義弟の舌

志貴野ハル

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2章

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 急いでお風呂から出ると、雨が本降りになる前に義弟は服を取りに行けたようだ。
 見慣れた灰色の浴衣を横に置いて、居間の畳に座って雑誌を読んでいた義弟が私に気づいて顔を上げる。


「ごめんなさい、お風呂長引いちゃって」
「いいえ。では、入ってきます」
「はい、ごゆっくり」


 いつもの声かけをして義弟を見送った後に立ち寄った台所は、シンクも、油の跳ねたガスコンロも綺麗に磨かれていて、相変わらず四隅がきっちりと畳まれた布巾が作業台の上に置いてあった。それらを眺めながらコップに注いだ麦茶を飲む。

(……あぁ、今日の家計簿を書かなくちゃ)

 そう思いついて、使ったコップを軽くゆすいで水切りカゴに入れてから寝室に入る。
 寝室には昼間、義弟の使った布団がそのままにしてあった。枕が頭の形にへこんでいるのを見て、ついさっきまでそこで義弟が寝ていたかのように錯覚する。そうっと寝転んで枕に顔を埋めてみた。ほんの少し、いつもと違う匂いがした。

 見られても、私が普段使っている布団だから何も問題はないはず。そう思いつつも、むくりと起き上がって、念の為、居間の明かりはそのままにして寝室の襖をきっちりと閉めた。

 雨の音が激しさを増す。真っ暗な寝室に時折雷の閃光が入り込んで、その数秒後に獣が喉を鳴らしているような低い雷鳴が響き渡った。光と音の間隔が狭まってきているからきっとどんどん近づいているのだろう。
 もう一度布団の上に寝転んでうつ伏せになり、深呼吸のように息を吸い込む。

(義弟がまだ家の中にいるから、我慢しなくちゃ……)

 そう自分に言い聞かせて、緩慢な動きで起き上がる。
 突然、家に何かがぶつかったような大きな衝撃が走り、ブツン、と奇妙な音が鳴った。
 一瞬の静寂の後、また雨の音が強くなる。


「な、なに……?」


 何が起きたのかわからず、怖くなって居間と繋がる襖を開ける。明かりをつけっぱなしにしていたはずの居間が真っ暗になっていた。


「……停電?」


 今度は縁側の方へ行ってみる。うちの門扉の横にあっていつも白く照らしている街灯が消えている。停電だ。

(この家の懐中電灯はどこにあったかしら……)

 ここに来てから初めてのことで、頭が真っ白になる。見たことはあった気がしたけどそれがどこでだったか思い出せない。

 そうだ、義弟も、今はお風呂だ。大丈夫だろうか。
 壁に手をついて手探りで脱衣所へ向かう。直前まで暗い寝室にいたから暗闇に目が慣れるのは早かった。だけど、まだすぐ近くで鳴り響いている雷がいつ落ちるのではないかと怖くて、たった数メートルの距離でも大きな音がするたびに足がすくみそうになる。

 廊下の途中で義弟の名前を呼ぶ。思った以上に小さく掠れた声が出て、雨と雷の音にかき消される。今度は大きな声を出して呼んだ。


「お義姉さん、そこにいますか?」


 脱衣所の扉が開いて義弟が出てきた。


「は、はいっ」
「……停電ですね」
「あの、懐中電灯の場所がわからなくて」
「あぁ、確か、玄関の靴箱に」
「わ、わかりましたっ」
「止まって。僕も行きますから、そこにいてください」


 お風呂上がりの匂いと義弟の擦り足が近づいてくる。それだけで大分、落ち着きを取り戻すことができた。


「……あぁ、怪我はないですか?」
「大丈夫です。そちらは?」
「なんとか」


 こんな非常時にも義弟は全く取り乱すことなく落ち着いていた。

 「行きますよ」と先導して懐中電灯を取りに行く。
 義弟の言った通り、赤い懐中電灯は玄関の靴箱の上にあった。だけどいくらスイッチを押してもつかない。


「……電池切れですね」
「す、すみません、家のことなのにちゃんとしてなくて」
「いや、お義姉さんのせいでは。こんなの、普段、使わないでしょう。仏間に、蝋燭でも、取りに行きますか」


