義弟の舌

志貴野ハル

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3章

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 8月に入り、夫宛てに届いた暑中見舞いのハガキをどうすればいいのか確認するために、久しぶりに電話をかけた。
 赴任先の単身用アパートに引いた電話は、夫がちょうど帰宅する夜の時間にならないと繋がらない。
 義弟がお風呂に入っている間に、私は玄関先に置いた固定電話の受話器を耳に当てて応答を待った。五回目のコール音の後、「……もしもし」と低く不機嫌そうな声がした。手短かに用件だけを伝える。



「……あぁ、ハガキはまとめてこちらに送ってくれればいい」
「わかりました。他に何か足りないものはありますか?」
「いや、ない。大丈夫」



 それからほんの少し間の後、春と同じように「お盆は帰れないから」と念を押すように言われた。



「ええ、わかってます」
「もしかしたら今年は、年末年始も無理かもしれない」
「え、……そんなに忙しいんですか」
「あぁ、得意先の忘年会に参加するかもしれなくて」



 テレビをつけているのか、電話の向こうで聞き慣れない方言が聞こえる。ローカル番組でもやっているのだろうか、若い女の人の声だった。
 得意先の忘年会に出席するというのは今からもう決めてしまうものなのかと思ったけれど、しばらく会社勤めをしていないからわからない。というよりも帰ってこないなら、それはそれでこちらとしても都合が良かった。



「そうですか。すみません、忙しいのに帰ってきて早々電話して」
「いや、いいよ」



 横になったのか、ゴソゴソと衣擦れの音に混じって夫があくびまじりの声で言った。



「……ご飯は食べてますか?」
「うん」
「しばらくはそちらも暑いそうですから、体調には気をつけて」
「うん、そっちも」
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」



 通話が切れる。用件の後、食事や体調の心配をして、最後におやすみを言い合うのがルーティンになっていた。もう昔みたいに長々と変わり映えのない日常の報告をして「疲れてるから」と邪険にされることもない。私たち夫婦の関係は、必要な時に必要なことだけを報告をする上司と部下のようだった。



「電話、終わりました?」



 声がして振り向く。
 お風呂に入っている間に済ませたかったのに、いつの間にか居間と台所の間の廊下に義弟が立っていた。



「あ、もうあがったの……」
「はい、次どうぞ」
「ありがとう」



 義弟が台所へ麦茶を取りに行くのを背に、私も居間を通って寝室へ寝巻きを取りに向かった。扇風機とテレビはつけっぱなしにしてあって、今は番組と番組の合間にはいる明日の天気予報が流れている。
 麦茶を入れたコップを持って、義弟が居間のテーブルの前に座った。
 「じゃあ、行ってきます」と告げて服と下着を持ってその後ろを通る。


 あの雷雨の次の日から、私は義弟を母屋へ住まわすようになった。
 もともと義弟の家なのだから、「住まわす」というのは違う。戻ってもらうことにしたのだ。
 もちろん夫には伝えていない。言っても面倒なことになるのがわかっているから。
 義弟も、私の提案に初めは「兄に知られたら叱られますよ」と困っていたけど、前のような雷や嵐が来たら怖いから、夏の間だけでもいいからとしつこく頼み込んだら「それなら」と了承してくれた。ここに来て三年のうちに嵐も雷雨も何度かあって、その時は義弟に頼るなんて一度もなかったから言い訳にならないと思っていたのに。
 本当は私がただ同じ空間にいたいだけ。きっと義弟にも見透かされている。
 今日の電話で夫はお盆には帰ってこないと確定したし、これで少なくとも夏の間は義弟と一緒にいられる。随分前に経験して忘れかけていた、胸がいっぱいになるような甘い感情に包まれて、ここ最近は毎日が楽しかった。なんでもない日常のご飯も、買い出しも、掃除も、視界の端にはいつも義弟がいて充足感で満たされる。
 夜も、あの日以降タガが外れたように何度も私から義弟を求めるようになった。だけど一度も挿入されることはなくて、行為はいつも義弟の指と舌を使った愛撫だけだった。私たちの間では、それが今の関係を保つボーダーラインだった。

