
「空中では水なのに、地面に落ちたとたん氷になるんです。フロントガラスに氷がついているでしょう? 送り先はご登録のご自宅でよろしいですか?」
「ありがとう。頼む」
シートに背中を預けているとさらに酔いが回ってきた。頭の奥がくらくらして、加賀美の唇の感触を俺はひそかに反芻していた。体の奥がぞくりと震えた。
『新しい抑制剤は処方箋をきっちり守ること。中和剤は不要なときは使わずに減らしていきなさい。ヒートの間隔はどうなってる?』
ビデオ越しの峡の声に俺は素直に返事をする。
「不安定だ。いつ前兆がくるかと思うと怖い」
『世間にベータだと見せているから、ますます怖くなるんだろう。おまえの本来の姿でいられる場所を作っていれば気持ちも安定するはずだ。今さらではあるが……。前兆が来たらハウスへ行って個室へこもるのも手だ。前に渡したカードのハウスならそれもできるだろうし……行ってみたか?』
「ああ。峡、あの――」
『なんだ?』
峡の声はあっけらかんとしている。この叔父には昔からときどき、つかみかねるところがあると俺は思う。兄弟も同然に信頼している人なのに、そう感じるのも不思議なものだった。
「あのハウスはずいぶん……高級だなと思って」
『そうだな。セキュリティがしっかりしてるからアルファの有名人もお忍びで使ってるらしい。レストランも評判がいいらしいぞ。俺が再現できそうなメニューをみつけたらレシピを聞いておいてくれ』
峡らしい発言に俺は笑った。
「レシピなんて簡単に教えてくれるものじゃないだろう」
『わかるか。聞いてみろよ』
「いいけど、誰かとデートでもしないかぎりレストランになんて行きそうにない」
『だったら早くデート相手をみつけろ。料理好きの叔父の恩に報いてくれ』
峡は冗談とも本気ともつかない声でそういった。
もう二月だが、俺はあいかわらずひきこもって仕事をする毎日だった。TEN‐ZEROのチームとのやりとりは定期的に行われていたが、一月の中間発表のあとは藤野谷から個人的な連絡が入ることは減った。
俺はそれを残念に思ったわけではない。けっしてそうじゃない。なのに空虚な気分が自分の内側を侵食しているような、そんな感じがなぜかいつもついて回った。TEN‐ZEROのチーム、とくに三波や鷹尾とビデオで話した後はその気分が強くなった。
彼らはいつも自分たちのボスの話をする。ボス、つまり藤野谷のことだ。最近、以前にくらべて「丸くなった」と鷹尾がいう。
『うーん、アルファの雰囲気が変わる時って、私の経験則では誰かと付き合いはじめたときなんですが、うちのボスはどうでしょう。何しろ一時期ひどかったという話も聞きますし……』
「ひどかったって?」
『あ――』
鷹尾はしまったという顔をした。
『佐枝さんは知らなかったんですね? じゃあオフレコで。私がTEN‐ZEROに就職を決めた時、ボスについては良くない噂が流れていて、オメガは用心しろといわれたんです』
「用心って?」
『つまみ食いして捨てるからって。実際はそんなこと全然なかったんですけどね。単にめちゃくちゃ厳しいだけでした。だから根も葉もない噂だったんですけど』
俺はまばたきする。大学時代の藤野谷からは想像もつかなかった。藤野谷はモテたし、大学のころはベータの女性や、時々はオメガとも付き合っていたのを俺はなんとなく知っていた。俺が知りたいと思わなくても風の噂に聞こえてくるのだ。藤野谷の方も俺にそんな話をいっさいしなかったが、誰とも長続きはしないかわり、すべて学生同士のごく普通のつきあいだったはずだ。
当時は藤野谷と自分が何の関係もないのだと思っても、ざわざわと体の奥が湧くようになるのを止められなかった。そんなときは決まってひどいヒートがやってきたから、迷惑な話だった。
『あ、ごめんなさい、変な話して。とにかく最近ボスが明るいし優しいので私は助かってます。きっと佐枝さんとのプロジェクトがうまくいってるからですよ』
「プロジェクトがうまくいってるのは俺よりもきみや三波のおかげだろう?」と俺は答える。
「そういえば三波は藤野谷とよく出かけてるんだろう。十二月に一度キノネで会ったよ。三波は靴をオーダーしたといっていた」
『え、何ですかそれ。聞いてませんよ』
今度は鷹尾が目を丸くした。
加賀美が小さく声をあげ、仮面に手をかけた。
「デュマーに二時間もいたなんて、ひさしぶりだよ」
『シンデレラはいつも長居されませんからね』
「サム、嫌味をいうなよ。だいたい僕はシンデレラにしてはとうがたちすぎている」
仮面をはずした加賀美の顔は彫りが深く、日本人離れした顔立ちだった。峡と同じくらいの年齢だろうか。思わず凝視してしまい、俺はあわてて眼をそらしたが、加賀美は逆に俺の顔をのぞきこんだ。仮面ごしにじっとみつめてくる。加賀美の指が俺の顎に触れた。
「加賀美光央」
顔を近づけて彼はささやいた。ウイスキーの香りがする。俺もきっと酒の匂いをさせているだろう。酔っているのは自覚していた。加賀美と話しながら杯を重ねてしまったからだ。
「きみは……若い木のような匂いがするね、ゼロ」
「――どういうことです?」
俺は加賀美の眼をみつめる。今日は何も香水を、いつもの匂いをつけていないのに、どういうわけだろう。
「なにかな……控えめなのに、内側に力が隠れているような?」
加賀美は俺の顎に指をかけたままだ。
