義弟の舌

志貴野ハル

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3章

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 バスには乗らず、電車で街中まで出ることにした。
 久しぶりに開けたところへ出ると、目につくのは私より年下の若い子ばかりで、きちんと化粧をしてくれば良かったと駅に降り立った途端に後悔した。

(スーパーだけのつもりだったから……)

 心の中で言い訳をして、百貨店ビルが建ち並ぶ大通りを避けて、人通りの少ない道を選びながら歩く。
 裏道と呼ばれる昔ながらの商店街がある通りはなんでも揃っているスーパーと違って、青果、鮮魚、精肉と店ごとに分かれていてそれぞれ見ていて楽しかった。
 近くにスーパーができる前まではよくここまで来てあれこれと買っていた。精肉店のおかみさんが作る揚げたてのコロッケは美味しかったし、八百屋のおじさんが毎日のようにつけてくれるおまけも嬉しかった。

 朝食を食べたばかりだというのに、ちょうど漂ってきた揚げ物のいい匂いにつられてふらふらと中へ入ってしまいそうになる。
 ちょうど信号が青になったのを確認し、急いで道路を渡って向こう側のアーケードへ避難した。危ない。危うく散財するところだった。「今買ってしまっても帰ったところで衣がしなしなになるんだから」と買わない言い訳を自分に言い聞かせる。
 道路を渡ってから気づいたけれど、食材を売っている通りの反対側には来たことがなかった。予定はないけれど気になってとりあえず歩いてみると、昔ながらの個人がやっている飲食店や喫茶店が並んでいる。もしかしたらこの中のどれかに、小さい頃の義弟が通った喫茶店があるのかもしれないと思うと少し入ってみたい気もした。だけど約束したから、一番最初は義弟と入ってみたい。いつか一緒に来られるかもしれないと思うと、今、私一人で行ってもきっと楽しめないだろう。

 アーケードの端まで歩いて商店街の終着点を確かめる。その先は夜に活気づく飲み屋街になっていて、今はどの店看板を引っ込めて、人気がおらず閑散としていた。引き返してまた八百屋や精肉店の方へ戻る。
 もうここで買い物を済ませてしまおう。安藤さんもスーツ姿なら仕事の途中で寄っただけだろうし、きっと長居はしないだろう。遅くても多分昼過ぎには帰っているかもしれない。あちこち行って見ているうちに時間も過ぎてくれる。
 ふと視線を前へ移すと、八百屋のおじさんが店の前まで出てきてちらちらとこちらを見ていた。道路を行ったり来たりしていたから不審に思われたのかもしれない。
 気まずさを隠しながら目を合わせて会釈する。するとそれまでの怪訝な顔が一瞬で笑顔になり「やっぱり! 久しぶりだねえ!」と快活な挨拶が返ってきた。



 私を覚えていてくれた商店街の人たちとの会話が思いのほか弾んでしまって、結局、一日の中で一番気温の高い昼過ぎに買い物が終わった。汗だくになりながら帰路に着く。
 必要な調味料の他に、本来買う予定のなかった野菜やお肉を買って、さらにお土産としてコロッケや小玉のスイカを持たされた。それらを無理やり詰めた袋が腕に食い込んで痛い。背中に流れるほどの汗をかきながら歩き続けて、最寄り駅から自宅までの道すがらやっぱり引き返して駅前に停まっていたタクシーを拾えば良かったと何度もため息をつく。
 ようやく我が家の見える通りに入ると、義弟が門扉の前に立っていた。私を見つけて小走りで走り寄ってくる。


「おかえりなさい、随分、遅かったですね」
「ただいま戻りました。安藤さんは?」
「小一時間で帰りましたよ。こんな大荷物なら、僕もついていけば良かった」
「今日は久しぶりに駅前の商店街へ行ったの。お店の人と色々話しているうちについ買っちゃって、おまけもたくさんつけてくれて。ほら、小さいけどスイカも貰っちゃった。やっぱり客商売の人ってすごいのね。もうずっと行ってないのに私のことを覚えていてくれたみたい」


 安藤さんを避けていたことがやましくて、話し出すと口が止まらなかった。義弟は私の話を目を細めながら最後まで聞くと、「持ちますよ」と小玉スイカやその他の野菜が詰め込まれた袋を引っ張った。屈んだ拍子に、額にうっすらと汗が滲んでいるのが見える。