 そうだ、蝋燭があったのだった。今では私の方がここにいる時間が長いのに、焦ってどこに何があるのか、どうすればいいのかわからなかった。


「――きゃあっ」


 雷光が威嚇するかのようにまた近くで鳴り始めて、反射的に飛び上がる。


「……音、大きいですね。お義姉さん、手を」


 言葉を理解する前に暗闇から手が伸びてきて私のに触れる。


「行きますよ」


 義弟に手を引かれながら今度は仏間を目指した。



 仏間から蝋燭とマッチを拝借して手を繋いだまま居間に戻った。
 二本の蝋燭に火をつけて小皿の上に溶けた蝋を垂らして固定させ、少し距離をとってテーブルに置く。頼りなく揺れる光だったけれど、それがあるだけで安心感があった。
 ほう、と一息つくと隣に座る義弟が笑った。


「寝てしまえば、そのうち、復旧したんでしょうけど、怖かったですよね」
「ええ、音がすごく大きくて、電気も消えちゃうしそれでびっくりしちゃった。はぁ、まだ心臓がドクドク言ってる……」


 言いながら、ネグリジェの胸に手を当てる。義弟は胡座をかきながら肩にかけていたタオルで髪を縛るようにして拭いていた。十分に乾かす前に出てきて肩口が濡れてしまったのか、そこだけ着物の灰色が濃く見える気がする。


「貸して。まともに髪も拭けなかったのでしょう」


 そっと立ち上がって義弟の後ろに回った。髪をタオルで挟むようにして水滴を優しく拭き取る。


「でも、よかった。貴方がいてくれて。私一人だったら何もできなかったから、ありがとう」
「いいえ、お互い様です」


 「ありがとうございます」と義弟が笑った。
 ぽんぽんとタオルを動かすたびに蝋燭の火がゆらゆらと消えそうになりながら揺れる。

 今夜はずっとここにいてくれるのだろうか。それとも停電が直ったら離れに戻ってしまうのだろうか。もし復旧しても、私が頼んだらいてくれるだろうか。

 一生懸命タオルで髪を拭く素振りをしながら、義弟の髪を掻き分けて、湿った首の後ろの微かに出っ張った骨に触れる。

 それまでされるがまま大人しく前を向いていた義弟の首が、俯くように前に出る。だけど何も言ってこない。それをいいことに、そのまま膝をついて今度は背中を指先でそうっと撫でた。
 身じろぎするように肩が動いて、かろうじて引っかかっていたタオルがぱさりと畳の上へ落ちる。
 それを拾おうとせず、義弟が首だけを回してゆっくりと振り向いた。蝋燭の火が逆光になって、表情がよく見えない。
 数秒の沈黙。


「あ、あの」
「……はい」


 義弟の声が低く聞こえて、一瞬、喉が詰まった。馴れ馴れしく触り過ぎたのだと思った。
 その瞬間、家が明るくなり、数秒後、立て続けにけたたましく雷が鳴り出す。


「きゃあっ」


 私はまた情けない声をあげて飛び上がった。
 足がバランスを崩して尻餅をつくように畳に落ちる。
 義弟が素早く腕を伸ばして私の体を抱き寄せた。


「大丈夫ですよ、落ち着いて」


 義弟の腕の中で、音に反響した建具がカタカタと揺れているのが目に入った。
 家の敷地内のどこかに落ちたのではないかとますます怖くなって、無意識に義弟の浴衣にしがみつく。