「最後までしたら、破滅するでしょう」

 義弟は、散々私をいかせておいて奈落へ突き落とすような冷静で冷酷なことを言う。私は一瞬だけ傷ついて、だけど今の生活を捨てて裏切ってしまった夫へ全てを打ち明ける勇気がないから、そこは納得するしかなかった。誰かに知られたらいけない。有限であるこの関係が少しでも長く続くなら。
 だけどどうしても欲しくなる。指や舌じゃ足りなくて、義弟が私のなかで果てるところを見たくなる。だから我慢できずに何度もねだった。理性を飛ばした義弟が、私を押しつぶすほど体重をかけて、私の体をめちゃくちゃに扱うのを望んだ。それなのに義弟は一度だって挿入してくれなかった。興奮して、下半身は強く反応を示しているのにつらくないのかと尋ねると、義弟は、ううん、と唸って「入れても多分、最後までできないと思います」と言った。どうしてかわからずにじっと見つめると、口を少し開けて何かを言いかけてから「……緊張するから」と少し気まずそうに笑った。

 そんなことを初めて言われて男の人の体は私が思っている以上に繊細なのだと知ったけれど、口淫すら拒否されてしまうと私ごと否定された気になって悲しくなる。あの夜、私が「好きだ」と言ってしまったから仕方なく相手をしてくれているんだろうかと、行為の後は寝静まる義弟の背中を見つめながら後ろ向きなことを考えてしまうが何度もあった。

 
 湯船から出ると、義弟は私が出てくる時と同じ位置に座ってテレビを観ていた。今日もいてくれたと内心ほっとして、隣に腰を下ろす。



「麦茶、飲みますか?」
「はい、でも、自分で取ってきます」
「いや、いいですよ。僕が」



 義弟がさっさと立ち上がって居間を出ていく。その間に私も寝室へ家計簿を取りに行った。
 今まで、夜はどうやって時間を潰したらいいかわからないくらい退屈だった。かといってテレビを観る気も起きずに、毎日、家計簿をつけて明日の朝食のことを考えてから眠りにつく生活だった。
 だけど最近は、以前と同じ時間に食事も入浴も済ませているのに夜が短く感じる。義弟が隣にいるからだ。大した話をしていなくても、同じ部屋で同じテレビ番組を観たり別々に違う本を読んだり、隣で家計簿をつけているだけで、あっという間に時間が過ぎる。



「家計簿ですか?」



 戻ってきた義弟がコップと麦茶の入ったポットをテーブルに置いた。



「あ、ありがとう。ええ、買い物に行かなくてもつい癖で見ちゃうのよね。何を買ったのかレシートを見て、献立を考えたりするのにも使うから」



「見てもいいですか?」
「どうぞ、でも何にも面白くないですよ」



 私の手元を覗き込むようにしている義弟の目の前にノートを差し出す。
 家計簿なんていっているけど、ただの大学ノートにレシートを貼り付けて線を引っ張って収支を書いただけの簡易的なものだ。一円単位で計算しないし、黒字であればそれでいいくらいのいい加減さで結婚当初から続けている。



「……そろそろ、働こうかなと、思ってるんですよ」



 ノートに目を落としてパラパラとページをめくる義弟が呟くように言った。



「えっ、体調は大丈夫なの?」
「はい、このところ、すごく調子が良いので。いつまでも、お義姉さんや……兄に、世話になるわけには、いかないですし。幸い、以前勤めていたところで、仕事を貰えそうなので、またそこで」
「で、でも、」



 また具合が悪くなったらどうするのだろう。義弟の前職は確か、ルポライターだった。ということは何か事件があったらそこへ取材に行くということだ。場合によっては遠方かもしれない。そうなればここよりももっと都会の交通の便が良いところへ引っ越してしまうのだろうか。



「働き出したら、この家を出ていくの?」



 頭で考えたことがどんどん飛躍して、突拍子もないことを言ってしまったらしい。義弟が「え?」と顔を上げてすぐに笑い飛ばす。



「ははっ、いや、まさか。こんな広い家に、お義姉さん一人にしませんよ。出るとしたら、今すぐじゃなく、兄が帰ってきてからでしょうね」



 義弟の仕事の話から、突然、夫の話が出てきて無意識に顔が強張る。



「あ、あの人は、帰って来ませんよ。さっきの電話でそう言ってましたから。お盆も、もしかしたらお正月も」



 私がそう言うと、義弟はみるみるうちに苦虫を噛み潰したような顔になって「……何してんだか」と呟いた。私もノートに触れる義弟の手へ視線を移して、苦笑いを浮かべた。今までだったら「仕事が忙しいから」と夫を庇うようなことを言っていたような気がする。
 優しい手つきでノートが閉じられて返された。



「もしこのまま、ずっと帰って来なかったら、僕と一緒に、この家を出ますか?」



 顔を持ち上げると、義弟が少し眉尻を下げて微笑んでいた。
 どんなに好きでも、私がこの家と夫を捨てて義弟と暮らすなんてできるわけがないと、義弟自身もわかっているはずなのに。
 こうして冗談を言って気を紛らわせようとしてくれているのはありがたい。だけどそれ以上に憐れまれていると感じてしまって、私はノートを受け取ると曖昧に笑顔を返した。



