義弟の舌

志貴野ハル

文字の大きさ
上 下
23 / 25
3章

12

しおりを挟む
 秋彼岸が過ぎた朝の空気は、夏の頃より乾いていて冷たい。
 目が覚めて、最初に感じた喉の渇きを咳払いで追い払う。寝ている最中は暑かったのか、いつの間にか足首から下が布団からはみ出ていた。
 擦り合わせた両足の先が冷たくて、急いで布団に潜り込ませる。中はこたつみたいに暖かかった。寝に入った時と同じ横向きで私に腕枕をしている義弟のふくらはぎに足を絡めて、足裏をくっつける。電流を流されたのかと思うくらい、肩がびくっと跳ねた。

「あ、ごめんなさい、起こしちゃった」
「……お義姉さん、冷た……」

 義弟が寝ぼけたような声を出して、昨日の夜と同じように布団を引き上げる。頭まですっぽり隠されると息苦しくてジタバタともがいて布団から這い出ると、義弟の腕が腰にまとわりついてきた。まだ眠るつもりなのだろうか。

「ね、喫茶店、行くんじゃないの」

 上半身を布団から出して、義弟の頭を見下ろす。

「……ん、行きますよ」

 私のお腹にくっついて話すから息がかかってくすぐったい。じっと待っていたら、むくりと起き上がった。せっかくの熱が布団を剥がされたことでさあっと抜けて、寒くて身震いする。

「おはようございます」

 さっきの声とは打って変わって意外とスッキリした顔つきの義弟が布団から出てきて、私を見下ろした。ゆうべ長く眠ることができたおかげなのかもしれない。

「……お、おはようございます」

 もぞもぞと上体を起こす。

「じゃあ、着替えたら行きましょうか」
「あ、え、もう?」
「はい。7時からやってますから、準備して出ればちょうどいい時間のはずです」

 私の顔にまとわりつく髪を退けて頬に触れながら義弟が微笑む。



 早朝のがらんとした電車に乗って義弟に連れられた喫茶店は、私が予想していた場所とは違い飲み屋街の中にあった。居酒屋と居酒屋の間に挟まれた小さな平屋建てのそれは、閑散としているところに営業時間が書かれた看板がひとつだけ出ていて、カウベルの取り付けられたモザイクガラスのドアからはコーヒーのいい香りが染み出ている。

「ここ?」
「そうです」

 義弟がくすんだ銀色になったドアノブを引っ張る。元は塗装がしてあったのが剥がれたのだろう。カウベルがカランと小気味いい音を立てて、暖かい空気と一緒にコーヒーの香りが強く噴き出てきた。

「いらっしゃいませ」

 低くしゃがれた声で出迎えられる。ランプの灯りだけを頼りにしたような薄暗い店内は入ってすぐがカウンター席になっていて、その奥に立つ白い口髭を蓄えた店主らしき男の人がコーヒーカップを磨いていた手を止めてこちらを見た。
 すぐに奥から白いエプロンを身につけた同じ年頃の女性がやってくる。夫婦でやっているお店なのだろうか。

「いらっしゃいませ、2名様? ……あら?」
「お久しぶりです」

 義弟が頭を下げると、女の人はパッと口元に手をやった。

「あらぁ! お久しぶりねえ! 何年振り? ずうっと来ないんだもの、心配してたわぁ」
「すみません、ちょっとゴタゴタしていて」
「いいのいいの、奥の席でいい? 今日はまだお客さんが来ないから、ちょっと散らかしちゃってるんだけど」

 いつの間にか用意されていたのか、カウンターの男性からお冷を乗せた銀のトレイとメニュー表をさっと受け取って、ついてくるように促される。
 案内された奥はボックス席が6つあった。大人二人が並んで座れるくらいのえんじ色のソファがダークブラウンのテーブルを挟んでいる。
 一番手前の席にはカラフルな毛糸がいくつも籐のカゴに入って置かれていた。おそらくついさっきまでそこで編み物をしていたのだろう。
 さらに一番奥へ進むと壁をくり抜いて作ったような暖炉があって、パチパチと薪の爆ぜる音がする。暖炉に一番近い席へ通されて義弟と向かい合って座った。