「大丈夫、大丈夫……」


 子供をあやすような声で囁きながら、義弟の腕が私の視界を遮って、大きな手が頭や背中を優しく何度も撫でた。
 それからも喉に響くような雷は、近づいたり離れたりを繰り返した。
 大きな音がするたびに驚いて体が強張るから、離れるタイミングがわからずにじっとしていた。
 そのうちにとうとう一本目の蝋燭が尽きてしまって、居間がまた暗闇に戻る。
 「……お義姉さん」と私を呼ぶ声がした。義弟の腕の中で顔を上げる。


「今日はもう、寝ましょうか。布団を被ってしまえば、気にならないと、思います」
「え、……でも」
「大丈夫、復旧するまで、ちゃんと、横にいますから」
「ううん、電気が戻っても隣にいて。お願い」
「……わかりました」


 義弟に手を引かれて、寝室に入る。
 私が布団の上に横になると、義弟がその隣の畳の上に胡座をかいて座った。
 まさか朝までそうしているつもりなのだろうか。当たり前のように一緒の布団で寝てくれるものだと思っていたから驚いて声をかけた。


「どうしてそこにいるの。一緒に寝てくれるんじゃないの」


 腕を伸ばして義弟の脛あたりに触れる。
 しばらく無言で何か考えていたような義弟は、私が再度促すと観念したように布団の中に入ってきた。
 断られなくてよかった。自分が大胆な行動をしているのはわかっている。義弟が布団に入ってきてから、雷とは別の理由で心臓が忙しなかった。
 頭が隠れるくらい布団に潜っている私に対して、義弟は上半身が布団から出していた。
 抱きしめられた時と同じように義弟の胸がすぐ目の前にある。


「……お義姉さんは」


 すぐにでも擦り寄っていきたい衝動に駆られていたら、義弟の声が頭上から聞こえた。


「お義姉さんは、雷が怖いんですね」
「雷というより大きい音がダメなの。昔から。車のホーンの音とか男の人の怒鳴り声とか、びっくりしちゃう」
「あぁ、なんとなく、わかります」


 そんなことを言っているうちにまた寝室が一瞬だけ白く光った。
 またかと身を硬くしていると、義弟の手が布団越しの私の肩に添えられた。
 ぽん、ぽん、とゆっくり優しく叩かれる。
 今度はさっきよりも大分遅く、低い唸り声が到達した。


「雷、遠くに行ったみたいですね」
「……そうね、よかった」


 そう返してみるものの、いつ布団から出ていってしまうのかと気もそぞろだった。大きな音は怖いのに、止んでしまえば義弟が離れていってしまうかもしれない。もう少しこのままでいたい……。


「こういう時に、広い家に、女性一人は、嫌ですね」


 義弟は私の肩に手を置いたきり動かなかった。
 だけどときどき思い出したように、ぽん、ぽん、とあやす。


「でも、慣れました。それに今は一人じゃないです」
「……兄とは、連絡をとっていますか?」
「はい。今年のお盆は帰って来れないそうです」


 義弟が、首を動かしてこちらに視線を送っている気配を感じた。


「帰ってこなくて、いいですけどね。あんな奴」
「えっ」


 思わず顔を上げると、義弟が私を見下ろしていた。暗闇に慣れた目が薄笑いの表情をとらえる。


「新婚なのに、兄弟間の、見苦しいところを、随分見せたと思います。すみません」
「……ううん」
「でもあれが、僕らの普通ですから。お義姉さんは、見ていて、ハラハラしたでしょうけど」
「うん」


 あけすけなく言うと、義弟が声に出して笑った。夫のことを話題に出すのは気が引けて避けていたのだけど、案外、そうでもないのだろうか。だけど……。


「……昔からあんな感じなの?」
「まぁ、そうですね。小さい頃から、兄は僕を、目の敵にしてました。兄は、僕が、大人から贔屓されていると、思ってるみたいでしたけど。別にそういうわけじゃなくて、両親も、分け隔てなく、接していたと思うし。
 僕が、両親が好むものに、興味を持っていたからでしょうね。家で、共通の話題で、盛り上がっているのを見ると、一人だけ、仲間はずれにされたと、思うんでしょう。ただ、そればかりは、ね。
 僕は僕で、大人とは上手く話せても、同年代とはできなかった。その点、兄は友人が多くて。年子だから、昔は学年関係なく、遊んだりしたんですけど、僕の友人も、気づけば、兄の方にばかり、行っちゃいますし」


