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第1部 カフェ・キノネ
11.完璧なひと皿
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「玉ねぎのストックあるか?」
ガレージの扉を閉めながら峡がたずねた。
「そこの箱にたんまりある」
「そういえばおふくろがこの前トリを送ってこなかったか? 骨付きの。もう食った?」
「いや。冷凍したままだ」
「よし。オニオンソースでいこう」
「まだ作るのか? あれだけ餃子、食べたのに」
「誓ってもいいが、出来上がるころには腹が減ってる。いいから零は座ってろ。今のうちに食っておかないとあとがつらいぞ」
家にあがると峡はふりかえりもしないでキッチンへ向かった。母屋で祖父と佐枝の両親と手作りの餃子を食べたあと、俺と峡は母の最近の成果――修繕された母屋の雨樋、塗り替えが完了した地下パントリーの壁、新作のスパイスラックを一通り見学させられ、最後は父の手製のピクルスと梅干、何種類かの燻製をおみやげに持たせられて――佐枝家は料理担当が父、DIY担当が母なのだ――車で戻ってきたところだった。もう日暮れで、母屋で予告した通り峡は泊っていくつもりらしい。
俺は黙って洗面所へ行き、手と顔をくりかえし、ていねいに洗った。ヒートの前兆にありがちだが、自分の匂いが気になってたまらない。香水を一滴だけのばす。TEN‐ZEROのオーダーメイド製品の特長は香りを自分の体臭の一部のように使えることだ。短時間でなじむ上、他の香水のようにどぎつい主張をしないから、このまま料理をしても気にならない。
キッチンをのぞくとまな板を叩く音が聞こえ、峡が玉ねぎをせっせとざく切りにしていた。刻みおえると琺瑯びきの鉄鍋にバター、ローリエ、粒胡椒、ぶつ切りの鶏肉、そして玉ねぎを入れて、弱火にかけた。
「座ってろっていったろ」
俺が横に立っても、叔父はこちらを見もせずにまな板を洗っている。
「何かするよ」
「これはもうほっておくだけだ」
そして思い出したように卵型のアナログタイマーをセットした。
「つけあわせは何がいい? イモ? マカロニ?」
「何でもいいよ。今は腹いっぱいだ」
「餃子は案外すぐ腹がへるんだ。作るのは大変だけど。おやじも好きだよな」
佐枝の父に似たのか峡も料理が好きだが、得意技には切って煮るだけ、炒めるだけ、といった簡単なレシピも多い。俺はリビングでメールとチャットの概要だけ確認した。TEN‐ZEROのチームからは昨夜のうちにコミュニケーションツールへの招待が届き、すでに登録済みだ。プロジェクト名は「スペース・ゼロ」。
ヒートがはじまったら、エージェントAIに事務的なことは任せてしまおうと俺は思った。直接的なつながりはできるだけ減らすにかぎる。
「テレビでもみるか」
「なんでも」
キッチンから峡が戻ってきて隣にどさっと腰をおろす。ソファが沈んだ。峡はリモコンをいじってしばらくチャンネルを回していたが、気に入るものがみつからなかったのか、ネットの音楽番組に切り替えた。俺はテレビをめったに見ない。
何も考えずにただ画面を眺めていると、いきなりぼそりと峡がいう。
「零――いつまで続けるつもりだ?」
「何の話」
「銀星がいったように高校の時に止めるはずだっただろう。あの時は仕方ないと思ったが、延長しても大学を出るまでの条件だった。それからまた延長して、もうこの年齢だ。続けると何が起きるか、前に話したな」
「ああ」俺はみじかく答える。
「産めなくなるんだろう」
「男性機能には影響はないはずだが……」
「べつにいい」
「……そうはいかんだろう」
俺は峡の顔をちらっと見て、目をそらした。ここ二年ほど何度か繰り返している会話だった。
ホルモン投与による性周期の調整やベータへの偽装をやめ、隠れるのをやめること。オメガとしての人生を取り戻すこと。ほかのオメガのように自然に暮らすこと。