「はーい、どうぞー。お決まりになりましたら呼んでください。暑かったら暖炉の火を弱めるから言ってちょうだいね」
「あ、ありがとうございます」

 お冷と一緒にメニューを手渡して女性店員がさっといなくなる。テーブルにはアルコールタイプのランタンが置いてあってゆらゆらと光が不規則に揺れていた。メニューを読むのには少しばかり頼りないけれど、ベロアのような肌触りをしたソファの座面は程よく沈んで体を包み込んでくれるし、ゆったりと流れるピアノの音色が心地良い。
 見渡せばソファとテーブルはどの席も同じだけれど、置かれているランプや壁にかけられている絵が一つずつ違っていてそれぞれの席に個性を出している。何度も通いたくなるのがわかるくらい落ち着く空間だった。
 手渡されたメニューの最初のページを開いて、義弟が小さな頃から食べていたというホットケーキを探す。小さな灯りの下では、写真がなく文字ばかりのメニューからそれを見つけるのに苦労した。
 なかなか探し出せずにいる私を見かねて助け舟を出そうとする義弟を断って、自分の目で確かめて「これ?」と指差す。てっきりサンドイッチなどの軽食が並ぶページにあるかと思ったのに、ドリンクメニューの一番下にあった。

「あぁ、それです」
「随分小さく書いてあるのね」
「元々、メニューにはなかったから」
「そうなの?」
「この子が小さい時に作ったのよぉ」

 絶妙なタイミングで女性店員がやってきた。どういうことかと首を傾げると、朗らかな口調で女性が話し始める。

「ここは昔、夜はバーで朝はそのまま喫茶店をやってたの。それでいつの間にか終電を逃したり酔い潰れたりしたお客さんの溜まり場みたいになっていってね。週末なんかは特に、喫茶店として開けられないくらい酔っ払いの墓場みたいになっちゃって」
「日曜日の朝は、潰れた父を僕が迎えに行ってたんですよ」

 私を見ながら補足する義弟が「懐かしいな」と言って目を細めた。つられたように店員も笑う。

「なのにお父さんはなかなか起きやしなくて。酔っ払い達の中で小さい子がただ待ってるっていうのはかわいそうだったからね、子供の喜びそうなものを作ったのが最初ってわけ」
「確かに僕、喜んで食べてましたね。家に帰ってからも、ここのパンケーキ食べたいってずっとわがままを言ってましたから」

 甘党の小さい義弟が駄々をこねている姿が容易に想像できてしまって思わず吹き出す。
 二人の視線が同時にこちらを向いたのを咳払いで誤魔化して、小さな文字で書かれたメニューを指した。

「じゃあ、このホットケーキをお願いします。あと、ブレンドコーヒーも」
「僕も同じのを」
「ホットケーキとブレンドコーヒー、それぞれふたつね。お嬢さんはメープルシロップと蜂蜜、どちらがお好み?」
「あっ、メープルシロップで」
「はーい、かしこまりました」

 店員が細長いバインダーに挟んだ短冊形の注文用紙にさらさらと書いていく。

「あれ、僕には聞かないんですか?」
「だぁってあなたは聞かなくてもメープルシロップって決まってるでしょう」
「さすが、よく覚えてますね」

 感心する素振りを見せる義弟に、店員は呆れたように眉尻を持ち上げてから私の方へ向き直して「それじゃあ少々お待ちくださいね」と笑顔を振り撒いて離れていった。
 カウンターへ注文を伝える声を聞きながらお冷を口に含む。それまで微かに聞こえていたピアノジャズの音が少しだけ大きくなった気がした。
 向かい側のソファに足を組みながら深く体を預けてメニューを眺めている義弟は、普段着ている着物ではなく白いシャツに紺色のタックパンツという服装で、いつもと雰囲気が違って見える。こうした洋服を着るときは実年齢よりも若く見えて、大学生でも通用しそうだと思った。
 珍しくてお冷のグラスを持ったままじっと見入っていたら、義弟が顔を上げて微笑みながら首を傾げた。

「うん? なんですか?」
「ううん、今日は珍しく洋服を着てるなって思って」
「あぁ、寒くなると洋服の方が楽なんですよね。体温調節がしやすくて」
「へえ、そうなの。そういえばいつも和服を着ているのはどうして?」
「蔵のタンスにあったから。おそらく父のなんでしょうけど勝手に貰いました。和装も和装で夏は楽ですよ。着やすいし、脱ぎやすいので」
「自分でささっと着られるっていうのはすごいわよね」
「男は羽織って帯を締めるだけですからね。女の人は綺麗な帯も多いし、色々、手順があるんでしょう?」
「そうなの。私もあれ着てこれ着て次はこうしてって、着方を母から教わったんだけどね、全然覚えられなくて。節目節目で着ることはあっても普段から着ているわけじゃないから、すぐに忘れちゃう」
「お義姉さんの着物姿は僕も見てみたいです。最後に着たのはどんなのでした?」
「最後は」

 それまですらすら出ていた言葉が急に詰まる。最後に着たのは、夫との結婚式を挙げた白無垢だ。普段着の着物ではないけれど和服という括りでならそうなる。義弟は出席していないから知らないのだ。