「……冷蔵庫の中、見てきますね」



 テーブルの上にノートを置くと、立ち上がって居間を出る。義弟の視線が背中に刺さって痛い。台所へ行き冷蔵庫の扉を開ける。
 一体どういうつもりであんなことを言ったのだろう。あそこで私が「はい」と答えたら本当に一緒に連れていってくれるのだろうか。果たせない口約束で喜べるほど、私はそんなに単純に見えるのだろうか。
(最後までしないくせに……)
 沸々と暗く嫌な感情が渦巻く。
 義弟の的外れな優しさは、時々、私を不用意に傷つける。
 これが情事の最中なら私はきっと何も考えずに手放しで喜んでいた。だけど今はそうじゃないから、考え無しの甘言を囁かれても、どうしたって最後には現実味のある方を想像してしまう。
 夫が帰ってきても来なくても、義弟が家を出るとき私はきっとついていかない。
 これはうつつだ。夫が帰って来るまでの、甘い夢だ。義弟もそのつもりで最後の一線を超えないのだと思っていたのに、どうして一緒に家を出るなんて言えるのだろう。
 近頃、かけてくる言葉がどんどん蜂蜜のように甘く重くなってくる。それを信じて期待していたら、いつかどこかで痛い目に遭いそうだ。
 
「明日は、買い物に行きますか?」



 食材の残りを確認する私の後ろに義弟が立ってなんでもない話題を振った。後ろから麦茶のポットを持つ腕が伸びてきて定位置に収められる。



「そうね、でもそんなにたくさんは買わないから、私一人で行ってきます」
「……怒ってる」



 私が振り向かずに答えたからか、義弟が含み笑いをしながら言った。



「怒っては、ないです」
「じゃあ、機嫌が悪い?」



 言い当てられて余計にムッとして、冷蔵庫の扉を閉じて向かい合う。さっきの軽々しい発言について一言言ってやるつもりで見上げたのに、目の前に立つと驚いてしまってすぐに目をそらした。声も尻すぼみになる。



「……だって、変なことを言うから」
「変?」
「心にもないこと」
「思ってなかったら、口にも出さないでしょう」
「嘘ばっかり」



 目を見ないまま言い捨てて義弟の横を通り過ぎる。用もないのに乾物をしまっている棚の前に移動した。また背後から義弟の視線をひしひしと感じる。
 義弟が悪いわけじゃない。私が貪欲になっただけ。前までは会話の中で出てくる口約束も将来の願望も流せていた。
 でも今はいちいち期待してしまう。喜んでしまう。だけどその後すぐに夫の顔がちらつく。義弟を罵っていた時の表情。あれが私にも向けられることを想像すると、やっぱり義弟の言葉は現実味がなく聞こえるのだった。
 今度は普段開けもしない棚の上の扉を背伸びをしながら覗く。そこは、古くなったり壊れて使わなくなったりした調理器具がしまわれているだけだった。いつかはここも掃除しないとと考えて、特に何もしないまま扉を閉める。



「お義姉さん」



 義弟がまた私を呼んだ。聞こえない振りをしてやり過ごすと、両腕が腰の辺りに巻き付いた。つま先立ちの体がバランスを崩して、義弟の胸にぶつかるようにして寄りかかる。



「あっ、ごめんなさい」



 さっきまでむくれていたくせについいつもの癖で謝ってしまった。くすくすと笑われてから我に返ると、肩を掴まれてあっという間に体を反転させられて向かい合う。今度は目をそらすことなく睨むように見上げた。義弟はずっと目尻を下げたまま私を見下ろしている。
 お互い黙ったまま見つめあって、義弟の手のひらが頬に触れる。先に根負けしたのはやっぱり私の方だった。視線がゆっくりと横に泳ぐのと同時に、義弟の顔が近づいてきた。毒気のない目で見られていると、自分がどうして機嫌を損ねていたのかわからなくなった。
 触れるだけのキスを何度かして、義弟が私の唇を舐める。それが合図のように私も屈む義弟の首に腕を回して応じた。
 どんどん深くなるキスの合間に、ネグリジェ越しにお尻を撫でられる。思わず背中を反らすと義弟の舌が離れた。



「……布団、行きますか」



 唾液で濡れた唇が耳の縁に触れて、低い声が鼓膜を震わせる。私は目を瞑ったまま義弟の肩口に顔を埋めた。
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