今の社会はオメガに優しい。オメガ保護関連法に基づく 優遇政策――アファーマティブアクションが取られ、職業選択の幅も広い。アルファに一方的に支配されるようなことはない。長年アルファクランに従属させられてきた佐井家もそうだ。
「〈オメガ系〉が死語になるのはじきだ」
峡がぽつりといった。
通説ではオメガは家系を問わずランダムに生まれてくることになっているが、稀に〈オメガ系〉と呼ばれる血統がある。通常の三倍はオメガの誕生率が高いとされる血統だ。実は一般社会にこのことはほぼ知られていない。〈オメガ系〉の存在は何世紀もアルファクランの内部に隠されていた。
つまりこういうことだ。
アルファの名族が次世代にアルファの子供を望んだとき、アルファとオメガの組み合わせがもっともアルファが生まれる確率が高い。だからアルファの支配階級は一族の存続のために〈オメガ系〉の血統を事実上所有――お望みなら「隷属」といってもいい――していたのだ。
これは現代では眉をひそめられるような優生思想の現われで、先進国では公然と口に出すこともできない。しかしオメガの誕生率が高い血統を自分の一族の内部に飼って、アルファの子供にオメガの配偶者を常時「供給」できるようにする――しかも正式な婚姻関係があるとは限らない――という習慣は、支配階級のアルファクラン内部では何世紀も続いていた。
この支配は近代以降、政治体制や法が変わるたびに少しずつゆるみ、七十年前のオメガの「解放」を契機に現在では存在しないことになっている。いまでは名族にとって〈オメガ系〉という言葉はほぼタブーで、つつかれたくない話題でもある。
佐井家もかつてはそんな〈オメガ系〉のひとつだった。藤野谷家をはじめとしたアルファの名族に血統を管理され、庇護と隠匿と支配が一体になった干渉を受けていたのだ。もちろん現在では昔のような強制結婚や略奪はない。佐井家のオメガが名族のアルファに嫁ぐのは、少なくとも表向きは、当人の意思に反しては行われない。
とはいえ俺の父の場合は、かなり事情が異なったらしい。
「耳にタコだと思うが、零をベータにみせかけないと当時は何がおきるかわからなかったんだ。佐井家は疑心暗鬼で、藤野谷家は怒り狂ってた。当時はな。あくまでも緊急措置のはずだったんだ」
峡がいう。たしかに何度も聞いた話だ。銀星や他の親戚の大人たちは、小さな子供にも理性をもって説明しようとしたのだった。
「それで良かったんだ」と俺は返す。「俺がベータに見えなかったとして、例のアートキャンプでそのまま藤野谷に会ってたら何が起きたと思う? あいつが気づかないのは俺の名前が佐枝で、おまけにベータだと信じているからだ。バレていれば俺の父親みたいなろくでもないことの繰り返しか、もっと悪いことも――」
「そんな話じゃない」
峡はまっすぐテレビの画面をみていた。俺が小さな子供だったころにも、ときどきこんなふうに並んで話をした。十五歳違いの叔父は家に突然やってきた赤ん坊を佐枝の両親同様受け入れてくれ、いまでは俺の主治医も兼ねている。
「俺がいいたいのは、零が今の――オメガの生きやすさから外れているのは、いいことだと思えないって話だ。やっと少し楽な時代が来たのに……いや、馬鹿なベータには、オメガばかり優遇されてるって羨ましがるようなのもいるがな、それとも関係ないんだ。俺は」峡は言葉を探すように少し黙った。
「おまえにおまえ自身でいてほしいんだ。副作用の問題もあるが……おまえはオメガで、ほしければ子供も産める」
俺は茶化すように笑った。
「相手が必要だな」
「〈ハウス〉へ行けばいい。交友関係も広がる――」
「余計なお世話だな。それこそ子供じゃないんだ」
俺は話を遮って立ち上がったが、峡を見下ろして後悔した。傷つけたにちがいなかった。
「ごめん」
「いや。――なあ、零。子供を持つべきだとか結婚して落ち着けとかいいたいんじゃない。ただ、おまえがベータに偽装することで誰とも親しくつきあえないのが残念なだけだ。それに俺が手を貸しているのも」