「もしかしてずっと外で待ってたの?」
「……お義姉さんが、なかなか帰ってこないから、心配で」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「いいえ、何事もなくて、安心しました」


 袋を持っていない方の手が私の右手に絡まる。額には汗をかいているのに、手は熱を持ったように熱くて少しカサカサしていた。誰もいないことを確認してから控えめに握り返す。


「……スイカ、今日の夕食の後に食べましょうね」
「じゃあ今のうちに、冷やしておきます」


 わずかな距離を並んで歩く。
 着いた途端に手が離れて、義弟が先に家の中へ入っていった。
 買ってきたものを急いで冷蔵庫にしまって冷たい麦茶で喉を潤す。二杯目の麦茶を持って居間へ行くと、テーブルの上には文字がびっしり書かれた原稿用紙が散乱しており、畳の上には安藤さんが持ってきたであろう本や雑誌が何冊も乱雑に散らばっていた。


「あぁ、すみません、散らかしっぱなしでした。片付けます」 


 義弟が、赤ペンで修正された原稿用紙をまとめて束にして紙袋に入れていく。


「それがお仕事?」
「そうですね、詳しくは見せられないのですが、校正といって、文章の修正をする仕事です」
「そんなに厚みがあるってことは、結構量が多いのねぇ」


 麦茶を飲みながら何の気なしに言うと、義弟がまた「そうですね」と少し声を低めて言った。それから畳の本を雑誌と分けて積み重ねていく。


「安藤がまた本を持ってきたので、お暇ならどうぞ」
「あ、ありがとう」
「それじゃあ僕は、少し離れへ行ってきます」
「え、お仕事なら、ここですればいいじゃない」
「一応、販売前のもので、守秘義務がありますから。あぁ、お義姉さんが勝手に読むとか、そういうのを心配してるんじゃなくて、僕が仕事をしているところを見られるのが、恥ずかしいというか」
「……そう」
「夕飯を作る頃には、戻ってきますね」


 そう言って立ち上がると義弟は封筒を持ったまま居間を出ていった。続いて玄関の扉が閉まる音がして、急に家の中がしんと静かになる。
 テーブルの上に飲みかけの麦茶を置いた。その音さえもやけに部屋に響く気がする。つい一ヶ月半前はこれが当たり前の光景だったのに、どうしようもない寂しさに駆られる。
 何か集中できるもの、寂しさを紛らわせるものを求めてテレビをつけた。だけど平日昼間の番組はワイドショーばかりで面白くなかった。すぐに消して義弟の片付けた雑誌を手に取る。だけどそれも文字が滑って頭に入ってこない。

(もういっそ、夕食の時間まで昼寝でもしてしまおうか。疲れたし、汗もかいたし、着替えて眠ってしまおう)

 そう決めて、閉じられていた寝室の襖を開けた。そこでやっと布団を干しっぱなしにしていたことに気づく。寝室から縁側へ出てみると布団の他に、朝、洗濯したばかりのシーツも干されていた。義弟がやってくれたのだろう。頼んでいたこともお礼を言うのもすっかり忘れていた。
 布団とシーツを取り込みながら、離れの様子を見る。締め切っていた小さな窓が全て開け放たれていた。だけど変化はそれだけで、音は全く聞こえない。
 邪魔してはいけないと思いながら、開きっぱなしの窓を見つめてみる。義弟が気づいて顔を出してくれることを期待したけれど、部屋の中の白い壁のようなものが見えるだけで中にいる義弟がどうやって仕事をしているのかわからない。

 諦めて寝室へ戻る。太陽光を吸ってふかふかになった敷布団へシーツをかけて、飛び込みたい気持ちを抑えながらまずは汗まみれになった服を着替えた。それからうつ伏せに寝転ぶ。お風呂に入るまでの気力はなかった。
 義弟が戻ってくる足音ですぐに起きられるように寝室と縁側の引き戸は開けっぱなしにしておく。時々、気持ちのいい風が入ってきて、あっという間に瞼が重くなってきた。セミか何かの虫の声がする。生き物の音が聞こえるだけなのにうっすらと寂しさが和らいでくるような気がして、私はすぐに目を閉じた。