 長く喋り続けた義弟が、ふう、と溜め息のような息を吐いた。


「好きになった人も、取られるから、おちおち家に、呼ぶこともできない」
「え……」
「昔の話です」


 自虐気味に笑う義弟を、私も一緒になって笑い飛ばすことができなかった。
 たとえ昔であっても、義弟にもやっぱり恋人がいたのだろうか。義弟の好きになった人はどんな人だったのだろうか、そればかり気になる。


「お義姉さんは、兄のどういうところが、好きだったんですか?」


 話の流れがこちらに切り替わった。

 どういうところ……。そう聞かれて思い出したのは、付き合う前の夫のことだった。
 彼は最初、私の勤めている病院の営業として来た。目鼻立ちがはっきりしていてガタイが良くて、すごくハキハキと話す人で、人の顔をすぐ覚えて、ただの地味ないち看護師の私にも明るく話しかけてくれた。
 その頃、余命いくばくもない終末期患者の対応をしていた私にとって、活力のみなぎっていた夫はテレビの向こう側にいるような人、それこそアイドルのような存在だった。
 私だけじゃなく、病棟の看護師誰もが営業周りでやってくる夫を待っていた。夫は誰からも好かれる人気者だった。

 でも、今は――。 今の夫で真っ先に思い出すのは単身赴任をする直前の、義弟を離れに追いやった場面だ。見開いた目で、微かに上がった口角で、義弟を罵っていた。あれほど悪意を隠そうとせず醜く歪んだ人の顔は、私は見たことがない。
 夫に対して、好きという感情はない。代わりに芽生えたのは恐怖だった。


「……もうずっと会ってないから、忘れちゃいました」
「寂しくはないですか?」


 義弟の問いに思わず吹き出す。
 私が強がっているように見えたのだろうか。だとしたら本当に的外れだ。


「全く、寂しくないです。最近は、誰かさんが元気になって、お花のことを教えてくれたり、美味しいものを作ってくれたり、買い物に付き合ってくれたり、本を貸したりしてくれるので」
「……それはそれは、なかなか、充実しているようで」


 義弟が、ふ、と小さく笑った。


「ええ、おかげさまで」


 外は相変わらず雨が強く降っているけれど、軽口を言えるくらいの余裕が出てきてお互い笑い合う。


「本当に、どうして、結婚しちゃったんですか、あんなのと」
「あ、あんなのって、酷いこと言うのねぇ、自分のお兄さんに」


 布団の中でくすくすと笑うと、反対に義弟は押し黙ってしまった。
 どうかしたのかと首を伸ばす。義弟の目がぎらりと光ったように見えた。肩に置いた大きな手が動いて、私の額から後頭部をゆっくりと大きく撫でてきた。優しいようで少し乱暴にも思える行為に私の体はほんの一瞬硬直し、だけどすぐに目を瞑って委ねた。

 「……もう少し」と義弟が独り言のように呟く。義弟の温かい手が、私の耳を覆った。


「もう少し早く、兄よりももっと先に会って、こうして一緒になれたらよかった」


 聞こえない振りはできなかった。目を開けてしまった。


「ダメですね、兄弟っていうのは。嫌なところが、似てしまう」


 お互いの視線がぶつかって、観念したように義弟が眉を下げる。


「……わ、私も」


 声が震える。言ったらダメだとわかっているから余計に。


「私も、もっと早く会いたかった」


 そう言ってしまってから、「違う」と思った。
 変えられない過去を後悔したいのではなかった。


「好きです」


 自分の声が、今度ははっきりと通った。
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