「峡、勘違いしないでくれよ」立ったまま俺はいった。「ベータのふりをしつづけているのは俺の意思だ。峡のせいでも、佐枝の母さんたちのせいでもないし、佐井家のせいでもない」
「それならなぜ?」
峡は俺に目をあわせた。つよい視線はⅩ線でも仕込んでいるかのようで、俺は居心地が悪くなる。
「ずっと不思議に思っていたんだ。零、おまえは十六歳のとき、銀星の勧めのとおりに服薬をやめるつもりだっただろう」
峡はついと手を動かして、ソファの足元に置いた鞄を示した。中には薬局で手に入れたアンプルが入っている。
「転校の準備までしたじゃないか。なのにそのあと、おまえは突然嫌だといった。そのときだけじゃない。大学を卒業するときもそうだ。何があったんだ?」
俺はあいまいな薄笑いをうかべた。
「――気が変わったんだ。あのときの……ヒートが辛すぎた」
「それだけか?」
「そうだよ」
「藤野谷天藍が絡んでるんじゃないのか?」
「どうしてそんなことを?」
峡は俺に視線をあてたままだ。
「どうしてかって? どちらの場合も藤野谷天藍がおまえの近くにいたからだ。高校では同級生だったし、大学も同じだろう? 俺はな、零。正直運命のつがいなんてクソったれだと思っているが、近くにいればひきあうのは仕方がない。どれだけ偽装したってそういうものなんだ。無理に逆らうのも――」
「叔父さん。動物じゃないんだ。俺は父親たちのようにはならない」
自分の声が不自然にこわばったのがわかった。俺はぎごちなく峡から視線をそらした。
「少し寝る」
「起きた頃にはめしができてるよ」
横になる前に薬局で手に入れた緩和剤のアンプルを注射した。過去何度かのつらいヒートの記憶が頭をよぎり、正直いって心おだやかではなかった。
ふだんの俺にとってのヒートの一番の問題は、その期間は絵も描けないばかりか、他に何も手につかなくなることだった。制作もできず仕事も進められずに悶々と過ぎる時間が続くのは、ゆるやかに首を絞められているも同然だ。アルファやベータにこんな悩みがないのは不公平だと思う。その代わりオメガには〈ハウス〉へ行く権利が認められているとしても。
頭がぼうっとしていた。袖を戻してボタンをとめながら、ハウスへ行けという峡の忠告を思い出していた。俺はめったなことではハウスを使わなかった。ヒートの期間も俺はあまりオメガらしくみえないようで――ただし若くは見えるらしいが――物珍しそうに扱われることが多く、おまけにハウスの中のふるまいや、どういえばいいのだろうか、その「文化」に馴染めなかったからだ。
たしかに峡のいうとおり、俺はベータとしてのふるまいを続けすぎて、アルファとも他のオメガともうまくつきあえないのだった。友達づきあいのあったアルファといえば藤野谷だけときているが、あいつは俺のことをベータだと思っている。
だからこそ――
(サエが好きだ。ずっと前から)
体の奥が一瞬熱をおびたような気がして、俺は目を閉じる。いまさら偽装をやめてどうなるというのだろう。
何が自然で何がそうでないのかなんて、どうでもよかった。
アラーム音で目が覚めた。リビングのソファに英語の本が散らばっている。半開きになったドアからキッチンをのぞくと、換気扇の騒音のなかで峡は鍋にかがみこみ、味見をしていた。
「起きたか。見ろ、うまいぞ」
あたりはいい匂いが充満している。峡は真剣な顔でサワークリームと白ワイン、ハーブを調合し、俺は横に立って鍋の中身を眺めた。水を一滴も入れていないのに煮汁が出て、刻んだ玉ねぎの山はどこかへ消えている。骨付きのトリも、途中で加えたらしい皮つきのジャガイモも、箸で切れるほど柔らかい。
俺が返事をするまえに峡は肉を取り分けている。鍋の底に溜まったオニオンソースにサワークリームを加えて温め、絵の具を垂らすように皿にかける。俺の顔をみてにやりとした。
「腹が減るっていっただろう?」
「峡の予言力には感服するよ」
「完璧なトリを食べたければオニオンソースに限る。完璧な料理は人間のあかし、文化のあかしだ。座れよ。食うぞ」
どきりとする。動物じゃないんだ、仮眠の前に峡へそんな風にいい放った自分の言葉が跳ね返ってきたようだ。