「ゼロ、きみの仮面の下もみてみたい」
唇がおりてきたとき、俺はじっとして動けなかった。心臓がばくばくと鳴っていた。ほんの軽い接触で、すぐに唇は離れていく。さらりとした麻布のような感触だった。
「本当に、いつもなら少し飲んで帰るだけなんだ。楽しかったよ。また会えるかな?」
加賀美は俺の肩を軽く抱いてささやく。
「……ええ」
俺はあいまいにうなずいた。
「だいたいカーニバル・デイに来るんだ。――サム、僕は帰るよ」
『靴をお忘れにならないようになさってください』
「忘れてもゼロが預かってくれるさ」
加賀美はオーディオルームを出ていきながらもう一度振り返った。俺は自分の顔が火照るのを感じ、思わず頬に手をあてた。
ハウス・デュマーの外では頼んでいた車が待っていた。俺は車中でコートの雫をはらったが、みぞれが降っているわけでもないのに、指には水ではなく小さな氷の粒がついた。
「雨氷ですね。めずらしい」と運転手がいう。
「みぞれじゃなくて?」
「空中では水なのに、地面に落ちたとたん氷になるんです。フロントガラスに氷がついているでしょう? 送り先はご登録のご自宅でよろしいですか?」
「ありがとう。頼む」
シートに背中を預けているとさらに酔いが回ってきた。頭の奥がくらくらして、加賀美の唇の感触を俺はひそかに反芻していた。体の奥がぞくりと震えた。
『新しい抑制剤は処方箋をきっちり守ること。中和剤は不要なときは使わずに減らしていきなさい。ヒートの間隔はどうなってる?』
ビデオ越しの峡の声に俺は素直に返事をする。
「不安定だ。いつ前兆がくるかと思うと怖い」
『世間にベータだと見せているから、ますます怖くなるんだろう。おまえの本来の姿でいられる場所を作っていれば気持ちも安定するはずだ。今さらではあるが……。前兆が来たらハウスへ行って個室へこもるのも手だ。前に渡したカードのハウスならそれもできるだろうし……行ってみたか?』
「ああ。峡、あの――」
『なんだ?』
峡の声はあっけらかんとしている。この叔父には昔からときどき、つかみかねるところがあると俺は思う。兄弟も同然に信頼している人なのに、そう感じるのも不思議なものだった。
「あのハウスはずいぶん……高級だなと思って」
『そうだな。セキュリティがしっかりしてるからアルファの有名人もお忍びで使ってるらしい。レストランも評判がいいらしいぞ。俺が再現できそうなメニューをみつけたらレシピを聞いておいてくれ』
峡らしい発言に俺は笑った。
「レシピなんて簡単に教えてくれるものじゃないだろう」
『わかるか。聞いてみろよ』
「いいけど、誰かとデートでもしないかぎりレストランになんて行きそうにない」
『だったら早くデート相手をみつけろ。料理好きの叔父の恩に報いてくれ』
峡は冗談とも本気ともつかない声でそういった。
もう二月だが、俺はあいかわらずひきこもって仕事をする毎日だった。TEN‐ZEROのチームとのやりとりは定期的に行われていたが、一月の中間発表のあとは藤野谷から個人的な連絡が入ることは減った。
俺はそれを残念に思ったわけではない。けっしてそうじゃない。なのに空虚な気分が自分の内側を侵食しているような、そんな感じがなぜかいつもついて回った。TEN‐ZEROのチーム、とくに三波や鷹尾とビデオで話した後はその気分が強くなった。
彼らはいつも自分たちのボスの話をする。ボス、つまり藤野谷のことだ。最近、以前にくらべて「丸くなった」と鷹尾がいう。
『うーん、アルファの雰囲気が変わる時って、私の経験則では誰かと付き合いはじめたときなんですが、うちのボスはどうでしょう。何しろ一時期ひどかったという話も聞きますし……』
「ひどかったって?」
『あ――』
鷹尾はしまったという顔をした。
『佐枝さんは知らなかったんですね? じゃあオフレコで。私がTEN‐ZEROに就職を決めた時、ボスについては良くない噂が流れていて、オメガは用心しろといわれたんです』
「用心って?」
『つまみ食いして捨てるからって。実際はそんなこと全然なかったんですけどね。単にめちゃくちゃ厳しいだけでした。だから根も葉もない噂だったんですけど』
俺はまばたきする。大学時代の藤野谷からは想像もつかなかった。藤野谷はモテたし、大学のころはベータの女性や、時々はオメガとも付き合っていたのを俺はなんとなく知っていた。俺が知りたいと思わなくても風の噂に聞こえてくるのだ。藤野谷の方も俺にそんな話をいっさいしなかったが、誰とも長続きはしないかわり、すべて学生同士のごく普通のつきあいだったはずだ。
当時は藤野谷と自分が何の関係もないのだと思っても、ざわざわと体の奥が湧くようになるのを止められなかった。そんなときは決まってひどいヒートがやってきたから、迷惑な話だった。
『あ、ごめんなさい、変な話して。とにかく最近ボスが明るいし優しいので私は助かってます。きっと佐枝さんとのプロジェクトがうまくいってるからですよ』
「プロジェクトがうまくいってるのは俺よりもきみや三波のおかげだろう?」と俺は答える。
「そういえば三波は藤野谷とよく出かけてるんだろう。十二月に一度キノネで会ったよ。三波は靴をオーダーしたといっていた」
『え、何ですかそれ。聞いてませんよ』
今度は鷹尾が目を丸くした。
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