「そういえば、離れには扇風機があるの?」


 夕方の五時過ぎ、母屋に戻ってきた義弟と夕食の準備に取り掛かりながら尋ねる。確か、離れには布団と少しの私物だけを持っていっていたはずだ。
 八百屋のおじさんに持たされたおまけのトマトを切って、白だしと塩昆布と和えていた義弟がこちらを見た。


「いや、扇風機はないですね」
「じゃあ暑くて、集中できなかったんじゃない? 確か部屋に使っていないものがあったはずだから、良ければ持っていって」
「あぁ、でもあそこは元々、蔵を改造して作ったものですから、意外に涼しいんですよ。むしろじっとしていると、寒く感じるくらいで、時々、窓を開けて、外の暖かい空気を取り込んでます」
「そうなの?」
「今度、来てみるといいです。意外に快適ですよ」


 義弟が目を細めた。表情を見ていたら、強がりや気遣いで言ったのではなく本心だとわかる。……快適だなんて思わなくていいのに。そう思われてしまったら、夏以降もここにいて欲しいなんて言えなくなる。適当に相槌を打ちながら、少し気分が落ち込んだ。
 それっきり会話が途切れて、私が生姜焼き用の生姜をすりおろしている間に、義弟がトマトと塩昆布のボウルを冷蔵庫にしまい、今度はキャベツを千切りにし始めた。
 本当に器用な人だ。私でさえ結婚してから今になってようやく調理に慣れてきたというのに、義弟はまるで昔から料理をしてきた人みたいに包丁を使いこなしている。ザクザクと小気味いいリズムで動いている手元にみとれているうちに、均等な薄さの千切りのキャベツが出来上がる。それを冷水に浸してまな板と包丁をざっと洗う。


「他に切るものはありますか?」
「え、あ、じゃあ次は生姜焼きに使う玉ねぎをお願いします」
「わかりました」


 筋切りしておいた豚肉に、生姜のすりおろしと調理酒を混ぜたものを浸す。義弟のおかげで今日も夕食が早く出来上がりそうだ。ぐつぐつとふたの縁から泡を吹いている土鍋の火を弱めて、生姜焼きのタレを作るとあとはもう急いでやることがなくなってしまった。手持ち無沙汰になって義弟に話しかける。


「お仕事はどう? 難しい? 結構かかりそう?」
「そうですねぇ、全くやったことがないというわけではないのですが、量も多いし、久しぶりなので、思い出しながらだから、……どれくらいかかるかな」 
「じゃあ、明日からはまた離れに戻っちゃうの」
「夜はこちらにいますよ」
「……よる……」


 ということは、昼のうちはやっぱり離れにいってしまうということだ。義弟の体調が戻って仕事をしようとしているのは応援したい。だけどその仕事に義弟を取られた気になって面白くない。だって、それがなかったらもっと長く一緒にいられた。約束していた喫茶店だって連れて行ってもらえたかもしれないのに。
 玉ねぎを切っていた義弟が、突然、手を止めてくすくすと肩を震わせた。


「どうしたの?」
「いや、さっきから、わかりやすく落ち込むなぁって」
「……だって」


 「寂しい」と言いかけて口を結ぶ。カチンとまな板の上に包丁が置かれて、義弟の唇がさっと頬に触れた。顔を上げて驚いて固まっていると「可愛い」とまた笑われてしまった。
 腕が伸びてきて、抱きしめられるかもしれないと思った直前、我に返ったように義弟が一歩後退して離れた。


「?」
「あー……ちょっと手が、玉ねぎ臭いので、後にします」


 手術を開始する直前の医師のように両手を掲げて、義弟が悔しそうに眉をひそめて笑った。さっきのは義弟らしくない突発的な行動だったのかと思うとおかしくて可愛くて、我慢できずに私から抱きつく。 


「あぁもう、だから、先に手を洗わせてください」
「いや」


 無抵抗の義弟に腕を回して、胸の中でくすくすと笑いながら甘えるようにくっつく。
 ちょっとしたことで機嫌を損ねたり、寂しくなったり嬉しくなったり甘えたり、最近の私は本当に忙しい。

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