俺は黙ってナイフとフォークを手に取った。
ガレージの扉を閉めながら峡がたずねた。
「そこの箱にたんまりある」
「そういえばおふくろがこの前トリを送ってこなかったか? 骨付きの。もう食った?」
「いや。冷凍したままだ」
「よし。オニオンソースでいこう」
「まだ作るのか? あれだけ餃子、食べたのに」
「誓ってもいいが、出来上がるころには腹が減ってる。いいから零は座ってろ。今のうちに食っておかないとあとがつらいぞ」
家にあがると峡はふりかえりもしないでキッチンへ向かった。母屋で祖父と佐枝の両親と手作りの餃子を食べたあと、俺と峡は母の最近の成果――修繕された母屋の雨樋、塗り替えが完了した地下パントリーの壁、新作のスパイスラックを一通り見学させられ、最後は父の手製のピクルスと梅干、何種類かの燻製をおみやげに持たせられて――佐枝家は料理担当が父、DIY担当が母なのだ――車で戻ってきたところだった。もう日暮れで、母屋で予告した通り峡は泊っていくつもりらしい。
俺は黙って洗面所へ行き、手と顔をくりかえし、ていねいに洗った。ヒートの前兆にありがちだが、自分の匂いが気になってたまらない。香水を一滴だけのばす。TEN‐ZEROのオーダーメイド製品の特長は香りを自分の体臭の一部のように使えることだ。短時間でなじむ上、他の香水のようにどぎつい主張をしないから、このまま料理をしても気にならない。
キッチンをのぞくとまな板を叩く音が聞こえ、峡が玉ねぎをせっせとざく切りにしていた。刻みおえると琺瑯びきの鉄鍋にバター、ローリエ、粒胡椒、ぶつ切りの鶏肉、そして玉ねぎを入れて、弱火にかけた。
「座ってろっていったろ」
俺が横に立っても、叔父はこちらを見もせずにまな板を洗っている。
「何かするよ」
「これはもうほっておくだけだ」
そして思い出したように卵型のアナログタイマーをセットした。
「つけあわせは何がいい? イモ? マカロニ?」
「何でもいいよ。今は腹いっぱいだ」
「餃子は案外すぐ腹がへるんだ。作るのは大変だけど。おやじも好きだよな」
佐枝の父に似たのか峡も料理が好きだが、得意技には切って煮るだけ、炒めるだけ、といった簡単なレシピも多い。俺はリビングでメールとチャットの概要だけ確認した。TEN‐ZEROのチームからは昨夜のうちにコミュニケーションツールへの招待が届き、すでに登録済みだ。プロジェクト名は「スペース・ゼロ」。
ヒートがはじまったら、エージェントAIに事務的なことは任せてしまおうと俺は思った。直接的なつながりはできるだけ減らすにかぎる。
「テレビでもみるか」
「なんでも」
キッチンから峡が戻ってきて隣にどさっと腰をおろす。ソファが沈んだ。峡はリモコンをいじってしばらくチャンネルを回していたが、気に入るものがみつからなかったのか、ネットの音楽番組に切り替えた。俺はテレビをめったに見ない。
何も考えずにただ画面を眺めていると、いきなりぼそりと峡がいう。
「零――いつまで続けるつもりだ?」
「何の話」
「銀星がいったように高校の時に止めるはずだっただろう。あの時は仕方ないと思ったが、延長しても大学を出るまでの条件だった。それからまた延長して、もうこの年齢だ。続けると何が起きるか、前に話したな」
「ああ」俺はみじかく答える。
「産めなくなるんだろう」
「男性機能には影響はないはずだが……」
「べつにいい」
「……そうはいかんだろう」
俺は峡の顔をちらっと見て、目をそらした。ここ二年ほど何度か繰り返している会話だった。
ホルモン投与による性周期の調整やベータへの偽装をやめ、隠れるのをやめること。オメガとしての人生を取り戻すこと。ほかのオメガのように自然に暮らすこと。
今の社会はオメガに優しい。オメガ保護関連法に基づく 優遇政策――アファーマティブアクションが取られ、職業選択の幅も広い。アルファに一方的に支配されるようなことはない。長年アルファクランに従属させられてきた佐井家もそうだ。