「……質素なんだけど、帯はやたらとキラキラしていて固くて重たくて」

 だからと言ってわざわざ夫が絡む話はしたくなかった。本当のことは言わず、その時母が着ていた留袖の記憶を頼りに適当な嘘をついて誤魔化す。

「あぁ、やっぱり女性のは重いんだ」
「そ、そうなると洋服の方がいいって思っちゃって」
「敬遠しますよね」
「うん」

 ちょうど会話が途切れたところで、カウンターの方から新しいコーヒーの良い香りが漂ってきた。義弟の後ろを見るようにソファ席から首を伸ばす。

「ここ、すごくいいところね。静かで雰囲気も落ち着いていて」
「でしょう。でも僕の足が遠のいている間にずいぶん様変わりしましたよ。昔はもっと薄暗くて酒とタバコの匂いが充満していましたから」
「そうなの?」
「うん。しかも呂律の回らない意識もはっきりしていない酔っ払い達がゴロゴロいるわけでしょう。最初のうちは家族三人で父を迎えに行っていたんですが、兄や母は早々に嫌がっていつの間にか僕が一人で迎えに行くハメになってました。それでも、一人で電車に乗ったりホットケーキを食べさせてもらえたりで、僕自身は楽しかったんですけどね」
「一人で電車に乗ってたの? 小さい頃って言っていたけど」
「小学校低学年の頃です。ここのホットケーキのファンになって毎日でも食べたくて、あまり騒ぐものだからとうとう母親から、そんなに言うなら喫茶店の子になりなさいって言われて」
「さすがにそれは、泣いたでしょう」
「いや、それが全然。うんって喜んで、また一人で電車に乗ろうと家を飛び出しました。これで毎日ホットケーキ食べれる、食べ放題だって言って。結局、母が追いかけてきて止められましたが」
「うそ、なにそれ」

 予想の斜め上をいく行動に思わず声をあげて笑ってしまった。義弟も幼い頃の自分に呆れたように苦笑する。

「バカですよねえ。それからしばらくして、父が週末に飲み明かすことが無くなって代わりに毎週日曜日の朝、ホットケーキを作るようになったんですけど。それでもたまにはここのが食べたいって言って、連れて行ってもらってましたね」

 背もたれから体を離した義弟がグラスを取ろうと手を伸ばす。その向こうでは先ほどの店員が銀色のトレイにコーヒーカップを乗せてこちらに来るのが見えた。

「はい、先にコーヒーを出しちゃうわね。おかわりはタダだから遠慮しないで言ってねぇ」

 私たちの目の前に真っ白なソーサーに乗せられた花柄のコーヒーカップが置かれ、テーブルの真ん中にはミルクポットと四角いブラウンシュガーの入った小瓶が置かれる。

「ありがとうございます。いい匂い……。コーヒー飲むの、久しぶり」
「うちはいつもお茶ですもんね」
「ねぇ、あなた、いつの間に結婚したの?」

 砂糖もミルクも入れずにブラックのままカップに口をつける直前、店員が義弟の方を向いて尋ねた。突然の発言に思わず固まってしまった私を義弟がちらりと見て、ブラウンシュガーの小瓶を手に取る。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

冷徹義兄の密やかな熱愛

橋本彩里(Ayari)
恋愛
十六歳の時に母が再婚しフローラは侯爵家の一員となったが、ある日、義兄のクリフォードと彼の親友の話を偶然聞いてしまう。 普段から冷徹な義兄に「いい加減我慢の限界だ」と視界に入れるのも疲れるほど嫌われていると知り、これ以上嫌われたくないと家を出ることを決意するのだが、それを知ったクリフォードの態度が急変し……。 ※王道ヒーローではありません

なし崩しの夜

春密まつり
恋愛
朝起きると栞は見知らぬベッドの上にいた。 さらに、隣には嫌いな男、悠介が眠っていた。 彼は昨晩、栞と抱き合ったと告げる。 信じられない、嘘だと責める栞に彼は不敵に微笑み、オフィスにも関わらず身体を求めてくる。 つい流されそうになるが、栞は覚悟を決めて彼を試すことにした。

イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。

すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。 そこで私は一人の男の人と出会う。 「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」 そんな言葉をかけてきた彼。 でも私には秘密があった。 「キミ・・・目が・・?」 「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」 ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。 「お願いだから俺を好きになって・・・。」 その言葉を聞いてお付き合いが始まる。 「やぁぁっ・・!」 「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」 激しくなっていく夜の生活。 私の身はもつの!? ※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 では、お楽しみください。

辣腕同期が終業後に淫獣になって襲ってきます

鳴宮鶉子
恋愛
辣腕同期が終業後に淫獣になって襲ってきます

処理中です...