「〈オメガ系〉が死語になるのはじきだ」
峡がぽつりといった。
通説ではオメガは家系を問わずランダムに生まれてくることになっているが、稀に〈オメガ系〉と呼ばれる血統がある。通常の三倍はオメガの誕生率が高いとされる血統だ。実は一般社会にこのことはほぼ知られていない。〈オメガ系〉の存在は何世紀もアルファクランの内部に隠されていた。
つまりこういうことだ。
アルファの名族が次世代にアルファの子供を望んだとき、アルファとオメガの組み合わせがもっともアルファが生まれる確率が高い。だからアルファの支配階級は一族の存続のために〈オメガ系〉の血統を事実上所有――お望みなら「隷属」といってもいい――していたのだ。
これは現代では眉をひそめられるような優生思想の現われで、先進国では公然と口に出すこともできない。しかしオメガの誕生率が高い血統を自分の一族の内部に飼って、アルファの子供にオメガの配偶者を常時「供給」できるようにする――しかも正式な婚姻関係があるとは限らない――という習慣は、支配階級のアルファクラン内部では何世紀も続いていた。
この支配は近代以降、政治体制や法が変わるたびに少しずつゆるみ、七十年前のオメガの「解放」を契機に現在では存在しないことになっている。いまでは名族にとって〈オメガ系〉という言葉はほぼタブーで、つつかれたくない話題でもある。
佐井家もかつてはそんな〈オメガ系〉のひとつだった。藤野谷家をはじめとしたアルファの名族に血統を管理され、庇護と隠匿と支配が一体になった干渉を受けていたのだ。もちろん現在では昔のような強制結婚や略奪はない。佐井家のオメガが名族のアルファに嫁ぐのは、少なくとも表向きは、当人の意思に反しては行われない。
とはいえ俺の父の場合は、かなり事情が異なったらしい。
「耳にタコだと思うが、零をベータにみせかけないと当時は何がおきるかわからなかったんだ。佐井家は疑心暗鬼で、藤野谷家は怒り狂ってた。当時はな。あくまでも緊急措置のはずだったんだ」
峡がいう。たしかに何度も聞いた話だ。銀星や他の親戚の大人たちは、小さな子供にも理性をもって説明しようとしたのだった。
「それで良かったんだ」と俺は返す。「俺がベータに見えなかったとして、例のアートキャンプでそのまま藤野谷に会ってたら何が起きたと思う? あいつが気づかないのは俺の名前が佐枝で、おまけにベータだと信じているからだ。バレていれば俺の父親みたいなろくでもないことの繰り返しか、もっと悪いことも――」
「そんな話じゃない」
峡はまっすぐテレビの画面をみていた。俺が小さな子供だったころにも、ときどきこんなふうに並んで話をした。十五歳違いの叔父は家に突然やってきた赤ん坊を佐枝の両親同様受け入れてくれ、いまでは俺の主治医も兼ねている。
「俺がいいたいのは、零が今の――オメガの生きやすさから外れているのは、いいことだと思えないって話だ。やっと少し楽な時代が来たのに……いや、馬鹿なベータには、オメガばかり優遇されてるって羨ましがるようなのもいるがな、それとも関係ないんだ。俺は」峡は言葉を探すように少し黙った。
「おまえにおまえ自身でいてほしいんだ。副作用の問題もあるが……おまえはオメガで、ほしければ子供も産める」
俺は茶化すように笑った。
「相手が必要だな」
「〈ハウス〉へ行けばいい。交友関係も広がる――」
「余計なお世話だな。それこそ子供じゃないんだ」
俺は話を遮って立ち上がったが、峡を見下ろして後悔した。傷つけたにちがいなかった。
「ごめん」
「いや。――なあ、零。子供を持つべきだとか結婚して落ち着けとかいいたいんじゃない。ただ、おまえがベータに偽装することで誰とも親しくつきあえないのが残念なだけだ。それに俺が手を貸しているのも」
「峡、勘違いしないでくれよ」立ったまま俺はいった。「ベータのふりをしつづけているのは俺の意思だ。峡のせいでも、佐枝の母さんたちのせいでもないし、佐井家のせいでもない」
「それならなぜ?」
峡は俺に目をあわせた。つよい視線はⅩ線でも仕込んでいるかのようで、俺は居心地が悪くなる。
「ずっと不思議に思っていたんだ。零、おまえは十六歳のとき、銀星の勧めのとおりに服薬をやめるつもりだっただろう」
峡はついと手を動かして、ソファの足元に置いた鞄を示した。中には薬局で手に入れたアンプルが入っている。
「転校の準備までしたじゃないか。なのにそのあと、おまえは突然嫌だといった。そのときだけじゃない。大学を卒業するときもそうだ。何があったんだ?」
俺はあいまいな薄笑いをうかべた。
「――気が変わったんだ。あのときの……ヒートが辛すぎた」
「それだけか?」
「そうだよ」
「藤野谷天藍が絡んでるんじゃないのか?」
「どうしてそんなことを?」
峡は俺に視線をあてたままだ。
「どうしてかって? どちらの場合も藤野谷天藍がおまえの近くにいたからだ。高校では同級生だったし、大学も同じだろう? 俺はな、零。正直運命のつがいなんてクソったれだと思っているが、近くにいればひきあうのは仕方がない。どれだけ偽装したってそういうものなんだ。無理に逆らうのも――」
「叔父さん。動物じゃないんだ。俺は父親たちのようにはならない」
自分の声が不自然にこわばったのがわかった。俺はぎごちなく峡から視線をそらした。
「少し寝る」
「起きた頃にはめしができてるよ」
横になる前に薬局で手に入れた緩和剤のアンプルを注射した。過去何度かのつらいヒートの記憶が頭をよぎり、正直いって心おだやかではなかった。
ふだんの俺にとってのヒートの一番の問題は、その期間は絵も描けないばかりか、他に何も手につかなくなることだった。制作もできず仕事も進められずに悶々と過ぎる時間が続くのは、ゆるやかに首を絞められているも同然だ。アルファやベータにこんな悩みがないのは不公平だと思う。その代わりオメガには〈ハウス〉へ行く権利が認められているとしても。
頭がぼうっとしていた。袖を戻してボタンをとめながら、ハウスへ行けという峡の忠告を思い出していた。俺はめったなことではハウスを使わなかった。ヒートの期間も俺はあまりオメガらしくみえないようで――ただし若くは見えるらしいが――物珍しそうに扱われることが多く、おまけにハウスの中のふるまいや、どういえばいいのだろうか、その「文化」に馴染めなかったからだ。
たしかに峡のいうとおり、俺はベータとしてのふるまいを続けすぎて、アルファとも他のオメガともうまくつきあえないのだった。友達づきあいのあったアルファといえば藤野谷だけときているが、あいつは俺のことをベータだと思っている。
だからこそ――
(サエが好きだ。ずっと前から)
体の奥が一瞬熱をおびたような気がして、俺は目を閉じる。いまさら偽装をやめてどうなるというのだろう。
何が自然で何がそうでないのかなんて、どうでもよかった。
アラーム音で目が覚めた。リビングのソファに英語の本が散らばっている。半開きになったドアからキッチンをのぞくと、換気扇の騒音のなかで峡は鍋にかがみこみ、味見をしていた。
「起きたか。見ろ、うまいぞ」
あたりはいい匂いが充満している。峡は真剣な顔でサワークリームと白ワイン、ハーブを調合し、俺は横に立って鍋の中身を眺めた。水を一滴も入れていないのに煮汁が出て、刻んだ玉ねぎの山はどこかへ消えている。骨付きのトリも、途中で加えたらしい皮つきのジャガイモも、箸で切れるほど柔らかい。
俺が返事をするまえに峡は肉を取り分けている。鍋の底に溜まったオニオンソースにサワークリームを加えて温め、絵の具を垂らすように皿にかける。俺の顔をみてにやりとした。
「腹が減るっていっただろう?」
「峡の予言力には感服するよ」
「完璧なトリを食べたければオニオンソースに限る。完璧な料理は人間のあかし、文化のあかしだ。座れよ。食うぞ」
どきりとする。動物じゃないんだ、仮眠の前に峡へそんな風にいい放った自分の言葉が跳ね返ってきたようだ。
俺は黙ってナイフとフォークを手に取った。
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